164日目 そして序章はさりげなく始まる
男のくせに長い髪。さらに何故かワンピースを着こなしている。久々に会う遮那は、猫科動物のように大きく鋭い瞳を僕に向けていた。
まるで少女のように大きな瞳だ。よく女の子に間違われる年下の親戚の少年は、何故かその顔に剣呑なものを漂わせている。そして口から発する言葉にも切れ味を感じさせた。
「その女は誰なの? 兄さん」
「誰って……」
顔は笑ったまま、眼差しだけ鋭くする遮那。咎めるような視線を受けながら、僕は腑に落ちないものを感じていた。……なんで睨まれているんだろう?
「誰って言われても、先輩だけど」
とりあえず返事をしてみたものの、自分で考えても間抜けな言葉だった。
先輩は僕の先輩であって、遮那の先輩では無い。ではどう言えばよかったのか? 友達、とも少し違うしなぁ。
「この前の人と違う人だね」
軽く懊悩する僕に向かって、女装癖のある親戚はますます笑みを強めた。その笑顔を見ていると、どうしてだろう、インパラの喉元を狙う時のトラの顔をイメージしてしまう。
笑顔は相手を威嚇する行為が元になっているらしい、なんて豆知識が頭に浮かんだ。目に見えない透明なプレッシャーに威圧されていると、先輩が何やら呻くのが聞こえた。
「むむむ! 彼は……女の子?」
「先輩?」
視線を向けると、先輩は眉間に皺を寄せている。遮那の性別を悩んでいるのだろう。冷蔵子さんは奴のことを女の子だと思い込んだんだっけ、と思い出しながら、僕は先輩に顔を向けて言った。
「いや、男ですよ男。女の子みたいな格好してますけど、昔から変な奴なんです」
「う~ん……そういう事じゃなくてね」
「? じゃあどういう事ですか?」
何故か考え込む先輩。う~ん、なにを悩んでいるんだろう? 思考の迷路を彷徨う先輩を眺めながら、僕も少しだけ考えてみる事にした。
どうして遮那は女の子みたいな格好をするのか? もしかしてそれが奴の持ちネタなんじゃないだろうか。
(なんで女装してんだよ、というツッコミを待っているのか……なるほどね)
薄皮を剥ぐように分かり始めた真実。出会い頭にちょっとした笑いを取る。そのためだけに、奴は雨の日も雪の日もガールズ・ファッションに身を包むのだ。
しかし過ぎたるは及ばざるが如しである。あまりにも女服が似合い過ぎたがために、ボケは成立しなかった。
まるで忠犬ハチ公のように、誰からも入れられないツッコミを待ち続ける遮那。不憫な親戚は、不可解な色の灯った瞳で僕と先輩を見つめていた。
「先輩、ね……」
掴みどころの無い声で呟く遮那。茫洋とした表情を一転、くっきりとした笑みを浮かべると、やおら明るい口調になって言ってくる。
「それにしても酷いね、兄さん。変なヤツ呼ばわりかい? このワンピース、ボクは自分でも似合ってると思ってたんだけどな?」
似合ってるから余計におかしいんだろう。ツッコミが入れ辛いんだよ、とは言わないまま、さっきから気になっていた事を指摘することにした。
「どうでもいいけど、裾が短すぎるんじゃないのそれ? トランクスが見えそうだぞ」
ワンピースの裾は色々とギリギリのラインだった。何がギリギリなのかは深く考えたく無い。あるいは遮那の人生そのもののラインとも思えた。
男のくせに、静脈まで透けて見える真っ白なフトモモ。それが惜しげもなく披露されている。自慢気に肌を晒しながら、遮那はこちらに向かってからかうような笑みを見せた。
「見たい?」
「見たく無い! 見えないように気をつけろって言ってんの!」
そりゃパンツ一丁で笑いを取るという手段もある。学園祭でよく見た光景だ。女装で滑った遮那は裸ネタで笑いを取ろうと言うのだろう。手段を選ばない奴である。
しかし裸ネタで滑ったら、待っているのは冷たい檻だけだ。世の中は学園祭じゃないのだ。公共の恐ろしさを説く僕に対し、拘禁一歩手前の親戚は自信満々に答えた。
「心配しなくてもいいよ、兄さん」
「えっ?」
「ボクサー派だからね。ボクは」
「ボクサーパンツだったら許すってわけじゃ無いよ!?」
ツッコミを入れられたのが嬉しかったのか、あるいは単純にボクサーパンツで笑いを取りたかったのか、遮那はゆっくりとした動作でワンピースの裾を掴んだ。
「そこまでして笑いが取りたいのか!? 卑怯な奴め!! って、あれ?」
