170日目 忍法・不動金縛りの術
路上での二回宙返りはまず危険ですので絶対に真似しないで下さい。
(一般的には無理でしょうが一応…。もちろん宙返りも危険です)
「う~む……?」
生物の授業を控えた教室の中で、僕は自分の席に座りながら呻いた。
尽きない悩み。そんな懊悩の声が掻き消されるほど、周りはガヤガヤと騒がしい。
短い休憩時間をそんなに謳歌したいのだろうか?
時は金なり法隆寺。
どんな言葉でも最後に法隆寺を付けると歴史の重みを感じる。
沈黙の法隆寺。進撃の法隆寺。驚きの効果だ。さすが伝説の木造建築物は格が違う。
「何を悩んでいるのよ? また忍法の事でも考えているのかしら?」
冷蔵子さんが、その碧い目を半眼にしながら僕を見下ろしている。
ふふふ。まさか法隆寺の万能性を検討しているとは気付くまい。
しかし忍法的なことに悩んでいたのも事実だったので、僕は素直に頷いた。
「当たらずとも遠からずかな」
「遠ざかりなさいよ。いい加減に」
いよいよ呆れた、という視線をこちらに向けながら、彼女はマシンガンのように矢継ぎ早に言った。
「バカなのかしら? どうして貴方は忍者から離れられないの?」
「いやそんな、人を忍者マニアのように……」
「違うのかしら?」
「マニアじゃないよ。ただの趣味じゃ無いんだ。強いて言えば……」
「強いて言えば?」
言葉を繰り返す冷蔵子さんに、毅然とした視線を返す。
「宿命なんだ。実を言うと、僕のジイちゃんが忍者でね」
滑らかに動く舌に従いながら。僕は言葉を続ける。
「抗えぬ血筋の定めって言うのかな? 僕もいつかは忍者の技を受け継がなきゃいけないんだ。今まで目を逸らして来たんだけど、そろそろジイちゃんが痺れを切らしてね。だから僕の人生の先達となるような人、つまり忍者の人生を選んだ人がどこかにいないか、ずっと探してるってワケさ」
言葉を言い切った後には沈黙があった。
僕のセリフを吟味するように、冷蔵子さんは口元に手を当てて考える。
数瞬の思考。そして彼女はゆったりと口を開いた。怖いくらいの真顔だ。
「……ずばりその話、嘘でしょう?」
「まあね」
向けられる眼差しに臆することも無く、僕はさらりと答えた。
笑顔を浮かべる彼女。笑顔を返す僕。輝くような時間中で、冷蔵子さんの手がそっと僕の手を掴んだ。
「えいっ」
「痛い痛い痛い!! ギブギブギブ!!」
ちょっとした小粋なジョークじゃないか!
どうしていちいち指を折ろうとするんだよ!? 止めて!!
……なんて、叫んでおいてあれだけど、実際には全然痛く無い。
曲げられた指。その角度は浅い。つまり冷蔵子さんはまだ本気では無いのだ。
だが僕には経験があった。壮絶な痛みの経験が僕に行動を起こさせる。
これをパブロフの犬効果と呼ぶべきなのだろうが、そうすると僕は犬なのか。
犬のような健気な気持ちで視線を向ける。僕の指を捻じ曲げようとする少女は、それがまるで当たり前の行為であるかのように何の躊躇いも無い様子だった。
「そろそろ真面目に生きようとは思わないのかしらね」
「真面目に生きてちゃ届かないラインってのがあるんだ」
「なによそれ?」
さらりと前髪を揺らしながら訊いてくる冷蔵子さんに、僕は淡々とした口調で答える。
「他人の視界をジャックできる男と競い合うことになってね……」
「視界をジャック?」
まるっきり分からない、とでも言いた気な声。澄んだ高音で響くその声をバック・グラウンド・ミュージック代わりにしながら、僕は昨日の放課後に思いを馳せていた。
■回想スタート■
「やはり、やった事も無い技は出来ないか。ままならない物だ」
知床兄が静かに呟いた。
ぶっつけ本番で伸身の二回宙返りを成功させた男。その瞳は、バイク用のゴーグルに隠されて見えない。
いや正確に言えば、回りきれなかったので一回転半になるのだろうか?
