162日目 ジャングルと王様
「だから、謝っているじゃないの」
お昼の時間。集まったいつもの部屋で、冷蔵子さんが眉根を寄せながら言う。先輩は久しぶりに自作の弁当を食べていて、風の王は何故か醒めた目で僕を見ていた。ここは学園にある多目的ルームの一つだ。
生徒の自主と独立のために用意されたというその部屋は、大抵が使われないまま放置されている。その一つをありがたく使わせてもらっているのだ。昼の時間は大抵ここでダラダラと時間を潰していた。
中々に広い部屋。中には机もイスも完備されている。なのにどうして誰も使わないのか? その理由は簡単で、多目的ルームには備品と同時に監視カメラが常備されているのだ。
まさに監獄だ。そんな所にいるくらいならまだしも校庭を走っている方がいい、と思う人が大半なのだろう。そんなこんなで、誰もが自由に使える部屋は自由と自主性の名の下に放置されている。もっとも、僕らはそこまでナイーブでは無かった。
「もう気にして無いって」
冷蔵子さんに対し、苦笑いを返す。
プラネタリウムに行った帰り道、車に酔った彼女は……まあ、色々とあり、その事を気に病んでいるのだろう。
気にして無いよ、と答える僕の言葉を、彼女は信じようともしなかった。
「嘘よ。心に距離を感じるわ……!」
まいったなー。そう言われてもなー。
笑顔を引き攣らせながら思う。心の距離。それは目に見えないものである。
相手がどう思っているかを知る術は無い。
自分の中に作り出した他者の虚像、それを通して推し量るしか無いのだ。
だから彼女が感じる距離とは、彼女の中にだけある僕との距離であった。
果たして冷蔵子さんの目に今の僕はどんな風に映っているんだろう? 分かり得ないことに思いを馳せた。
「ねえねえ、何の話してんの?」
先輩が興味津々の顔で尋ねてくる。
僕は冷蔵子さんから視線を外し、くるりと体を半回転させると、そのまま先輩の方を向いた。
「ええっと、実はですね。この間……」
「……てりゃ!」
「ごふっ!? き、気道が絞まる……!?」
後ろから飛び掛ってくる冷蔵子さん。
そのままぬうっと僕の首に腕を絡め、チョークスリーパーをかけてくる。
呼吸が出来ず喘いでいると、彼女は耳元で蕩けるような声で囁いた。
「あの事を誰かに喋ったら……ユルサナイわよ?」
い、息が……!
僕は溺れかけたロバの気持ちで必死に腕をタップする。
それをどう受け取ったのか、ようやく彼女は腕を解いてくれた。
「ふぃー!! げほげほっ、ひゅー」
さ、酸素が美味しい……!
生まれたての赤子のように必死に口を開く僕に、風の王が情けない、と呟いた。
「そのザマは何なのかな?」
今の僕の姿に落胆を覚えたらしい彼女は、そのまま辛辣な口調で続ける。
「仮にもワタシの隊長なんだから、簡単にバックを取られるようじゃ困る、な」
何の隊なんだ。一体どこの密林を冒険すればいいんだ。
感情の読めない視線を向けてくる短い髪の少女に、僕は心の内で悪態をついた。
しかし黙ってバカにされるのも悔しい。挑むような視線を少女に向け、僕は言った。
「大丈夫さ。君には取らせないよ」
「ふぅん?」
獰猛な獣が獲物を刈る前にそうするように。
風の王は、僕の目の前で面白がるように瞳を細める。
野郎、やる気か? なんだその薄笑いは。
風の王に反論の言葉を続けようとした瞬間、背筋に壮絶な悪寒が走った。
ふっと振り返るとそこには先輩の姿。
わざわざ足音を消しながら、そおっと僕の背後に忍び寄っていたようだ。
「……先輩?」
「おう!? 気付かれてしまったようだね!」
悪びれた様子も無い先輩。
その無邪気さとは裏腹に、僕の心は不安でいっぱいだった。
本能が危険を警告していた。心臓が早鐘のように打つ。
足先二センチの所に植木鉢が降って来た、そんな気持ちに浸りつつ質問する。
「……何をするつもりだったんですか?」
口元を引き攣らせる僕。先輩は照れ笑いを浮かべた。
「言わせんなよ恥ずかしい」
「いや是非とも聞かせて下さい! そんなウインクとかいいですから!」
先輩は何故か唇に人差し指を当て、さらに片目を閉じている。
可愛いさ表現のつもりなのだろうか?
