155日目 願い星一つだけ(3)
「ところで、あそこに居る子供達は……?」
「あ? バスの客だべ。いやあ、ここまで来る人は珍しいべな」
「客かい……!? まさか我が天文台に来た人なのか……!?」
空気がキレイねー、と心にも無いことを言う冷蔵子をジト目で見ていた僕は、遠くから聞こえてくる会話を聞くとも無しに聞いていた。
年老いて、訛りの強いバスの運転手と妙に言葉遣いが鼻につく天文台のスタッフ。地方のバスの運転手と山奥の天文台の職員は、そんな立場で無ければ出会う事も会話する事も無かっただろう。
運命を感じてしまうが、神はサイコロを振らないとも言う。それならば、なるべくしてなった関係かもしれない。そんなことを考えていると、聞き捨てならないセリフが耳に入って来た。
「ようやく、ようやく仕事が出来る……! 客がいるんだ、こんなに嬉しいことは無い……!」
その声には悲哀が溢れていた。
白髪混じりの髪をぴしりと決めたスタッフの男が、スキップでもしそうな勢いで近付いて来る。
「こんにちわー! ようこそ中ノ山天文台へ! 今日は星を勉強しに来たのかい?」
まるで子供向けのヒーローショーの司会のお姉さんのような口調だ。しかし中年のおじさんのそんなテンションは、見ていて背筋が寒くなるものがあった。
中年のおじさんがこうもハイテンションで話しかけて来た時、こっちはどんな顔をすれば良いんだろう? その曇りなき眼が怖かった。
僕は未完成の作り笑顔と共に、軽快なトーク作りにも失敗しながら、ろくに埋めることが出来なかったテストを提出する時のような気分で言った。
「ええっと、み、道が崩れたとか何とか言う話が聞こえてきたんですけど! 僕達、帰れるのかなー……?」
そう、久々の来訪者に歓喜するおじさんとは違い、僕達の未来は明るく無いのだ。帰宅する方法を失った僕らの前で喜びを表現するのは不謹慎である……というのは嘘で、単にハイテンションのおじさんが怖かっただけだ。
少しでもその中年にあるまじき気力を削ごうとする攻撃的な意志。まるで薩摩示現流の如く攻撃的なトーク術だ。しかしその一撃は軽やかに躱され、おじさんのハイなテンションは一向に下がる気配が無かった。
「ああ、それなら大丈夫だよぉ。一応もう一つの道があるんだ。ここから少し登ると山頂でね、そこから麓の村に下る道があるから大丈夫だよぉ」
そこまで一息で言うと、スタッフのおじさんは一瞬だけ後ろを振り返った。澄んだ空気の中、タイヤ止めの上に座って煙草を吹かすバスの運転手。どうしてこんな美しい空気を汚すのか? きっと清浄な大気の中では生きていけない体なのだろう。
淀んだ世界こそが彼の生きる場所なのだ。だからああやって煙草を吸い、少しでも大気を汚そうとしているのだ。怖いほどに青く透明な空気。清浄さで満たされた世界。山を覆う木々は深く、そして静かに他者を拒む。人はそこでは生きてはいけない。
紫煙をくゆらせる姿は、まるで戦場に佇む古参兵だ。孤高の老兵を哀れむように、おじさんは少しだけ眉を顰めた。彼らの間にある偶然で必然的な友情に思いを馳せる僕。そこにある感情は何だろう? おじさんはこちらに視線を戻して言った。
「ま、その道はバスじゃ通れないんで職員の車で送ることになるかな? いやあごめんね、災難だったね。……だからお詫びも兼ねて、ゆっくりしていってね?」
ゆっくりしていってね……その言葉に込められた感情は何だろう?
