152日目 見えない星、見えない彼女
「水が怖いって……本気?」
問いかける僕に、飛天さまは叱られた子犬のようにシュンとしながら俯いた。
「そっか……」
誰にだって怖いものはあるだろう。
幽霊が怖かったり、自分より強い人が怖かったり、本気でジイちゃんの抹殺計画を立てる父が怖かったり。
さまざまな形で恐怖は僕らの中に存在している。
飛天さまが水を怖がるのも仕方の無いことだ、と心の中で呟きながら、いや待てよと思い直した。
「水が怖いって言うわりには、何の迷いも無く池に向かってジャンプしたよね?」
僕の乗るボートに一直線に向かってきた事を指摘する。
すると飛天さまは、恥らう乙女のようにか細い声で答えた。
「それは……貴様を狙う一心で、他のことなど一切考えもしなかった」
「そっかぁ……」
下を向いたままの飛天さま。
ただでさえ狭いボートの中、さらに身を縮こまらせている。
まるでこの世から消えて無くなってしまいたい、とでも言いたげにみえた。
僕はそんな様子の飛天さまを眺め、深々と嘆息を吐いた。
(なんでそこまで僕を恨むのさ?)
盲目的なまでに僕の命を狙う飛天さま。
しかし僕にはそこまで恨まれる理由が分からなかった。
言葉にしないまま思う。怖いよこの人、超怖い。
あれか? 警察に通報したことがそんなに許せないのか?
夜中に竹刀持って襲い掛かってくる方が悪いんじゃないか。本当、飛天さまって陰険で執念深いなあ。
「おい貴様、さっきからどうして黙っている? 何を考えているんだ?」
沈思黙考。寝耳に水。
己の心に浸っていた僕は、急に呼びかけられ慌てて意識を現世に戻した。
「ほわっ!? ななな、なんばしよっと!?」
「なにを言っとるんだ貴様は?」
な、なにを言っているんだ僕は?
一体どこの方言なのか自分自身でもよく分からない。
誤魔化そう。陰険で執念深い奴だと思ってました、なんて口が裂けても言えない……!
「か、考えていたんだ!」
「……なにを?」
「君のパンツのことを」
僕の言葉を聞いた瞬間、予備動作なしで拳を放つ飛天さま。
それはまるでボクシングの世界タイトルで見るような見事な速度のジャブだった。
「ぐふっ! は、速いッ!?」
殺気も怒気も無い一撃。
無駄な力が一切削がれた神域の動きだ。
無双無念、雑念を取り払った心の極地。
それは先輩と同格の高みだ。
剣の陰になり、剣と一つになること。
選ばれし者だけが到達できる至高の頂。
その頂に常に立つ者もいれば、一瞬だけ手が届く者もいる。
無意識。我を忘れるとも火事場の馬鹿力とも呼ばれる時間制限の作用。
恐らくは飛天さまはそんな類だったのだろう。
喪失していた心を突然取り戻したかのように、ハッとした声音で叫んだ。
「き、貴様は何を考えとるんだ! 恥を知れ!!」
ボートの中では立つ事もままならないのだろう、座った姿のまま怒りに打ち震えていた。
「パ、パ、パンツだとッ!? どうしたらそんな物のことを考えるんだ!?」
「どうしたらって。そりゃ、目の前で盛大にパンツを見せつけられたら誰だって……うわっ!? 危ない!!」
飛天さまが怒りを込めて拳を振り回してくるのを上半身の動きだけで避ける。
やはりさっきの一撃はまぐれか。
ひょいひょいと拳を避け続ける僕。
痺れを切らしたのか、飛天さまはパンチを止めて怒鳴り込んできた。
「ひ、人のことを痴女みたいに言うな!!」
「事実を言っただけじゃないか」
「ふぬぬ……! もはや生かしてはおけぬ! 貴様を殺して我も死ぬ!!」
「なんでそこまで思いつめるんだよッ!?」
半袖の裾から白い二の腕をぬっと伸ばして。
飛天さまは両手を突き出しながら迫ってくる。
どうやら既に正気が無いようだ。お面から覗く目は狂気そのものだった。
怖い。あたい、怖いわ……!
恐怖のあまり女口調になりながら、必死に抵抗を続ける。
片やパンツを見せた女。そして、片やパンツを見せられた男。
果たしてこの攻防は何を意味するのか? 分からないままに、僕らは争い合う。
――それでいいのか?
心の中で誰かの声が響いた。
笑う。いいはずが無いじゃないか……!
