159日目 願い星一つだけ(7)
扉を背にして座り込む。
鉄製のそれは硬い。Tシャツごしに金属特有の冷たさを伝えてくる。
「な、なんなの……?」
冷蔵子さんの声は震えていた。そんな彼女に対し、僕は顔だけを向けて言った。
「いいんだ。全ては、終わったんだ」
自分でも驚くほど掠れた声。僕は酷く疲れていた。めぐる君、そしてエーテルさん。二人の笑顔を思い出すと、胸が締め付けられるようだ。やるせなくて、力無く顔を伏せた。
……外は雨が降っているだろう。ここからは聞こえない雨の音を想像する。想像の中で、雨はどこまでも広く大地を覆っていく。少しだけ冷たく、そして透き通った水だ。僕の罪を洗い流すかのように、雨は降る。その無垢さだけが心の慰めだった。
聞こえない雨音を想像していると、代わりにコツコツという靴音が耳に響いた。そっと顔を上げると、冷蔵子さんがこちらに近付いていた。
三歩ほどの距離。近いとも遠いとも言えない位置で、彼女は腕組みして立つ。黒いワンピースドレスからは、ほっそりと白い二の腕が剥き出しになっていた。
「なにが終わったのよ? さっさとリビングに戻りましょ?」
冷蔵子さんはこともなげに言う。僕は慌てて立ち上がった。
「それはダメだ! 戻っちゃダメなんだ!」
「はぁ? なんでよ?」
「そ、それは……!」
ぐうう、どう説明すればいいんだ!?
恐らく彼女は分かって無い。この天文台のスタッフ達が、踏み越えてはならないラインを超えてしまっている事を。そりゃそうだ、どこの世界に接客狂の店員がいるだろうか? 常識を知る冷蔵子さんは、めぐる君と田崎さんの戦いだって何かのアトラクションとしか感じて無いだろう。
だが僕には分かる。奴らはマジだ。
今戻れば、待っているのは妖怪田崎による接客ショーだろう。田崎=めぐる君と過ごすディナー。田崎=めぐる君と歌う星の歌。夜通し行われるだろう悪夢のようなサービスは、想像するだけで精神が病んでしまいそうだった。
どうしてこんな事になったんだろう?
思い出すのは、険しい岩場に生える木々だった。人里離れたこの地は、人では無く植物に埋め尽くされている。生い茂った緑は一斉に光合成を行い、甚大な量で生み出された酸素は、恐らく大気の構成すら狂わせているのだ。
植物は動けない。動かない。だからこそ、その匂いは攻撃的だった。
一見穏やかな佇まいに見えるが、その身からは強力な殺菌物質を発散しているという。深く、そして青く澄んだ大気。そこに混じる何かが、止めようも無く人々を狂わせてゆく。純粋さは時に狂気となる。災厄に気付いた人間の定めとして、僕は何も知らない冷蔵子さんを守らなければいけなかった。
(めぐる君……エーテルさん……!)
ぐっと拳を握り締める。彼らは僕が下した決断の犠牲者だった。
彼らを盾にしてここまで逃げてきたのだ。田崎=まもる君……奴の唯一の狙いは接客サービス。だから本当に狙われているのは僕らだけだろう。スタッフには興味無いはずだと踏んだ僕は、エーテルさんと冷蔵子さんを天秤にかけた時、冷蔵子さんを守ることを選んだのだ。
時は還って来ない。下した決断は、結果がどうであれ受け入れなければいけない。だけどエーテルさん……僕は自分の選択に誇りを持てないでいます。僕は正しかったのでしょうか?
キグルミと解説役を取られた(元)めぐる君は、今頃どうしているのか。きっと、身体だけキグルミで顔はリアル素顔という悲惨な姿になっているんだろう。子供達の夢と希望を打ち砕く姿となった彼は、キグルミの頭を取り戻すまで人前には出られないのだ。
エーテルさん、あなたも奴に帽子を奪われるでしょう。そして恐らく、帽子だけで無くプラネタリウムの説明役も……。不思議系プラネタリウムお姉さんという立場を奪われただろうあなたは、それでも僕を誇ってくれますか?
