163日目 無条件の信頼
公園では他人の迷惑になる行為は控えましょう。
また、フリーランニングは大変危険ですので真似しないようにお願いします。
いや、真似するわけが無いとは思うんですが、一応ですね…。
絆。人と人との間にある、目に見えないモノ。思えば僕と先輩の絆とは何だろうか? 不意にそんな事を考えてみたけど、答えなんて出やしなかった。
学校近くにある公園には広場が多く、というか無駄に広く、運動するには最適な場所と言えた。青々と茂った芝生。どうしてだろう? 広大な芝生を見ているとフリスビーを投げたくなるのは。
目の前にはTシャツにジャージ姿の先輩が立っている。僕も似たような格好だ。いわゆる波長が合うというやつだろうか。放課後に、休日に、僕らはこうして公園で一緒に遊んでいた。
遊び方は色々だ。崖をよじ登ったりしたこともあった。全ては先輩の思いつきで決まり、僕はそんな思い付きを先輩と共に実行していく。
見えない何かに引かれるように。きっとずっとこんな感じに僕らの時間は流れていくのだろう。そんな風に信じられることを絆と呼ぶのかもしれない。何だか嬉しくなりながら、僕はフリスビーを投げるような気持ちで言った。
「先輩、今日は何をするんですか?」
「う~ん、ちょい待ってね」
先輩は腕組みしながら思案顔で虚空を見つめている。青い空に雲は流れ、そんな光景がとても静かに先輩の瞳に映りこみ、先輩の瞳の中の雲はやはり実物と動きを同じくして流れていく。
大気の流れでも読んでいるのだろうか? 先輩は微動だにせず空を眺め続けている。風の流れを感じ取れる先輩なら可能だろう。なんならこれから起きる地震の予言をされても信じる。恐らくこの気持ちが僕と先輩との関係なのだ。
僕は無条件に先輩を信じていた。女神からの宣託を待つようにして突っ立って待っていると、先輩はやおらこちらに向き直った。何者にも揺るがない自信に満ちた目で笑い、小さな口が開く。そして託宣が下された。
「今日はフリーランニングをやるよ!」
「ランニング? 走るんですか?」
「ま、見ててごらん!」
そう言い残すと、僕を置き去りにして先輩は走り出した。
ブロック調の石で舗装された公園の小路を走っていく。パステルカラーに染められた道は、日本人が想像したヨーロッパの市道という感じだ。
そんな色鮮やかな道を、先輩は足取りも軽やかに駆け抜けて行く。そして、
「とうっ!!」
「おおっ!?」
掛け声と共に先輩は飛び上がった。高い。しなやかで強靭な足が、彼女を天高く舞い上がらせていく。
「ええっ!? なんだこれ!? せ、先輩が回ってる……!?」
体を逆さにしながら、まるでフィギュアスケーターのようにグルグルと回転している。しかも空中で。に、人間にこんな動きが出来るものなのか……!?
超人的な動き。しかしやがて重力に引かれて高度が下がっていく。先輩は猫のような仕草で地面に足を着き、そのまま流れるように前転した。着地の衝撃を拡散するためだろう。
呆然と見守る僕。走り出してからジャンプ、空中で前転プラス二回捻りという一連の動きを終えた先輩は、やり遂げた笑みを浮かべながら見守るこちらを振り向いてきた。
「さあ、次は少年の番だよ! レッツゴー!」
「無理です!」
「なぬっ!? どうして!?」
「いや、そんな予想外みたいな返事をされても困るんですけどッ!?」
さあ! って言われても無理に決まってるじゃないか!!
何だよ今の動き!? オリンピックでしか見たことが無い体捌きだったよ!!
「今のどこがランニングなんですか!? まるで金メダルを狙う時みたいな動きでしたよ!?」
全力で問いかけると、先輩はふっふっふ、と不敵な笑い声を上げた。
「それがフリーランニングなのよ!」
「ふ、フリーの部分が回転なんですか?」
「いやそれはちょっと違ーう」
いまいち理解出来ない僕。先輩は少し脱力しながら、一から説明をしてくれた。
「いい? 少年。フリーランニングは多分フランスの辺りで流行ってる新スポーツだよ。精神と肉体を鍛え、いかにして華麗な動きで走り抜けるか。それを競い合うスポーツなんだな」
「多分ってえらいアバウトですね。ええっと、つまりさっきみたいに走りながら体を捻ったりジャンプしたりするんですか? その動きに何の意味があるんですかね?」
僕の言葉に先輩はポカンとした表情になる。
そして当たり前と言わんばかりの口調で言う。
「カッコイイじゃん?」
「さいですか」
そうか意味なんか無かったのかうんいやそうじゃないかとは思ってたよ! 高速で駆け巡る思惟。その行動を選ぶ意味とは何ぞや?