持ち上げられたワンピースの下から見えたのは、ボクサーでもトランクスでも無く白い短パンだった。予想外の光景。不思議に思っていると、遮那はくすくす笑いながら、
「下にホットパンツを穿いてるんだ」
どうやら二段落ちを用意していたようだ。なるほど、そーいうギャグも学園祭で見たことがある。だが笑えない。多分僕と遮那では波長が合わないのだろう。笑い所を見失ったまま、僕は力なく呻いた。
「そーかい、そりゃよかったね……」
何だか一気に脱力する。そんな時、タイミングを見計らったように先輩が声を上げた。
「やはり彼は、女の子……」
「先輩? いやだから、あいつは男ですって」
「ふふ? 少年はまだまだ甘いね……!」
「はぁ……?」
性別の判定に甘いも甘くないもあるのだろうか? そりゃ世の中には、動物の雄雌を見分ける鑑定士がいるらしいけど。……なんてことを考えていると、遮那の声が聞こえてきて、思考は中断された。
「さっきのトリック、もう一回見せてくれないかい?」
「トリック?」
誰も手品なんてやってねーよ。
「兄さん達もやってるのかい? エフ・スリーを」
「エフ・スリー? そんな簡単にドライバーにはなれないでしょ」
なんでいきなり手品からフォーミュラーカー・レースの話になるんだ? 不思議に思っていると、遮那は笑った。どうやら僕の想像は外れているようだ。
「くすッ。どうやらエフ・スリーを知らなかったみたいだね。そこまで有名じゃなかったかな。ボクの学校で流行ってる遊びなんだけど」
喋りながら、遮那はトンッ、と地面を蹴る。ふわりと浮き上がるようにして僕らから離れると、
「ちょうどさっきの兄さん達みたいに走って、トリックを極めて、お互いの技を競い合うんだ。こんな風にね」
再び跳んだ。小さな音を上げて宙を舞う遮那。バック転しながらさらに体に捻りを入れている。高く飛んだためか、その回転には余裕すらあった。
遮那は技において天才、と言ったジイちゃんの言葉を思い出す。その言葉を裏付けるように、遮那の体捌きは先輩と同格に見えた。軽やかに着地した後、遮那は息も乱さずに口を開く。
「これがトリック。ボクらは回転技なんかをトリックと呼んでいるんだ。トリックの凄さを競い合うのがエフ・スリーさ」
「私たちがやってるのはフリーランニングだよ?」
小首を傾げならが先輩は言う。遮那はどこか不機嫌な口調で答えた。
「……多分それを元にしてるのかな。フリーラン、フリーバトル……ええと、あと何だったかな? とにかく三つの単語の頭文字を取ってエフ・スリーって呼んでるみたいだからね」
「ああ、Fが三つでエフ・スリーか……ってバトル? 何をバトルするの?」
僕がエフ・スリーについて尋ねると、何故か遮那は機嫌を直した。フリーランニングに敵対心でも持っているのだろうか? さきほどとは一転、明るい声音で、
「色々だよ? 技を見せ合ったり、回転数を競い合ったり。でもボクらが一番熱くなるのは、やっぱりトリックを使ったストリート・ファイトかな」
ふむふむ、なるほどね。……ストリート・ファイトってつまり喧嘩じゃねーか!
僕はかつての事を思い出す。路上で、遮那に操られた男達にストリート・ファイトを挑まれた日々を。意味不明に殴られた時を。台無しにしたあの夏の日を。
「試しにボクと勝負してみるかい? 兄さん」
そして訪れた直接対決の機会。挑戦状。そう受け取れる言葉を聞きながら、僕は鋭い視線を遮那に向けた。同時に、強い意志を秘めて宣言する。
「残念ながら遠慮しておこう!」
何故なら僕は忍なのだ。人目を避け、闇に生きるアサシンとしては直接対決など望むはずも無い。先輩、そうですよね? 僕は間違っていないですよね?
……っていうか誰が空中で軽く三回転する相手と戦うものか! 戦わないでゴザル! 絶対に戦わないでゴザル! ここで退くのは臆病とは言わない! 賢明と言うんだ!
遮那と直接戦えばどうなるか? 僕の疑問に何も答えてくれなかったジイちゃんだけど、暗闘こそが正解だと言いたかったに違いない。誰が何と言おうとそう信じた。と、その時。
「なんや、面白そうなことやっとるやないか」
不意に聞こえた声。
不穏な響きを持つその言葉が、これから始まるロクデモ無い戦いのゴングである事を、今の僕はまだ知らなかった。