151日目 飛天さまの悲嘆
「久しいな、我が宿敵よ……!」
「あんたは……飛天さま!?」
驚きの声を上げる僕。
それに満足したかのように彼女は背を反らせた。
顔を覆うお面。そこからはみ出す長いポニーテールの髪。
制服のスカートを翻して、残念女は威風堂々と立ち尽くす。
「なんでここに!?」
どうしてアヒル池なんかに?
こんなアヒルボートしか無い池になんの用なんだ!?
「言ったはずだ。我は貴様の闘気を感じると……! 戦いある場に、我もまた呼ばれるのだ! くっくっく。宿命、というやつだな」
フェロモンを感知するモンシロチョウみたいなものだろうか?
「なにかの虫みたいな奴だな」と思ったが、賢明な僕はそれを口には出さなかった。
代わりに、暗い声で告げる。
「キノミ派、タケノミ派……どっち?」
「は?」
「キノミとタケノミのどっちが好きかって聞いてるんだよッ!!」
「貴様は一体何を言っているんだ!?」
戸惑ったような口調の飛天さまに、僕はギラギラした視線を向けた。
何を言っているかだって?
この世で一番大切なことさ……!
「そう、だね。あなたはタケノミ派? それともキノミ派? さっさと教えてほしい、かな?」
ゆらりと近付く風の王。
ジリッ……。
声も無く、気迫に押されるように、飛天さまは半歩だけ後ずさる。
そして怯えながら竹刀を振りかざした。
「な、なんだ貴様ら!? おかしいぞ!? そんな闘気、我は知らん! 不気味な気合を出しおって……こ、こないで!!」
悲鳴を上げるように、飛天さまはか細い声を搾り出した。
だが止まらない。風の王は、とどまる事なく近付いて行く。
……おや? これはチャンスじゃないか?
今の内に……逃げよう。
うん、そうしよう。
いくら飛天さまと付き合いを深めても、竹刀しか向けられない。
もう対話の時間は終わって、僕はきっと彼女に関わり合うのを止めるべきなんだ。
「抜き足、差し足……」
ぶつぶつと呟きつつ、僕はそっと二人から距離を取っていく。
距離を取るには飛天さまの居る場所の逆方向に進む必要があり、必然的に僕は池を目指していた。
「見て。タケノミがこんなに酷い姿に……。あなたはどう思う、かな?」
「知らん! く、来るなー!! いやぁ……!」
風の王は踏み荒らされたタケノミを指差している。
どうやら飛天さまにも悲しみを共有して欲しいようだ。
しかし彼女の想いは届かず、飛天さまは震えながら竹刀を構えるだけ。
その光景を見届けながら、僕はそっとアヒル型のボートに乗り込んだ。
「酷いよね? 悲しいよね? ワタシは、犯人が許せないかな」
「我にはその気持ちは分からん!! だ、だからもう近寄らないで!!」
ろくに手入れもされていない古びた足漕ぎ式のボート。
哀れにも天井は破壊され、素人の手でオープン型に改造されている。
そんな逆境の中、悠然とそそり立つアヒルの頭が寂しさを誘う。
行こう、どこまでも。
寂しさは一緒に抱えて上げるから。
僕は足に力を込めると、一気にペダルを漕ぎ出した。
「あっ!? 貴様どこに行く気だ!?」
飛天さまが切羽詰った声で叫ぶ。
ちぃ! 気付かれたか!?
だがもう遅い。ふはは愚か者め!
内心で勝利を確信しつつ、陸から離れるために必死にペダルを漕ぎ続けた。
「逃がすかーーー!!」
手を伸ばす風の王を振り切りながら。
僕を目掛けてまっしぐらに、飛天さまは猛ダッシュをかける。
「気付くのが遅すぎたな! 僕はもう岸から離れている!」
哄笑するように宣言し、アヒルボートと共に無人の水面を突き進む。
「待たんか貴様ァーーー!!」
「嫌だ! 断る!」
断固とした決意で飛天さまの要求を否定しながら、さらにペダルを漕いだ。
徐々に速度を増していくボート。
風を切るアヒルの頭も心なしか男らしい顔付きだ。
もはや完全に岸から離れたボート。
しかし飛天さまは諦めないようだった。駆け抜けるように接近してくる。
もう僕は池の上だってのに、どうしようって言うんだろう?
あんなに速度をつけて……あ、まさか。
「や、止めろ! よすんだ!」
「命乞いか!? 今さら遅い!!」
押し止めようとする僕の言葉を切って捨てる飛天さま。
僕は思い出していた。あの遠い日の夜に見た、彼女の異常なほどの跳躍力を。
つまり飛天さまは……ジャンプしてボートに飛び乗る気なんだ!