僕を太郎と呼び続けた彼女。その微笑は今や過去の物となってしまった。星語りを無くした彼女は、ただの中二病だ。銀河系不思議キャラから、可愛いだけが取り得のお姉さんに早変わりしただろうエーテルさんを思う。寂しさを胸に覚えながら、決意を新たにする。
もしかして、僕の選択は間違って無かったかもしれない……!
自信を取り戻しながら、冷蔵子さんに向かって決然と叫んだ。
「君をこのまま行かせはしない! そう、僕は決めたんだ!」
この部屋の唯一の出入り口、その扉を背にして僕は言った。しかし気にした風も無く、冷蔵子さんはスタスタと距離を詰めて来た。伸ばせば手が届くほどの距離で、彼女は言う。
「何の遊びか知らないけれど、いつまでもここに居ても仕方無いでしょう? 星も見れないんだから」
今は望遠鏡に用は無いわ、と冷淡に告げる彼女に向かって、僕は声を張り上げた。
「遊びでやってるんじゃ無いんだ! この扉を通りたいのなら……リビングに続く道を歩むと言うのなら、僕を倒して鍵を奪うしかない! さあ来い、君の勇気が世界を救うと信じて!」
「貴方ねえ……まあいいわ」
「えっ? いいの?」
あっさり退いたかに見せかけて、冷蔵子さんは冷静な態度で言葉を続けた。
「確かに、鍵が無ければ開けられない扉もあるわ。当たり前よ、その為に鍵はあるんですもの」
この部屋から出られない事を確かめるように、彼女は淡々と事実を述べていく。しかしそれは次のセリフで完全に否定された。
「でもね、それは部屋の外に居る時の話でしょう? 内側からなら普通に開けられるんじゃないかしら? 鍵が無くても」
しばし無言で考える。ええっと、あいつが僕で、僕があいつで……いや、それは全然関係無い。この場合、どうして鍵が無くても鍵が開けられるのか、そういうトンチだ。
「し……しまったー!?」
僕は唐突に気付いた。そうだった……! 部屋の鍵は、普通は内側からは簡単に開けられる。出来ないのは監獄や金庫くらいだ。普通は部屋に内鍵がついていて、例え鍵を無くしていても簡単に出られるのだ。
よく考えれば当たり前の話だ。部屋の中で鍵を無くして、それで部屋から出られなくなったら困るじゃん。オートロックの部屋から閉め出された、なんて笑い話はよく聞くけど、もしも内側に閉じ込められたら事件だ。ドアメーカーは訴えられるだろう。
僕はなんて馬鹿なんだ……! 自責の念に駆られていると、ドアに向かって冷蔵子さんがさっと手を伸ばした。鍵を開けられる――そう思った僕は、無意識にその手を掴み取っていた。瞬間、目と目が合う。氷雨のように冴え冴えとした瞳が僕を映した。
「どういうつもりかしら?」
ど、どういうつもりなんでしょうね……!?
咄嗟の行動なので深い考えなんて無かった! えーと、えーと……!
「や、やっと二人っきりになれたね!?」
思考を止めた脳は気の利いた返事を返せない。どこかで聞いた言葉を自動書記のように語る僕。そんな僕の言葉を聞いた冷蔵子さんは、ハッとしながらその身をかばった。
「わ、私に何をする気なの!? この卑劣漢!」
卑劣漢とか生まれて初めて言われた……! えーと、この場合はどう取り繕えばいいんだ? ええい、男はぐだぐだ言い訳をしない! 度胸と気風のよさだけでドドーンと言えばいいのさ!
