169日目 超人と天才の戦い
走る。走る。走る。
理由も分からないまま僕らは駆け抜ける。
広大な公園の中を、緑の木々の中を、穏やかな西日の果てへと走り抜けて行く。
速度は確かな距離をもって僕らを世界から切り離していった。
渦巻く気流、風の流れに包まれる体。
空気は密度を増し、周囲の音は遠ざかっていく。
宇宙船のカプセルのように、ひっそりと閉じ込められた音の世界。
外界から切り離された僕らは、内なる世界で言葉を紡いだ。
「大阪さん、このバトルの採点基準って何ですかね?」
大事なことなので確認しておこう。
わずかに前を走る大阪さんは、一瞬だけこちらを振り返ってから言った。
「……基準ちゅーてもやな、ノリやノリ」
「さいですか」
あんまり大事でも無かった……。
短く返事を返すと、僕はそのまま遥か前方を見やった。
そこには先輩と知床兄の背中が見える。
先輩達は何を願い、何を賭けて競い合っているのだろうか?
その心中は計り知れない。
情熱、希望、誇り。
単純には言い表せない数々の想いを賭けて。
単純には言い表せないから、結局は僕らのノリで優劣を決められる運命なのだ。
「なんか……切ない勝負ですね」
ノリで決められるってあんまりじゃないだろうか?
そんな事を考えていると、隣を走る知床弟がいきなり大きな声を上げた。
「ノリが大事とよ! エクストリーム・スポーツは気合! 選手と観客が一体となって作り上げるたい!」
なんじゃいそりゃ? と首を捻っていると、大阪さんが知床弟の補足をするように続けた。
「エクストリーム・スポーツはな、坊主。別に基準が無いわけやないけど、自分や観客がどれだけ楽しんだかーいう所が重要なんや。そういう点では、若いスポーツなんやろうな」
「若いスポーツ?」
「せや。俺が思うにな、どんなスポーツでも最初はプレイヤーと観客は一体やったんや。それが長いことやってると、あれはダメや、これはダメやとなってきて、いつしか両者が切り離されてしまうんやな。きちっとした決まりも必要なんやろうけど、ノリを楽しめゆーそいつの気持ちも大切やと思うわ」
ああなるほど、そういうのは何となく分かる。僕は密かに頷いた。
大人達はルールを作りたがり、ルールの中で生きようとするからだ。
ルールは言葉だった。それは石版に書かれていたり、羊皮紙に書き綴られて死海のあたりに隠されていたり、木をわざわざ短冊状に切った物を用意して伝えられてきた。
人々は言葉に不変を求めた。だから文字を作り、何世代にも渡って教え続けたのだ。
そして言葉はその希望に応じた。何千年の時を超え、僕達は誰かの言葉に従っている。
(でも、心は言葉から離れて行く――)
感動は言葉で言い表せない。
それは心の海に起きた漣であり、いつしか消えてしまうものだからだ。
あの時感じた心臓の高鳴りも、耳に酷く響いた音も、あるいは僕ら自身の鼓動も。
いつしか消えてしまうのなら、言葉で表すことなど出来ない。
言葉は不変を実現し、だからこそ心から遠ざかっていく。
僕らはいつかはルールを否定するだろう。
永遠に変わらない物など無い。変わって、それでも続いて行くのだ。永遠に。
「おっ!? ついに始めるようやな」
急に響いた声。僕はハッと我に返った。
「最初は小手調べのようや」
大阪さんの言葉に促されるようにして、視線で先輩の背中を追う。
先輩は真っ直ぐに木に向かって突進していた。
(先輩!? 一体なにをするつもりなんですか!?)
いくら先輩でも木は薙ぎ倒せませんよ!? 危ぶむ僕の前で、先輩は軽やかに跳躍した。
高く飛び、幹を蹴りつける。その反動を利用して空中でグルリと一回転した。
肩まで伸びた髪がバサリと弧を描く。僕は思わず賛辞の声を上げた。
「おおー。さすが先輩、華麗ですねー」
「あのくらい兄ちゃんだって軽くこなせるばい!」
先輩の後を追いかけるように走る知床兄。まるで先輩の動きをリピートするようにジャンプした。先輩がしたのと同じ様に木を蹴りつけ、同じように回転する。
「まずは互角やな」
二人の姿を見つめながら、大阪さんは淡々と呟いた。
車止めの立ち並ぶ道に出る。先輩は当然の如く車止めの上を駆け抜けた。
円柱型の鉄柱を小さな足場にして、着地とジャンプの繰り返しだ。
かなりのバランス感覚が要求されるアクションだろう。
しかし微塵も臆すること無く、知床兄も同じ様に車止めの上を走り抜ける。
僕はその姿に何か違和感を感じた。
「んん? あれ、なんだろう?」
「どうしたんや? 坊主」
「いや……なんでも無いです」
おかしい。何かがおかしいけど、上手く言葉に出来ない。
葛藤する僕に気付いた大阪さんは、面白がるようにして言った。
「そろそろ坊主も気付いてきたようやな……!」
何の事だろう? どうやら大阪さんは違和感の正体に気付いているようだ。
その答えを僕が尋ねる前に、知床弟があっさりと答えた。
「兄ちゃんは天才ばい。その証拠に、今もあの女の人の動きを完全にトレースしてるたい」
うええ? マジで!? どうりで同じ光景を何度も見ると思ったよ!