ジャンプした時の高さが足りなかった彼は、咄嗟に技を切り替えたのだ。
「ひゅ~、肝を冷やしたわ」
額に浮かんだ脂汗を拭う大阪さんに、知床兄は無感動な声で呟いた。
「俺の負けのようだな。つまり俺は大したことが無いようだ」
「そんなこと無いとよ!!」
意気消沈? する兄に向かって知床弟が叫ぶ。
「兄ちゃんは踏み切りで滑ったから高さが足りなかったばい! それを咄嗟にカバーした兄ちゃんはやっぱり凄いたい!!」
さすがにそれはひいき目じゃなかろうか?
先ほどの勝負、どう考えても技を成功させた先輩の方が凄いだろう。
しかしその思いは口にしないまま、僕もまた知床兄に対して賛辞を贈る。
「いやでも、絶対に頭から地面に突っ込むと思いましたよ。よく体勢を立て直せましたね」
「せやな。ほんまお前は、変なところで器用やわ」
大阪さんにも言われ、知床兄はむず痒そうにゴーグルを弄っている。そして照れ隠しのようにそっと口を開いた。
「視えたからな」
「見えた? なにがや?」
「高さが足りなかった。それが視えた。だから切り替えた。当たり前の話だ」
こいつは何を言っているんだ? 僕がそんな視線を知床兄に向けていると、大阪さんは自分でも今思い出したと言わんばかりに説明を始めた。
「ゆうたやろ? こいつは他人の視界が見えるって。つまりや、あの女が跳んだ時に見た視界を、こいつは完全に把握しとるんや」
そう言って、離れた位置に立つ先輩を見つめた。
僕らの視線の先で、先輩はてくてくと暢気な足取りでこちらに近付いていた。
先輩はジッと知床兄の姿を見つめている。
自分と競い合った相手に対し、一体どんな思いを抱いているのだろう?
優越感だろうか? それとも敢闘を称え合っている? それとも……。
何だか知らないけど、心臓がドクンドクンと大きく脈打つ。
僕らの元まで来た先輩。その唇がそっと開かれた。
耳を澄ますようにして、僕はそんな光景を見つめている。
「まさに忍法・写し身の術だね……! 少年、彼こそが現代に生きる忍者だよ」
「ええっ!? そういう判断ですか!?」
「そうか。俺は忍者だったのか」
「あなたも何を言っているんですか!?」
あっさりと忍者説を肯定する知床兄。
驚きの声を上げる僕に、先輩はさらに驚くべき提案をしてきた。
「とりあえず、少年の目標は写し身の術を覚えることだからね」
「えっ!?」
写し身の術? 写し身の術って……。
つまりあれか。先輩は僕に対して、ぶっつけ本番で二回宙返りにチャレンジしろと言っているのか。
しばし考えてから、僕は口を開いた。
「ストリート最強の影、その片割れとして言っても良いですか?」
「いいよー」
「無理です」
「む~? じゃあ同じくらいの技を覚えること。それが出来ないとシノビーズ失格だからね」
「クビですか? 大阪さんと同じ扱いは嫌だなぁ」
「おいコラ、ちょっと待てや坊主。誰と同じ扱いが嫌やって?」
むんず、と肩を掴んでくる大阪さん。そこから僕と大阪さんによる鬼ごっこが始まるのだが、それはどうでもいい事だろう。
■回想終了■
つまり僕は知床兄と同じくらいの技を出せないと。大阪さんと同じ立場になってしまうのだ。それだけは避けたいところだ……!
視界をジャックってなんなのよ? と訊いてくる冷蔵子さんに、僕は自分でもよく分からない事を説明するはめになった。
「僕の挑むべき相手さ。そいつは他人の見ている視界を視れるらしいんだ。つまり足を踏み切る位置、空中で回転技を繰り出す時の感覚を、一度見ただけで掴むとんでも無い奴さ」
僕の言葉を聞いた冷蔵子さんは、どこか楽しげな声で言った。
「それはどんな忍法なのかしら?」
「忍法?」
軽やかな声で語る彼女に対し、僕は真顔で答える。
「忍法とか真面目に言ってるの? 現実の話だよ」
冷蔵子さんは無言で僕の背後に回った。見えない背中側から、冷蔵子さんの腕がしゅるりと伸びてきた。
それは僕の首の皮膚にこそばゆい感触を這わせながら巻きついてくる。そして――
「不動金縛りの術……!」
「ぐわっ!? く、苦しい!」
これは不動金縛りの術じゃない! チョーク・スリーパーだ! でも何で!?
よく分からない理由で謎の技をくらいながら、僕は薄れ行く意識の中、彼女の繰り出す現代忍法への対処方法を模索するのだった。