分からないままに争い合うなんて馬鹿馬鹿しい。
僕らには言葉があるのだから。強く強くそう信じながら、真剣な眼差しを飛天さまに向けた。
「待て! 待って! どうして僕らは戦い合うのさ!?」
「貴様が我の下着を見たからだ!」
「見たくて見たわけじゃ無いよ!」
「ならば死ね!!」
「ならばの意味が分からない!!」
言葉は虚しく響き、僕らはすれ違う。
いや、最初から交わる道など無かったのかもしれない。
オリオン座とサソリ座が出会わないように。今は一つの星座を形作る星々も、いつかは遠く離れ離れになるように。
近付き合えない僕らは、ただ争うことしか出来ないのかもしれなかった。
ひとしきり暴れた後、「ちょ、ちょっと! そんなに暴れたら池に落ちるって! 冗談抜きで!」という僕の言葉で正気に戻った飛天さま。
ようやく手足をバタつかせるのを止めた彼女は、ぜーはーぜーはー、と肩で息をしていた。
何が彼女をそこまで駆り立てるのだろう?
同じ惑星に生まれながら、僕には飛天さまの生態系が理解できなかった。
(見たくて見たわけじゃないって言ってるのに。ならばって何だよならばって。どうして僕はしばかれなきゃいけないんだ)
言葉も無く見つめる先で、水鳥が羽ばたいていく。
薄っすらと曇った空は掴み所が無く、ただ白い。
色を失った空から視線を下ろすと、そこには僕らがボートで浮かんでいる池が広がっていた。
水面は深く、そして静かに揺らいでいる。
広大な池は、さりとて見るべき所も無く、色の無い空と似たり寄ったりで虚しい。
意味も無く広がる水面。水は大気から温度を奪い、風を冷たくさせる。
結局はそれだけの事なのかもしれない。僕は嘯くように頭の中で呟いた。
色の無い風。
透明な大気が耳元に切ない音を奏で、体温が奪われ、醒めた頭で見る世界はどこかしら残酷だった。
そう感じた理由さえ見出せないまま。
まばら生える対岸の雑木を眺めながら、僕は言った。
「前から訊こうと思ってたんだけどさ」
「なんだ」
彼女は僕を見ているのだろうか?
飛天さまの視線の先を夢想しながら、しかし決して目で追うこと無く。
遠くを見つめたまま、僕はそっと口を開いた。
「なんでお面を被ってんの?」
風が、吹いた。
昼間には星が見えないように、僕らに吹き寄せる風の色も見えない。
そんなどうでも良い事を考えていると、隣の少女がおずおずと言葉を発するのが分かった。
「話せば長くなるのだが……」
うわあ、長くなるのか。
実はさほど興味があるわけじゃないんだよなぁ。
うっかり訊かなけりゃよかった……。
「我らが頂点、王天さまが決められたのだ」
「王天?」
頂点って、まだ他にもお面ガールがいるのかよ。
ただでさえダース単位で存在するのに。
ようやく、というタイミングで僕は飛天さまに視線を注いだ。
「その王天って人さ、どんな人なの?」
「ふむ……。我など、あの方の足元にも及ばぬ。我とて剣に生きてきた自負はある。だが……」
遠い目をしながら飛天さまは言う。
「あの方の強さは次元が違うのだ。努力や才能で片付けられぬ、持って生まれたもの。王気……いや、それよりもさらに上だな。運命に近い絶対的な何かが、あの方にはあるのだろう」
崇拝。尊崇。自分では辿り着けぬ頂に憧れる心。
それとも己自身に対する諦めだろうか?
彼女の声からは、そこにどんな感情が込められているのか僕には読み取れ無かった。
「ふーん……。で、見た目はどんな感じ? やっぱり強そうなの?」
ふーむ、と相槌を打ちながら、飛天さまは答えた。
「知らぬ」
「は?」
「我はあの方の素顔を見た事が無い。ゆえに、どんな顔か分からぬ」
「いつからお面を被ってんの!? その人!?」
驚愕の声を上げる僕に、お面を被った少女は少しだけ自慢気な声を出した。
「ふふ。故にこそ、王天さまなのだ」
どうやら彼女達の目指す強さとは、お面に注ぐ情熱のことだったらしい。
その生態系はちょっと理解できないなぁ……。
手を伸ばせば届く距離。すぐ傍らに居る飛天さまは、今の僕には遠すぎる存在だった。
風が吹き、飛天さまの長いポニーテールをさらっていく。
白い世界。
空虚な空の下、彼女の黒い髪だけが生を全うするように華麗に舞っている。
僕はそのさまを眩しく見つめた。
吹き寄せては返す風。
埋められない心の距離を感じながら、僕はただ眩しく見つめた。