加速する思考の果てに、僕は一つの境地に至っていた。人は自分自身の視点でしか物事を捉えられないという事実だ。
捻りやジャンプに意味があるか無いか、それは僕自身がどう感じ取るかが全てだろう。他の人が決める事では無い。なので見たままの感想を呟いてみることにした。
「なんか忍者ごっこみたいですね。街中ではしゃぐことに凄そうな名前をつけて、スポーツっぽく言ってるだけじゃないですか?」
「どーなんだろうね? 始まりが何だったのかまで知らにゃいし。案外そうかもねー」
実際どうでも良いのだろう。軽く嘯くと、先輩は改めて僕を見た。
「ま、慣れれば出来るようになるって。それじゃレッツゴー!」
「やっぱりやるんですか!?」
「それが私たち忍の定めだからね……!」
目を閉じてうんうんと頷く先輩。いつから僕達は闇の職業になっていたのだろうか? 人生一寸先は闇とはよく言ったものである。世の中って怖いなぁ……!
タッタッタ、と地面を蹴る靴底がリズミカルな音を鳴らす。乾いた音を聞きながら、僕は先輩の後を追って走った。
け、結局このスポーツは何をすればいいんだ? 先輩の派手な動きに呆気にとられて聞きそびれてしまった。見よう見真似で走る。ジャンプはいつすればいいんだろう?
先輩と同じスピード、同じ速度で見る景色。決められたように一様に後ろ向きに流れていくそれは、いつもとは違った世界に見えた。きっと先輩も同じ様に見ている、そう無条件に信じた。
光も音も、風も景色も置き去りにしていく。唯一聞こえるのは先輩の靴音だけだった。僕はその音にタイミングを合わせるようにして地面を蹴り付ける。ここは僕らだけの世界だった。
「それじゃ、そろそろ本格的に行くよ!」
「いえっさー!!」
一段とスピードを上げた先輩に対し、僕は景気良く返事をする。運動はリズムだ。身体は重力に縛られ、手足は遠心力に従う。そんな中で自由に動くにはちょっとしたリズムが必要だった。
無駄な動きは要らない。淀んでしまう動きも要らない。一つの動きを次に繋げ、重力を、遠心力を、ありとあらゆる力を味方に付ける必要があった。
足元で刻むリズムは連なり、連なりはビートに変わる。そのビートを基軸として体あちこちが音を奏でていくのだ。手の振りが和音を奏で、体躯はどっしりと重厚な音を放つ。
体の中には旋律が流れていた。僕はその音に耳を傾けている。トチらないように注意深く自分の手足を演奏していく。手本にしているのは先輩の動きだった。
足を振り上げる位置。タイミング。前を行く先輩は、淀みなく美しいリズムを僕に教えてくれていた。僕はさながらフーガを奏でるように、そんな先輩の後を追うのだ。
「あの手摺を華麗に通るよ!」
「か、華麗にですか!?」
先輩は階段のにある手摺に手をつき、それを支えにして体を捻った。僕でもこのくらいなら出来る、その確信と共に実行に移す。先輩を真似るようにして手摺に手をつき、そのまま体を捻った。
力の方向が変化する。体を包む気流は乱れ、耳元でゴォゴォと唸りを上げた。それは正しい音だった。満足を覚えながら、留まることなく僕らはステップを刻む。どんどん次の動きに繋げていく。景色は目まぐるしく移り、世界は音楽に満ちていた。
走る。目の前にはベンチが横に並んでいた。ベンチには誰も居ない。駆け抜ける勢いそのままに、先輩は高く跳んだ。Tシャツの隙間から覗く滑らかな肌。細くしなやかな体が、鮮やかな軌跡を描いてベンチを飛び越えて行く。
僕は隣のベンチを飛び越えることにした。勢いは止めない。先輩の動きを思い出しながら足を踏み切る。飛んだ。重力を頚木を解き放たれ、僕の体は一瞬だけ自由を得る。
自由な世界。周りの時間がゆっくりと流れていく。そんな中、誰も居ないと思っていたベンチに何者かが寝そべっていた事に気付いた。ヤバイ、一体誰だろう? 冷や汗を流しながら凝視すると、その人物と目が合った。