「言い方が悪かったのは分かる! でも今は何も言わず、僕を信じて欲しい!!」
心からの叫び。それに対する彼女の返事はファイティングポーズだった。イエスでもノーでも無く、身をもって応えてくれた。つまりは圧倒的な否定。あまりの感動に涙が出そうだ。
こ、小指の先ほども信用されて無かったなんて……! ああそうさ、どうせ僕は卑劣漢だ! 溢れる悲しみと共に、僕もまたファイティングポーズを取った。
「あ、あ、貴方、何をする気なの!? 私をどうする気なのかしら!?」
「さあね!?」
嗚呼、僕は彼女をどうしたいんだろう? むしろこっちが教えて欲しい。守ると誓った人から拳を向けられ、心の中はやるせなさでいっぱいだった。
一体どこで選択を間違えてしまったのか? 涙を流す時間も無いまま、それでも僕は信じた。この手を汚して初めて守れるものがあると。譲れない何かを賭けての戦いが始まった。
「や、やあッ!!」
頼りない掛け声と同時に、冷蔵子さんはヨタヨタと踏み込んでくる。そして勢いよく腕を振り上げた。黒いワンピースドレスから剥き出しになった二の腕は白く、そして細い。
あまりに攻撃モーションが遅いため、僕は観察するようにして攻撃が届くのを待った。ようやくこちらに伸ばされた彼女の拳を、開いた手のひらで受け止める。ペチッ。乾いた音が響いた。
威力がしょぼ過ぎて逆にどうしていいか分からない……!
冷蔵子さんって真正面から戦うとこんなに弱かったのか……。まあ、先輩と違って非力だからなぁ。
「くっ、このッ!!」
毒づきながら、彼女はさらに拳を振う。ペチペチペチ。威力ゼロのパンチが連打された。小学生とキャッチボールをするような気分でそれを捌いていく。
なんだろう、僕らは一体何をやっているんだ? バトルでは無い。これをバトルと言うなら、今度から幼稚園の遊び場を戦場と呼ばなければならなくなるだろう。
何を賭けて争っているのか、それすらあやふやになってしまいながら。時間だけが無慈悲に過ぎていった。やがて疲れたのか、冷蔵子さんは肩で息をしだした。
防御も攻撃も。取り立てて何もやる事が無いまま、僕は彼女を見つめた。冷蔵子さんは苛立たしげな顔をしている。ふてぶてしい態度でこちらを睨みながら、唸るような声で言った。
「今日は引き分けね……!」
「え、ああ、うん」
何を引き分けたのだろう? 疑問を口に出す暇も無く、冷蔵子さんは乱れた前髪を手の甲で振り払いながらヨタヨタと近付いてきた。そして僕の隣に座る。仕方なく僕もその場に座った。
どうして彼女は座ったのか。考えるまでも無い、あの短い攻撃の間に体力を使い果たしたのだ。そしてどうして彼女は僕の隣に居るのか。それもまた考えるまでも無かった。戦う意味を見失い、徒労だけが残り、何もかもどうでもよくなったのだろう。
暴れたためか、少しだけ肌を上気させながら彼女は言った。
「雨だったのは残念ね」
「えっ?」
「星、見えないじゃないの」
膝を抱えて座る彼女。
首を捻り、顔だけこちらに向けて、覗き込むようにして言う。
「知ってるかしら? 昔から人は星に願い事をしてきたのよ」
不意に視線を逸らすと、夜空を見るように視線をあげる。建物の壁と雨雲に遮られ、どうってもここからは見えない夜空。見えない何かを見るようにして、冷蔵子さんは囁いた。
「ほら、星って変わらないでしょう? ずっと私たちの頭の上で輝いているわ。人は変わらないものを信じて、星に願いを託したのよ」
「星空だって永遠じゃ無いさ」
自分でも信じられないくらい平坦な声だった。無意識にそんな声で返事をしてしまった僕は、驚きながらこちらを見返す冷蔵子さんに慌てて言い訳した。
「ほら、古典の真紅先生も言ってたじゃん。星は不変じゃないって」
ああ、そんな事もあったわね、と冷蔵子さんは頷く。僕らの若さに嫉妬する真紅先生。その恨み辛みの込められた言葉を思い返している彼女に、僕は続けて言った。
「星すらもいつかは変わってしまうけど、きっと僕らの気持ちだけは変わらないんだ」
人は何を思い、永遠を願ったのだろうか? 祈りだけは美しい。しかし、永遠は奇跡では無いのだ。オンディーヌがそうであったように。永遠に終わらない恋をする少女に思いを馳せながら、僕はそっと囁いた。
「この人が生きていれば、きっと私は恋をしただろう、か」
その呟きが誰にも届かないように願いながら。僕は見えない夜空を思った。星を見る地であるここは、きっと星に近い所でもあるのだろう。だから星に願う人が居て、きっと冷蔵子さんにも何か願い事があるのだ。そんな事がなんだか温かく思えた。