「違う、そうじゃ無い! そうじゃ無いんだ!!」
自分の脚力ならば、ボートに飛び移ることが出来る。
そう確信しているだろう飛天さまに向かい、僕は大声で警告を出した。
ダメだ、彼女は気付いて無い……!
ジャンプなんかしたら……ジャンプなんかしたら!
「スカートでジャンプしたらパンツ見えるんじゃないかなぁ!!」
「あっ……」
僕のその言葉はあまりに遅すぎた。
まるで飛び立つ白鳥のごとく軽やかに地面を蹴り上げる飛天さま。
翼をはためかせるように。
紺色のスカートが、風を受けて巨大な大気の中に舞った。
コマ送りのようにスローになる視界の中。
その一瞬を煌かせながら、羽ばたく鳥のように無色の空を滑空する飛天さま。
翻るスカート。丸見えになるスカートの中身。
そしてそこから真っ直ぐに伸びる白い脚と、眼前に迫ってくる薄汚れた靴底。
(白か。ダッセェの)
そんな感想を最後にして、顔面に走る衝撃と共に僕の意識は途絶えた。
「ん……ここは……?」
「気が付いたか」
うわっ、近い!
すぐ隣から響く声。驚きながらゆっくりと体を起こす。
ここはどこだ?
見渡せば水、水、水。遠くに岸辺とまばらに生える雑木が見えた。
ああ、アヒルボートに乗ったんだっけ……?
ぼんやりとした頭で考えながら、何故か助手席に座っている飛天さまに目を向けた。
無言だ。何も言わず、座席に座りながらジッとしている。
「……そ、そこで何をされていらっしゃるんでしょうか?」
「何もして無い」
憮然とした口調で返す飛天さま。
僕をしばくつもりじゃ無かったんだろうか?
疑問に首を捻りつつ、言った。
「……何の用も無いならさっさと岸に帰ろうよ」
「そうだな、帰ろう。だからさっさと漕げ。ペダルを漕がんとボートが動かんだろうが」
僕が漕ぐのを待ってたのかよ?
黙って岸の方を見つめる飛天さま。
半眼になりながら彼女の横顔を見つめるが、どうやらマジ発言のようだ。
僕が起きるのを待ってたって事は、自分でボートを動かすのが面倒だったのだろうか?
用が無いならわざわざ待たずに、さっさと自分で漕げばいいと思うんだけどなぁ。
まあいいか。気を取り直しながらペダルを踏み、足に力を入れようとする。しかし――
「じゃあさっそく……痛ッ!?」
「どうした?」
ぶっきら棒に聞き返してくる飛天さまに向かって、僕は悲痛な声を上げた。
「いや、足のつけ根がすんごく痛いんだ。あ、痛たたた!?」
おおおおお!?
なんだこれ、股関節が外れたかのように痛い!!
ぶわっ、と嫌な汗が額から流れる。
痛みに悶絶していると、彼女は僕の顔を覗き込むようにして言った。
「……本気なのか?」
「本気だよ! あんたの蹴りのせいだろうが!!」
蹴られたのは顔面だろう。さっきから顔面も物凄く痛い。
そして蹴られて倒れた時に、足も変な捻り方をしたのだ。
きっとそうに違いない。ペダルに足をかけた状態だったからなぁ……。
「あ、痛たたた……」
叫ぶとさらに傷に響くようだった。
稲妻のような痛みが股間の辺りから脳天に突き抜けた。
僕は涙目になりながら飛天さまに視線を向ける。
「もうしょうが無いからさ、あんたが漕いでよ」
だが僕の言葉を無視するように、飛天さまは黙って岸を見続けた。
……何がしたいんだろう、この人? 僕は黙ってその横顔を見つめる。
一分経っただろうか? 二分経っただろうか?
ポツリ、と飛天さまは何かを囁いた。
「……けんのだ」
「え? なに?」
「動けんのだ! 我は、我は水が怖いので……」
それっきり、その場は静寂が支配する。
揺らめく水面は時折驚くほど深い色を見せ、静かに波打つ。
風が吹く。広大な水の領域に冷やされたそれは、冷たく耳元を通り過ぎていく。
アヒルボートにあたる波。ちゃぷん、ちゃぷんという音が、悲しげに響いた。
「……その、スマン」
何に向けられたのか分からない謝罪の言葉。
飛天さまのその言葉もまた、悲しげではあった。