154日目 願い星一つだけ(2)
プラネタリウムに行きたい。
冷蔵子さんのそんな提案を、僕は特に否定しなかった。
別にプラネタリウムに興味があるわけじゃない。しかし、興味が無いわけでもない。
幼い日に見たそれを懐かしむ気持ち、そんなものも確かにあったからだ。
「外出申請書は書いたのかしら?」
授業の合間の休憩時間。
冷蔵子さんはわざわざ僕の席の前まで来ると、そんな事を言った。
「え? そんなの後で出せばいいじゃん」
「規則では事前提出でしょう?」
言葉と共にひらり、と申請書類を広げる。
基本的に学園の寮で暮らす僕らは、休日に出かける際には申請をする必要があった。
「別にそんなこと言われたこと無いなぁ……」
今までのことを思い返してみると、僕は事前に申請したことが無かった。
というか、生活指導の先生から注意を受けてからしぶしぶ出す感じだ。
自宅に帰るのにも必要とか意味が分からない。どうしてそこまで監視されるんだ。
それに、申請書を出して無くても気付かれないことの方が多かった。
「文句を言わずに書くの」
「へーい」
注意され、仕方なく用紙を記入していく。
さらさらさら~っと。まあ大した項目も無いしその気になれば三分で書ける。
自分の机の上でそのまま外出申請書を書き上げる。項目は名前と行き先、それと用事の内容。そのくらいだ。一息に記入項目を埋めて書類を完成させると、僕の前に立つ冷蔵子さんは何故か眉間に皺を寄せた。
「……これ、外出先が『自宅』になっているじゃないの」
「ああ、うん。どこに出かけた時でも自宅って書くようにしてるんだ。こうしておくと余計なツッコミを入れられないから便利だよ」
「ダメよ。第一、家族に確認取られたらどうする気なのかしら?」
「ウチはわりと適当だから……」
主にジイちゃんが、と言いかけて止める。
どうせジイちゃんとの協力関係を説明しても呆れられるだけだ。
あはは、と照れ笑いする僕に対し、冷蔵子さんは何故か苦笑するように微笑んだ。
結局のところ、外出申請は何の問題も無く通過した。場所が良かったのかもしれないし、別に行き先にどこを書こうが問題にならないのかもしれない。そのどちらが正しいかは判断がつきかねるところだった。
終末になり、僕らはプラネタリウムを目指して出発する。
子供の頃に見た施設はすでに閉鎖され、今はもうどんな手段を使っても行く事は出来ない。そこで僕らはまず行き先となるプラネタリウムを探す必要があった。
冷蔵子さんが調べたところ、一番近くにあるプラネタリウムは何とか天文台という場所にあるとのこと。そこに行くには少しばかり遠出をしなければならず、電車とバスを乗りついで移動することになった。
なったのだが……。
「ここはどこなんだ!?」
この地は僕の知っている日本なのか!?
揺れながら山道を走るバス。軋む車体。そこから見える景色は断崖絶壁だ。
見渡す限りの山、山、山。
山肌はゴツゴツした岩ばかりで、峻厳な、という表現を脳裏に思い出す。いわゆる渓谷と呼ばれるだろうその地には、根も張れぬような岩場からヤケクソのみたいに木々が生い茂っていた。つ、土が無くても木って生えるのかな……?
人は生まれる場所を選べないと言うけど、植物もそうなんだろう。平地の柔らかな土の上に生まれることが出来なかった木は、己の運命を嘆くこと無く固い岩の上から天を目指すのだ。栄養の乏しい岩肌、滝のような勢いで流れる急流。谷は深く、日光すら十分には届かない。
そんな極限の環境で生き抜いてきた木々。谷間を彩るそれらには風格すら感じられた。公園で手入れされながら育った木とは大違いだ。そんな大自然の植物はやはり逞しいのだろう、バスの通る道を崖側から削っている。そのせいで道幅は極端に狭くなり、つまり僕らの乗っているバスは崖に落ちそうだった。
「ねえねえ、ヤバイよこの道! 絶対に細すぎるって! このバスの車幅とギリギリみたいなんだけどおおお!? なんか車体が斜めになってない!? 絶対に傾いてるよこれ落ちるんじゃね!?」
「落ち着きなさい」
冷静な声が返って来る。
隣の座席に座る冷蔵子さんはあくまで余裕のようだ。
もしかしたら現状が認識出来ていないのかもしれない。今もそう、僕らは傾いている。
「落ち着け無いよ! どうして僕らはアドベンチャー状態なの!? 魔境だよここ!!」
「日本に魔境なんてあるはず無いじゃないの」
頬杖をつき、顔だけこちらに向け、淡々と語る冷蔵子さん。
「じゃあ目の前に広がるこの光景は一体ナニ!?」
僕はバッと窓の外を手で示してみせる。
バスの速度に合わせて流れていく景色。ちょうどタイミングよく、猿みたいな何かが木から木の間を飛んでいく所だった。
「ただの大自然よ。山の中だけあって緑が多いわね。綺麗な自然が残っているって良い事じゃないかしら?」
「自然すぎるんだよ!! ほら見てよ、標識にツタが絡まって巨大な植物みたいになってる!! この地では人類の文明が植物に奪われかけているんだ!!」
「何をバカな事を言っているのよ。文明って言うのなら、現にこうしてバスに乗っているじゃない。この鉄の塊が文明の利器じゃなくて何だって言うのかしら?」
「このバスも奪われかけているじゃないか!! 車体が傾いてる、すっごく傾いてる!
