180日目 たとえこの手に刃なくとも
七転び八起きと言う格言がある。どんなに躓いても決して諦めず前に進むという意味だ。しかしこういう意味にも取れないだろうか? 人生で転ぶのは一回や二回じゃ終わらない、と。
そしてこんな言葉もあった。一進一退。一歩前に進んだかと思えば、別の問題が発生して一歩後退するという切ない話である。
リアルな現実に基づいただろう四文字熟語は、様々な示唆に富んでいた。禍福は糾える縄の如し。幸福と不幸はかわるがわる訪れるのだ。
「つまりそういう事なんだ」
長々と答弁したあと、ちらりと視線を向ける。
相変わらずこちらを睨みつけてくる飛天さまの姿がそこにあった。
溢れる怒気が怖い。僕はぎこちなく笑みを浮かべて続けた。
「どうやったって上手く行かない時があるよね? 今がちょうどそんな時なんだ。僕は本当に謝りたかっただけなんだ。怒らせるつもりなんて……多分無かったと思う」
「おいコラ、どうして最後があやふやになるんだ? 多分ってなんだ多分って」
鬼とは隠が起源だと言う。
闇の中に立つ女剣士。
その背中からは得体の知れないプレッシャーが広がる。まるで鬼のようだ。
「つまり、我のことを虫みたいに思っているのは貴様の本音なんだな?」
「わ、悪い意味じゃないよ!? いい意味でね!」
「いい意味などあるか! たわけが!」
「ひぃ!?」
怒りと共に振り抜かれた竹刀の一閃が闇を切り裂く。ついでに僕の服にも掠り、丈夫な布をやすやすと切り裂いた。まともに当たると胴体に風穴を開けられそうな威力だ。
「やはり貴様とは決着を付ける必要があるようだな……! さあ剣を抜け!」
「け、剣なんて持ち歩いて無いです」
「ならばその辺に落ちている小枝でも拾え! そして村雨なり正宗なり好きな名前をつけろ! それが貴様の剣だ!」
「今時小学生でもやらないよ!? そんなこと!」
「ええい、四の五の言わずにかかって来んか!」
飛天さまは、むきー! っと金切り声を上げる。
ダメだ、完全に頭に血が上っている。
一体誰のせいでこうなってしまったんだ? 僕のせいか……。
こうなったら、剣無しで対抗するしかない。
小枝で対抗なんて論外だ。僕は冷えた思考でこの先に取るべき行動のことを考えた。
(武器を持った相手に素手で挑むにはどうしたらいい?)
冴えた頭にふっと思い浮かぶ概念がある。
無刀。それはかつての剣豪が編み出した至高の技だ。
剣豪というイメージからさらにジイちゃんの友達を連想する。老成した剣士、トシちゃん。清流に佇む巌のような老人の言った言葉を思い出した。
――油断するなよ。その少年は、形無しと呼ばれた男の孫だ
剣技とは太刀筋だった。
刃の進むべき場所は相手の喉元であり、手首であった。命を奪うための軌道。太刀筋とは命を終わらせるための道筋だった。
当然ながらその防ぎ方も考案された。命に迫る軌道を防ぎ、捌く。人の体の面積には限りがあり、剣を当てるべき場所も定めがある。故に、防御の方法が編まれるのは必然だった。
防がれる太刀に意味は無い。だからこそ剣客は無限の太刀筋を求めた。相手に防がれないための軌道が日夜研鑽された。
限りがある急所に対し、刃の進む道を無限に広げるにはどうすればいいのか? 太刀筋を縛り上げる要因は何か? それは剣に形を求めることだった。
刃の筋に無限の軌道を求めるのならば。剣に形があってはならない。
剣を振るうために剣を捨てる。相反した理念を僕は自然と受けれ入れていた。
この手に剣が無くとも、心にはそれがある。形の無い剣。それは相手の剣に触れることなく急所を貫く。視線を険しくし、対峙している宿敵に向かって短く告げる。
「ならば見せてあげるよ、僕の剣を。無刀の精神を……!」
「むっ!?」
竹刀を構える飛天さま。その前に立ちながら、僕の意識は闇の中に浸透していく。
澄んだ夜の匂いが鼻腔に広がった。
意識は純粋になり、肌に触れる大気と足元を流れる大地の気道を感じ取る。
体は自由に動いた。
スロー・モーションの世界。
周りの時間がまるで止まっているかのようだ。その時間の中を僕だけが動く。
