156日目 願い星一つだけ(4)
山の中にひっそりと立つ中ノ山天文台。
そこは単なる天体観測所では無く、総合的な学術機関、文化施設として建てられていた。つまり、一般市民向けの娯楽施設としての機能もあるのである。
いわゆる図書館と同じだ。国や県から運営費が賄われているのだろうそこは、たとえ利益が無くても存続していける。もちろん閉鎖されることもあるので、少なくともその必要があると思われている間までは、という但し書きがつくが。
だからと言うべきか、この天文台はお客が居なくても存在できるのだ。そして僕らの他にお客さんは誰一人なかった。薄々は気付いていた。薄々は気付いていたけど貸切状態だ。あまり嬉しく無い幸運に恵まれながら、僕はさらに困った状況に陥っていることを自覚せねばならなかった。
「…………」
「…………」
さっきから会話が無い。
僕の隣を歩く冷蔵子さんはずっと押し黙ったままだ。
原因は分かっている。お土産物コーナーでのやり取りだろう。
なんだ可愛くなるおまじないって。言った僕自身でさえ、背筋に嫌な汗が流れる。
果たして、そんなセリフを向けられた冷蔵子さんは何を思うのか?
思考盗聴マシーンが未完成な今、彼女の気持ちを推し量ることは不可能だった。
「…………(着かず離れずの距離で隣を歩く冷蔵子さん)」
「…………(とりあえずバカみたいに笑顔を浮かべる僕)」
ど、どうしよう……!
この空気をどうやって変えればいいんだ!?
一つでも対応を間違えればデッド・エンド。
熟年刑事でも経験したことが無いだろう緊張感。こんなタフな交渉は初めてだ……!
不安と焦燥。ジリジリと焼け付くような感情が、心を焦がしていく。
脳内で新人刑事の若造と、熟年刑事のコンビが囁き合う。
今ですか!? ……まだだ若造! 耐えろ、耐えるんだ!
ダメです、もう耐えられない! 待て、まだダメだ――
「あ、あのさっ……!」
緊張に耐え切れず、ノープランのまま切り出した。
僕の声に反応し、ピクリ、と冷蔵子さんの耳が動く。
エルフのような耳。そこにかかる長い金色の髪が、さらりと美しく揺れた。
ゆっくりと僕を見る、彼女の碧い瞳……
(こ、この後どうしよう……?)
頭の中がグルグル回って絶賛大混乱だ。
限界点に達した脳の中で、ガリレオ温度計がジェット・エンジンと共に宇宙へ飛んだ。
黒い大海原を目指して星間旅行。漆黒の宇宙で流れ星になるのさ。
温度はもはや意味を為さない。ロマンだけを計りながら、ガリレオ温度計は空を飛ぶ。
「ガッ……」
「が?」
僕の言葉を復唱するように、可愛らしく呟く冷蔵子さん。
助けてくれガリレオ温度計、今こそ僕を宇宙に連れ去ってくれ……!
現実逃避を試みる僕。そんな時、突然真横から声が響いた。
「やあ!」
「きゃあ!?」
「だ、誰だ!?」
悲鳴を上げて僕の背後に隠れる冷蔵子さん。
そんな彼女を庇うようにして声の主を睨みつける。
目の前には身長二メートルの小学生……を模したキグルミ。本当に誰だ!?
「ボクが誰かって? うふふ、教えてあげるよ!」
デフォルメされた子供のキャラクター。
そんなキグルミを着た謎の人物が語る。
「ボクはめぐる君! この中ノ山天文台で、君達の疑問に答える存在さ! どんな質問でも答えちゃうよ? うふふー」
た、頼んで無い……! 説明とか誰も頼んで無い!!
届かない絶叫を上げる僕。
その時、気付かなくてもいい事に気付いてしまった。
「……な、なんか服が破けてますよ?」
めぐる君の服(というか衣装)は所々破けていた。
そして体の一部に血の様な赤いものが付着している。
まさか本当の血じゃないよね……?
訝しむ僕の前で、めぐる君は自分の体を(首の辺りにある覗き穴から)眺めて言った。
「ああ、ちくしょう……! 本当に破けてるじゃないか。いやあ、田崎さんがキグルミ寄越せってしつこくってね。星空の解説役はボクの仕事だって言うのに……久々のお客さん……誰にも渡さない……」
誰だよ田崎さんって?