僕らもバスごと自然に淘汰される寸前なんだ!!」
怖い……! 窓から見える景色が怖い……!
傾いだバスの中、僕の体重はどんどん窓の方、つまり崖側に偏っていく。それはさながら自然から挑戦状。奴らは峻烈なる意志を持って僕を戦いに誘っているのだ。
「さっきから心配し過ぎよ。貴方、何も分かっていないのね」
ふう、と溜息を吐く冷蔵子さん。
竪琴の音色ように凛とした声で続ける。
「道は何のためにあるのかしら?」
「えっ……? 何のためって」
「進むためでしょう? 道があって、そこをバスが進んで……。つまりこの道はバスが通るために誰かが作ったのだから、そこを通れないわけが無いじゃない。むしろこうして道が続く以上、百パーセント安全ってことなのよ」
「今も車体が傾いてるじゃないか!? 何が安全なのさ!?」
「考えてもみなさい」
静けさを湛えた瞳。
青く凍りつくような目で僕を見つめながら、冷蔵子さんは訳知り顔で言った。
「このバスは今日初めてこの道を通るわけではないでしょう? 何度も通っているはずだわ。何故ならそれが道なのよ」
よ、よく分からない!?
そんな僕の気持ちを汲み取ったのか、冷蔵子さんは改めて説明を続ける。
「舗装された道があるということは、そこに行き来があるということの証拠だわ。実績と積み重ねを示すものがある以上、貴方の心配はただの杞憂よ」
「むう……!?」
「運転手さんだって慌てて無いじゃないの。きっとこの傾きも手慣れたものなのよ」
「た、確かに!」
冷蔵子さんの言葉は一理あった。
この天文台行きのバスは何度もこの道を通っているはずだ。
ならば彼女の言うとおり、いつもこんな感じなのかもしれない。
そんな予想が間違っていたことに気付くのは、バスが目的地である天文台に着いた後だった。
「つ、着いたー……! 生き残ったぞー!!」
「大袈裟なのよ、貴方は」
ツンとすました顔で言う冷蔵子さん。その言葉にはどこか棘があった。
黒いワンピースドレスに身を包んだ彼女。その都会的な姿は自然の中に全く溶け込まず、山深い景色の中で酷く違和感を放っている。
例えるなら、ジャージの集団の中に一人だけ学生服でいるみたいな感じだ。ちなみに僕は今日も七分丈装備だった。
「そうは言うけどさ、もう何度崖から落ちるかと思ったことか……! 本当にこんな道を毎日通ってんのかな?」
どうやらこの天文台が終点らしいバスは、次の目的地を目指すでも無くいまだに駐車したままだ。そんなバスに視線を向ける僕に対し、冷蔵子さんは呆れたような声になった。
「毎日通っているから行き先になっているし、運賃も決められているのよ」
「それはそうかもしれないけどさ」
どうも腑に落ちない。
あんな決死行みたいな道のりを本当に毎日通っているんだろうか?
厳しい環境で生きる植物のように、この辺りに住んでいる人も僕らより強靭に出来ているのかもしれない、なんて事を考えていると騒がしい声が聞こえてきた。なんだろう?
声のする方向に視線を向けると、そこにはバスの運転手さんと天文台のスタッフみたいな人が立っている。運転手さんは煙草を一服しながら身振り手振りを交えて何やら訴えていた。
「だから、道が崩れそうなんだべ。引き返せないからここまで来たけんど、戻るのは無理だぁ。いや、おいも何度落ちると思ったことか。緊張して運転中に一言も喋れなかったぁ」
「ありゃー……。いやね、この前の大雨で危ないなぁとは思ってたのよ。ついに崩れちゃったか。県の方には危ないから何とかするようにって言っておいたんだけど、間に合わなかったねぇ」
「会社の方に連絡して、道が通れないって連絡せねばなぁ。だもんで、電話貸してくんろ。この辺は携帯が圏外だぁ」
普通の車は通れそうかい? と尋ねる天文台のスタッフに対し、バスの運転手さんは渋い顔をしながら「止めといた方がいいべ」と呟く。そして手にした煙草を吸い込むと、澄んだ大気の中に紫煙を吐き出した。
霞んだ煙はやがて空気に溶けるように消えて行った。鮮やかな木々の緑が、ありとあらゆる人工物を飲み込んでいく。街中では忘れられた世界、果てしない緑の世界が巨大な圧力と共に押し寄せて来る。そんな中で、天文台の施設だけがひっそりと人の在り処を示していた。
コンクリートと鉄骨を組み合わされて作られた巨大な施設を見上げながら、僕は隣に居る冷蔵子さんに視線を向けた。もちろん「道、危なかったんじゃないか」と訴えるためである。しかし冷蔵子さんは僕と目を合わせようとしなかった。腕を組み、その碧い瞳で押し寄せる世界を見つめながら言う。
「天文台って何でこんな山の中にあるのかしらね?」
明らかに何かを誤魔化そうとする冷蔵子さん。
そんな彼女を、僕は半眼になって見つめ続けた。