先輩と知床兄の動きは全く同じ動き過ぎて、まるでリピート映像を見ているようだ。
違和感の正体に気付いた僕に、大阪さんはどこか自慢するように言った。
「知床兄、またの名を和泉の王。奴はな、坊主。他人の視界が見えるらしいんや。ほんまに見えるわけや無いんやろうけど。ま、世の中にはよう分からん奴がギョーサンおるってわけや」
た、他人の視界が見える!? 超能力者かよ!?
いくら先輩とは言え、そんなアメリカン・コミックスみたいな奴に勝てるのか!?
「先輩!?」
どう忠告すればいいのか分からないまま、ただ先輩に呼びかけた。
しかし先輩はただただ不敵に笑っている。そして颯爽と言い放った。
「ふっふっふ。意外とやるようだね! そろそろ本気だすよ!」
そこから先輩の走る速度がグンと増した。
強く優しい足音。その音が、地面を通して僕にまで伝わってくる。
鼓動のように。産声のように。
どこまでも純粋で力強い音を、僕は感じていた。
翻るように、泳ぐように。大気の海をかき分けながら。
先輩は足を踏み込む。側転、バク転、そして――。
まるで踊るように回転しながら、先輩の身体は高く高く舞い上がった。
「こ……後方伸身二回宙返り!? しかも捻りを加えとるやと!? ここは路上やぞ!! ほんまに人間かあの女は!?」
人類の限界に近い動きを繰り出した先輩。
そんな先輩を前にして、喉から何かが飛び出そうなほどの勢いで叫ぶ大阪さん。
ただただ知床弟だけが、己の兄の勝利を信じていた。
「負けるな兄ちゃん! いっけー!」
「さすがにあの技は……ええっ!? マジでいったーーー!!」
出来るわけ無い、と言いかけた僕の前で知床兄はスピードを増していく。
僕らの見守る前で、先輩と同じ様に一段と鋭く地面を蹴った。
側転、バク転、そして――。
ズルリ。
そんな音が聞こえたような気がした。
一秒にも満たない絶望。そして見守る僕らの気持ちが一つになる。
(((アカン!!)))
体を伸ばした状態で宙返りするには……さらに二回転して捻りも入れようとするなら、必要とされる諸々の要素があった。
全身のしなやかで強靭な筋肉。踏み切るときの速さ。そして、空を跳ぶことへの勇気。人間の壁を幾重にも破った境地にその技はあった。
知床兄はその幾つかの要素を持っていただろう。速さ、筋力、勇気。だが彼には欠けている物がある。それは言葉には出来ないほど些細な部分だ。
しかし明確に分かる部分もあった。踏み込みを失敗したこと。恐らくはこの技に対する経験が足りないだろうこと。そして何よりも……高さが足りていなかった。
「アカン、あれは頭から突っ込むんやないか!?」
「兄ちゃーーーん!!」
「お、終わった……?」
人は重力には抗え無い。視線の先で、知床兄は頭を逆さにして地面に近付いていった。ああ、時間がスローモーションのように流れていく……!
(――いや、違う!?)
僕は唐突に気付いた。知床兄は確かに動きの速度を変えている。彼は自らの身体をコントロールし、空中で自在に重心の位置を変えているのだ。
瞬時に行われたその神技は、澱みなく次の動作へと繋がっていく。焦りを少しも感じさせない表情で。知床兄はゆったりと両手を突き出した。
腕から地面に着地する。腕は、滑らかな動きで衝撃を受け止めていた。重力と遠心力は指先から真っ直ぐに腕を伝っていく。決して一点には留まらない。
そして難なく前転をこなすと、知床兄は何事も無かったかのように立ち上がった。服に付いた誇りを手で払うと、ライダーゴーグルの奥に隠れた瞳で宙を見上げた。
「やはり、やった事も無い技は出来ないか。ままならない物だ」
ぶっつけ本番で伸身の二回宙返りを成功させた男は、遠くを見るようにして残念がっていた。