よく見ると、そこに居たのは見知った顔だった。宙を舞うこちらに対し驚きを表しているのだろう、寝ぼけ眼のままあんぐりと口を開くのが見える。ボサッとした髪に寝癖がついたその人物は、ただの大阪さんだった。
「ふわっ、なんや!? 鳥か!? それとも獣かッ!?」
――なんだ大阪さんか。心配して損した。
「天狗か!? ついに天狗を見てしもうたんか!? ……ってその後ろ頭は坊主やないか!! お前ら二人で何やっとんねん!? おいこら、挨拶くらいしていかんかい!!」
一気に目が覚めたのだろう、大阪さんは何やら叫んでいる。その言葉はドップラー効果と共に残響に変わり、風の中に溶けて消えていった。その代わりに先輩の声が響く。
「今さあ、人が居たよね? ベンチ飛び越えたのまずかったかなぁ?」
「大丈夫です先輩、セーフです。気にしなくていい人です。気にするだけ損ですから」
「そぉ?」
疾風のように駆け抜ける僕ら。
心配して損した、という思いもその場に置き去りにされていった。
緑の梢が残像だけ残して背後に流れていく。前を行く先輩は僕をチラリと振り返った後、踏み出す足のステップを変えた。今日初めて聞くリズムだ。
まるで前奏のように奏でられた靴音の後、先輩は跳んだ。水の中で半身を翻す魚のように。高く舞い上がった先輩は、空中で逆さまになりながら流麗な動きで大気に軌跡を描いていく。側宙が見事に決まった。
こ、これは……出来るか!? 体を少し捻ったりちょっとジャンプするのとはわけが違う。今までに無い大技だ。いや最初に見せてくれた金メダル級の動きに比べれば容易いだろうけど、それにしたってキツイ!
脳裏を過ぎる逡巡とは裏腹に、僕の身体は無意識に先輩の後を追ってリズムを刻み始めていた。何かの力に導かれるように、無謀な挑戦へと跳んだ。
ぐるりと周っていく景色。今まで感じたことの無い重力と遠心力。天地が逆さまになった視界でそんな事を思いながら、僕はただ無条件に信じていた。
(きっとこの動きが、先輩の教えてくれたものだ――)
身体は音を奏でている。途切れることの無いそれは、先輩の奏でた音と重なり合い、響き合い、一つの流れを作り出していく。そうなる事を信じた。信じる心のままに、重力と遠心力を掌握して行く。
感じる。これは正しい音だ――
正しい音を奏でた僕の身体は、正しい動きを演じていた。完璧な軌跡を描いて宙を舞う。そして着地。自分でも信じられないくらい上手くいった。
「で、出来た……! 出来ましたよ先輩!」
「だから言ったっしょ? 慣れれば出来るって」
喜びの声を上げると、先輩は笑顔を見せてくれた。親指を上向きに立ててグッド! のポーズを取る先輩に対し、僕も笑い返す。
その時、不意にどこかから拍手の音が聞こえてきた。パチパチという音はどこかわざとらしく、そんなわざとらしさを含んだかのような声で、僕を賛辞するセリフが響いた。
「中々良かったよ、今の動き」
誰だ? そう思って振り向くと、そこには一人の少女の姿が。花柄のワンピースの裾がひらひらと揺れている。彼女が着ているそれは、鮮やかな桃色に染まっていた。
腕はワンピースの袖で覆われているものの、下の方の裾は丈が短く、剥き出しの素足の白さが目に痛かった。何故か足元はスニーカー。顔は帽子に隠れて見えない。
本当に誰だろう? しかしその姿をジッと見ていると、何だかつい最近見覚えがあるような気がしてならなかった。こんな女の子は知らないはずなんだけどなー……待てよ、女の子じゃないとすれば? そういえば確か、そんな奴が――
「こんなとこで会うとは奇遇だね、兄さん。嬉しいよ」
僕が思い出しかけた瞬間、そいつは挨拶する時の礼儀とでも言わんばかりに帽子を取った。戒めから解き放たれた艶やかな前髪が流れ落ちる。そしてその下から現れた顔は、
「遮那か……!」
親戚にして天敵である存在。一見して少女に見えるが実は男。そしてジイちゃんいわくヤベエよあいつ。幾つかの情報を頭に走らせながら、僕は薄ら笑いを浮かべる年下の親戚の顔を見つめ返した。