人気の無い天文台。スタッフの目の奥は深く、そして静かに笑いかけてくる。
貼り付けたような笑顔。その得体の知れなさに、僕はごくりと息を飲んだ。
……ここは魔境だ。
人がいてはいけない場所なのだ。長く居すぎると、人では無くなってしまうに違いない。
運転手の人が煙草を吸っていたのは、きっと魔除けだ。煙にはそういう効果があると聞いた事がある。
「ここには口径約百センチの反射望遠鏡があってねぇ、凄いんだよぉ? 星空観察会なんかもやってるんだ。ぜひ一度体験してみて欲しいな」
「そ、そうなんですか」
魔境の空気に浸り過ぎ、その心が変化してしまったのだろう。
妖怪化した天文台のおじさんは、獲物を狙う豹のように目を細めた。
「まあ、星空を見るためには宿泊する必要があるんだけどねぇ。なにせ昼間は星が見えないからね。いやあ、あっはっはっは…………泊まっていくかい?」
「いやそんな、あははー」
流れ落ちる冷や汗。背筋の冷たさを感じながら、口早に告げる。
同意を求めるように冷蔵子さんを探すと、何故か僕の後ろに隠れていた。
……知らない人と話しちゃいけないってやつか!
そういう性格なのは知ってたけど、僕だって知らない妖怪と会話したくは無いッ!
前門の妖怪、後門の冷蔵子さん。冷蔵子さんは「さっさと会話を終わらせなさいよ」とでも言いたげな目で見つめてくる。どうやら僕と共に妖怪退治をするつもりは無いらしい。
ちくしょう妖怪とマンツーマンかよ。妖怪と交渉するスキルとか持って無い。だけどどこからも助けは無く、僕は渋々と孤独な戦いに身を投じた。
「今日はプラネタリウムを見るのが目的なんです。だから……」
「プラネタリウム! 素晴らしい、実に素晴らしい選択だねぇ! 我が天文台にあるプラネタリウムには、あの天才星空クリエイターが作り上げたギガ・スターの後継機種があってねぇ! 最新式なんだよ、いや、私が無理を言って導入してもらったんだけどねぇ」
あのって言われても、どの天才クリエイターのことか分からない。
星空作ってる人なんてあんまり聞いた事が無いなぁ。世界に何人いるんだろう?
「四百万を超える数の星を映し出すんだよ! 圧倒的なんだよ! おおっと、ただし上映はお昼の二時からだねぇ。それまでに施設を案内させてもらおうかと思うんだけど、お昼はもう食べたのかい?」
「ま、まだですけど」
「ほほう!? ならカフェテラスがあるから一緒に食事しようね。そこでこの天文台の施設の事と、今の季節に見える星座の話をしてあげるよ」
「ナチュラルに同席決定!? 普通そこまでするものなんですか!?」
「いやなに、サービスだよ、サービス」
まるでサインに気軽に応じる有名人のような態度だ。
あ、ありがた迷惑なんですけど……!?
さあどうするか、このままこの妖怪と楽しくテーブルを囲むべきか真剣に悩んでいると、
「そのサービスは要らないわ」
僕の後ろに居る冷蔵子さんがきっぱりと宣言する。凍りつくように冷たい一言だ。この世の終りのような顔を見せるおじさんを後にし、僕らはカフェテラスを目指した。
辿り着いたカフェテラスは洒落たペンションのような一軒家だった。
プラネタリウムがある本館から離れた位置、高い背の木が覆う遊歩道の先にある。外観としては、スイスの観光地にある建物を真似たような感じだ。
建物もまた背高いケヤキに囲まれている。見上げる視線の先、爽やかな風が吹いて、枝葉が揺れた。揺れる影が、カフェテラスの白い壁にまだらの模様を作る。青葉が一斉にささやかな音を上げた。
中は落ち着いた木製のフローリングが敷かれ、テーブルも木製だった。マガボニー……とまでいかないけど、きっと高級な木材なんだろう。イスの背もたれには少し古びたクッションが見えた。花柄のデザインのそれは落ち着いた印象を見ている者に与える。
「さっきはありがと」
「なによ?」
「いや、あのおじさんの事。正直ありがた迷惑だったからさ」
席についた僕は、目の前に座る冷蔵子さんに向かって言う。
彼女は頬杖をついて、どこか遠くを見ている。
ゆったりとした時間の中、窓の外では木々の葉が揺れていた。