飛天さまが何も反応出来ない内に、僕は行動を終えていた。
「……なんのつもりだ?」
「土下座です」
「無刀の極みはどこにいった!?」
「これが僕の無刀だ!」
相手の勢いに負けないように声を上げる。
土下座を続ける僕の頭には、かつて聞いた老剣士の言葉が甦っていた。
――戦う前にデタラメな事を言い、相手の気勢を削ぐ技
それは若き日のジイちゃんの使っていた戦法だった。剣は剣にして剣に非ず。たとえこの手に刃が無くとも……人の急所は突ける。その確信と共に声を張り上げた。
「無刀とは、覚悟の極みとみたり!」
相手に叩き付けるようにして言う。
その言葉はすぐに夜の闇に融けて消えた。
シン……と静まり返った路上には、僕と飛天さましかいない。
やがて飛天さまは重々しく口を開いた。
「……覚悟だと? そうして土下座をすることが貴様の出した答えだと言うのか?」
「そうだ! ……闘う理由が無い。僕は本当に、ただ謝りにきたんだから」
言葉は見えない軌道を描いて宿敵の心に届く。そのはずだ。
僕自身にもその軌道は見えない。
白刃の一閃、その太刀筋を想像する。
言葉を抜き放った後に不安は無く、ただ届くと信じていた。
「我が……」
土下座を続ける僕の首の上に、ピタリと竹刀の切っ先が止まる気配がした。
「構わず斬る、と言ったならどうだ?」
後悔。不安。焦燥。
冷たい殺意。その感触は、僕に様々な感情を喚起させる。
それらを全て飲み込み、腹の底から言葉を滲ませた。
「それでも僕のやるべき事は闘うことじゃない。勝利とは為すべき事を為すことであって、力を誇示することじゃないんだ」
己の選んだ言葉。決意を強く強くイメージしながら顔を上げる。
「僕はそう信じる」
飛天さまの素顔はお面に隠れて見えない。見えない向こう側から彼女の声が響く。
「それは無力な者の抱きがちな幻想だ。分かるか? 力無き者の言葉に運命は変えられぬ。たとえどんなに崇高な理念を説こうがな。その為に我は剣に答えを求めたのだ」
「こうして!」
飛天さまのセリフを途中で遮りながら言う。
「こうして僕は土下座することを選んだ。闘わない道を選んだんだ。剣を突きつけられたからと言ってそれを止めるのなら、それは弱さだと思う。あんたに譲れない物があるように、僕にだって譲れない一線がある!」
無言の対峙が続く。
永遠にも一瞬にも思える時間が流れた後、頭上から冷たい雨のような言葉が降ってきた。
「ならば、死ね」
首のすぐ上にあった竹刀の気配が遠ざかる。
振り上げられた勢いそのままに、その一撃は振り下ろされた。
退け! 飛び退け! 横に転がれ!
頭の中に響く悲鳴を無視すると、僕は覚悟を決めて目を閉じる。
愚かな選択をしてしまっただろうか?
今さら後悔しても遅いと笑う。そんな僕の脳裏には、かつて誰かから言われた言葉がリフレインしていた。
――わたしはあなたの選択を誇りに思うわ
誰の言葉だったっけ?
思い出せない。先輩の微笑む顔が記憶の中で再生される。
そんなはずが無かった。捏造された思い出を訂正する間も無いまま。
全てが終わった時、竹刀の切っ先は首に当たる寸前で止まっていた。
「……動かなかったな」
疲れたように声を出す宿敵の女に対し、僕は軽い口調で返した。
「動くつもりが無かったからね」
「いちいち人を苛つかせる男だ」
言葉の端々に本当に苛立たしげな様子を窺わせながら、飛天さまは言葉を続けた。
「我が本当に打ち込んでいたらどうするつもりだった? 我は冗談が嫌いだ。力無き者の言葉に耳を貸すほど、愚かな人間になるつもりは無い。人に何かを語りたいのなら、覚悟があるはずだ。覚悟があれば修練を積んでいるはずだ。人は、剣で語るべきなのだ」
「あんたは何もしなかった」
「結果論だ。……剣を止めたのは、ただの気まぐれだぞ」
「もしもあんたが剣を止めなかったとしても。たとえそれで僕が死んでいたとしても、」
お面の穴から見える女剣士の瞳を真正面から見据える。強い強い気持ちを込めて言った。
「少なくとも、僕は負けてはいなかった」
言葉は届いていたのだから。
飛天さまは大仰に腕を組んでみせた。
「意地、か」