思わず浮かんだ疑問は、すぐさま解かれることとなった。
「ま、待てっ……!」
入口の方から、ズタボロになった男の人がヨタヨタと歩いてくる。
その顔は見知ったものだった。バスの運転手さんの友達であり、何故か僕らと一緒に食事を取ろうとした人物――
「最初に出てきたスタッフのおじさん!?」
「田崎さん! 生きていたのか!」
確認する僕の言葉と、めぐる君の不穏当なセリフが重なり合うように響いた。
スタッフのおじさん……田崎さんは、破れたスーツ姿で不敵に笑う。
「生きていたさぁ……! いやねぇ、私もさすがに死ぬかと思ったよ。君って意外と強いんだねぇ」
満身創痍、しかしその双眸は闘志を失っていない。鷹のように鋭くめぐる君を射抜く。
その視線を真正面から受けながら、めぐる君は吐き捨てるように言った。
「学生時代ボクシングやってましたから」
何故か僕らを中心にして対峙するおじさんとめぐる君。
状況が飲み込めないまま、僕は二人の姿を注視した。
「それで五十発も殴ってきたのかい? ちょっと酷くない?」
おじさんがめぐる君を非難するように言う。
確かにそれは酷い。僕は真偽を確かめるためにめぐる君を見つめた。
「あんたが灰皿で殴りかかってきたからだろ?」
めぐる君が反論して言う。
灰皿? 今度はおじさんの方を向く。
「いやあね、君が素直にキグルミを渡さないからだよ」
「なんであんたにキグルミを渡さなきゃいけないんだ? めぐる君役はボクの仕事だろう?」
ゴゴゴ……!
渦巻く熱意は戦いの前触れ。おじさんとめぐる君は激しく憎悪を飛ばし合う。
「私はね、誰よりも接客がしたいんだよ……! 誰も来ないお土産物コーナーほど惨めな場所があるかい……?」
「接客したいのはボクも同じだよ……! 説明する相手が居ない解説役が、どれだけ悲しいか分かるか……?」
二人の言葉には切実な想いがあった。
あったけど、驚くほど僕の心は動かされない。
対立し合う想いがあまりに無感動過ぎて、僕は戦慄を覚えた。
「プラネタリウムが始まるまであと二百四十秒。その間、お客さんのエスコートを独占しようと言うのかい?」
そこで言葉を切ると、おじさんは唇を吊り上げる。くつくつと暗く笑い声を上げながら、淀んだ瞳でめぐる君を見つめた。
「どれほどの月日、お客さんを待っただろう? 星は何度瞬き、月は何度巡っただろう? この次にお客さんが来るのはいつになるだろう? ……私に接客の喜びをくれないか?」
「くっ、どうなっちまったんだ田崎さん!? 昔のあんたはそうじゃ無かった!! 人の立場を奪おうとするなんて、そこまでの悪じゃなかったはずだ!!」
熱く語るめぐる君。
そこからさらに中ノ山天文台の立ち上げの時の苦労や、スタッフ達の懸命な戦い、星に対する真っ直ぐな情熱が解説されけど、それは僕と冷蔵子さんにとっては何の興味も無い話題だった。かつての田崎さんに憧れていた、というエピソードまで話し終えると、めぐる君は涙を飲むような声で叫んだ。
「君達、ここはボクに任せて行くんだ! プラネタリウムは三階のホールにある。行けばすぐに分かるはずだ。信じろ、宇宙はいつだって君達に微笑んでいる……!」
「あ、あの……?」
あなたは何を言っているんですか?
僕がそう言うよりも早く、めぐる君は叫んだ。
「行くんだ! ボクに構わず行けぇ!! ボクは宇宙を巡る使命を持っているんだ。だからきっと、またいつか再び出会えるだろう――」
出来ればもう出会いたく無い。
そんな思いと共にめぐる君を残し、僕らは進む。
急ぐでもなく、どうしようも無く、とぼとぼと階段を昇っていった。
「ねえ、どういうことなのかしら?」
「今は急ごう。もうすぐプラネタリウム、始まるみたいだし」
足を止めて振り返ろうとする冷蔵子さんの手を取り、僕は前に進んだ。
振り返ることは出来ない。犠牲とか覚悟とか関係なく、振り返ってはいけない。
「解説してやるよ。あんたは、人の道を踏み外してしまったんだ……!」
「それでも。それでも私は、接客に焦がれているんだよ。たとえかつての仲間を踏みにじったとしてもねぇ……!」
背後で展開する死闘。
そこから遠ざかるように、僕達は駆け足で進む。
まるでお伽噺の主人公のように、繋いだその手を離さないまま。
結局のところ僕は、現実逃避を試みていたのだった。