やがてポーズを取るのに飽きたのだろう、先輩は瞑っていた方の目を開ける。空を反射し、青さを湛える双眸が僕を映した。
「最近さ、少年は私に冷たいじゃん?」
「そうですか? そんなこと無いでしょう」
先輩に冷たい態度を取った覚えなど無かった。
しかし先輩は、うんにゃそんなことあるもんね、と僕の言葉を否定する。
「だからスキンシップしようと思ってね? 肩を揉んであげようと思ったの」
言葉と共に、先輩は両手の指をわきわきとさせる。
リンゴを握り潰せるその指は、僕の肩などアメ細工のように砕くだろう。
……さあてどう言って断ろうか? そう考えた次の瞬間、戦慄の予感がよぎった。
思わず後ろを振り返る。そこには片手を振り上げた状態の冷蔵子さんが立って居た。
「……何してんの?」
「貴方、背後を取られないように練習しているんでしょう? 私も協力して、後ろから頭を叩いてあげようと思ったの」
あげよう、の意味が分からない。
人の頭を叩くことを善行だと思い込んでいるのだろうか?
それは大いなる勘違いなので、僕は丁重に断りを入れる。
「うん、いや、それは遠慮しておくよ」
「遠慮しなくていいわ。私がただそうしたいだけだから」
「ならはっきり言うけど、頼むから止めてくれない!?」
一体何を考えているんだ!? そして僕はどうして背後を気にする人だと思われているんだ!? 人の気持ちは分からない。僕の中の冷蔵子さんは、不可解そのものだった。
ふと見ると、彼女の指には指輪があった。見覚えがある。
プラネタリウムに行った時に僕が買ってあげた、チャチな代物だった。
感情によって色が変わるという触れ込みの指輪。
だが冷蔵子さんの細い指にはまるそれは、僕に何も教えてくれない。
しょせんは体温で色が変化するだけの物だからだ。
さらに言えば、どの色がどの感情を意味するかよく覚えていない。つまりあっても無くてもどっちみち心なんて分からなかった。
なおも僕の頭を狙う冷蔵子さん。止めようとした時、得体の知れない感覚が突き抜けた。
考えるよりも先に体が反応する。その場で半回転するようにして体を捻り、後ろを振り向く。それと同時に右手で裏拳を放った。その拳が、何かと衝突する。
「ちっ!!」
僕の目に映るのは、舌打ちをする風の王と彼女の放った裏拳、そしてその一撃を相殺した僕自身の拳だった。
先輩と僕との間に音も無く入り込んでいた風の王。何を思ったのか、彼女は背後から容赦の無い打撃を放って来たのだ。
腕と腕で鍔迫り合いをする体勢の僕ら。そんな僕らの姿を目の当たりにして、先輩が「おおー」と感嘆を漏らすのが分かった。
「なんのつもり?」
不躾な一撃。それを受けた僕の心は飄々と冷えていた。温度を失った僕の言葉に、しかし風の王は気にした風も無くコケティッシュな笑顔を浮かべた。
「弱い奴の下に付きたくないから、ね。ワタシを部下にしておきたいなら、強くあってもらわなきゃ」
不意打ちの一撃をいなされたのが逆に嬉しいのか、風の王は美しく唇を歪ませる。
どうしてこんな危険人物が僕の部下になっているんだろうか?
そもそも部下って何だ? 僕は一体何の組織に組み込まれているんだ?
めぐるめく疑問の世界。一体誰のせいでこうなった?
冷静に考えてみる。冷静に考えてみれば、原因は全て自分だった。
友である長ソバくんを追い込みたいが為の決断。ラブレタードッキリ大作戦。それは同時に僕自身を追い詰める決断でもあったようだ。うぬぬ、世の中って怖いなあ……!
「君は誰よりも強くなくちゃ、ね。王を従える王、そのくらいに」
世の中って怖いなあ、本当に怖いなあ……!
組織という名の現代のジャングル。そこは、常に生存競争が繰り広げられている。
知らぬ間に、気付かぬ間に入り込み、そして誰もがそこから逃げられない。
上司は部下を蹴落とし、部下は上司に下克上する。
僕達の絆ってなんなんだろう?
中二病みたいなセリフを吐く部下の少女を前にして、しみじみとそう思った。