「別に、貴方のためじゃ無いわよ」
もにょもにょと言い辛そうに語る冷蔵子さんに対し、それでもさ、と言って僕は笑う。冷えたグラスに水滴が浮かび、水滴は青く翳った。
窓から見える空は静かで、色だけがどこまでも深くなっていく。明るいからこそ陰影は満ちる。それは冷蔵子さんの見せる横顔についても同じ事が言えた。
細い肩を、白い二の腕を伝わって流れる金色の髪。それは、どこか切ない。脆く華奢な印象。さっきから憮然として横を向く彼女だけど、その表情は単に強がっているだけのようにも思える。
やはり妖怪との会話は疲れたのだろう。ぶっきら棒な態度の彼女を前にして、僕はねぎらうように微笑み続けた。
プラネタリウムのある本館、その館内には色々な展示物がある。
まず目に付いたのは笹の葉だ。短冊が付けられたそれは、多分一年中そこにあるんだろう。少しだけ枯れていた。ちょっと進むと、隕石の展示と星の案内。ボードに貼り出された人工衛星のヒストリーが立ち並ぶ。そして謎のロボット。どうやら星空の解説やらクイズを出したりするマシーンのようだ。
「……貴方、何をやっているのかしら?」
「え? ほら凄いよこれ! 宇宙食を売ってるんだ」
僕はお土産コーナーの宇宙食を漁っていた。ヨウカンは要らない。なんだこれ? ハンバーグ? 宇宙ハンバーグか……。
「そんな物を買っても後悔するわよ。大して美味しいわけじゃ無いんでしょう?」
「ロマンが無いなぁ。宇宙を思いながら食べるのが美味しいんじゃないか」
まったく、冷蔵子さんには夢が足りない。
もっとわくわくしても良いのに。例えばこの安っぽいガラスの実験器具みたいな物とか。使い方がよく分からないけど、溢れるロマンはガンガンに感じる。
「今度は何を手に取っているのよ?」
「え? なにって……何だろう? ロマン器具?」
「ロマン器具って、貴方はそれをどう使う気なのよ?」
品物の横にある解説を読むと、どうやらこれはガリレオ温度計と言うらしい。水に浮かばせた物体で温度を計ると言う作りの、限りなく使い道が無さそうなギミックだ。
こういうのを見て「うわっスゲエ! 水で温度が計れる!」と叫ぶ可愛らしさがあっても良いと思うんだけどなぁ。無理か。冷蔵子さんだもんな。
「ん? これは……」
「また下らない物を見つけたのかしら?」
後ろから覗き込んで言う冷蔵子さんを無視しながら、僕はそれを摘み上げた。下らない物シリーズ第二段、体温で色が変わる指輪だ。ちゃちな作りのそれは、申し訳程度に星座の絵が描かれていた。
「何よそれ? 何に使う物なの?」
「指輪は身に付ける物に決まってるじゃないかバカだなぁ」
「貴方に常識を諭されたく無いんだけれど?」
後ろから聞こえる声のトーンが変わり、僕は思わず振り返る。
冷蔵子さんは割とマジでキレかかっていた。ヤバイ。
「体温で色が変わるんだって。色の変化でその時の気持ちが分かるらしいよ」
僕は震える心を隠し、優しく微笑んだ。
余裕の無い時ほど余裕を演じろ。そんなような事をジイちゃんが言っていた気がする。
「こんな物で気持ちなんて分かるのかしら?」
疑わしげな目で指輪を見つめる冷蔵子さん。
そりゃ実際には分からないだろうけど、そこはロマンなんだけどな。僕は思わずポツリと、
「少しは楽しんでよ。可愛くないなぁ」
「可愛くなくて悪かったわね!」
げげっ、思わず本音を言ってしまった!
ますます不機嫌になる冷蔵子さんを前にして、僕は後悔先に立たずという言葉を思い出していた。これほど容易く思い付き、なおかつ一切役に立たない言葉は他に無いだろう。
炎天下の氷のように急転直下で消えていく僕の余裕。ギリギリのラインの上で、それでも僕は微笑んだ。
「ははっ、冗談だって。この指輪、プレゼントするよ」
「はぁ? なんで……」
「君が可愛くなるように、おまじない」
そう言いながら、もう一度笑う。
……僕は一体何を口走っているんだろう?
ぷいっと顔をそらす冷蔵子さん。そこにあるのは激怒か憤怒か。
今こそ気持ちを伝えて欲しい、手のひらに乗せた指輪にそう願った。