149日目 そんな彼女の憂鬱
変わらない何かを探して。
僕らのどこかに芽生えた人格は、人生という名の旅に出る。
コギト・エルゴ・スムを口ずさみながら。
己の確たる定義を求めて、遍くこの世界を彷徨うのだ。
魂、輪廻、邂逅。
天国と地獄、ゲヘナ、黄泉の国。
ありとあらゆる空想が、放課後の黒板のように奔放に。
人は、終わらない世界を求めた。
永遠の旅人。月下の影人。
切なる願いは流れ流れ、時代の波の中で受け継がれていく。
変わらない物を求めて。
人は、朝も夜も空を見上げ続けた。
日の出を、有明の月を、まどろむ星夜を、きらめく天の川を。
巨大な夜空のキャンバスに、星の中に、終わらない物語を描いた。
戦士とサソリ。離れ離れになった男女。
世界中のありとあらゆる地で。
星は語り、物語は綴られ、変わることの無い永久の命を与えられる。
「ところが、だ。星は不変じゃない。どうだ、ビックリだろう?」
教壇に立つ女教師は、突きつけた銃の引き金を引くマフィアの幹部のような顔で笑った。
赤いスーツに、ふんわりと茶色のメッシュの入ったお団子頭。
派手すぎる服装はまあいいとして、問題はその髪の色である。
生徒には禁止されている茶髪。
特権を利用し、教師がその禁を破るのは、決して許されない行為だ。
しかし僕らは誰もそれを指摘しない。
教師の横暴だと糾弾することは出来ない。
胸に去来する悲しみが、慈しみが、それをさせない。
何故なら、先生はオシャレで茶色に染めたのでは無く……。
白髪染めが、彼女の衰えた頭髪を。
色を失った髪を茶色に染めただけだと、僕らは気付いていたのだ。
「つまり何が言いたいのかというとだな」
一度言葉を切ると、教室の中で一段高くなっている教壇から、アリのように整列して机に座る僕らを見渡して、言った。
「貴様達の若さも永遠では無いってことだ! ザマアミロ……!」
真紅の古典教師の異名を持つその人は、すでに三十過ぎ。いまだ独身だ。
重ねた月日は、確実に彼女の精神から何かを削り取っていた。
「てな事があったんですよ」
いつもの部屋で、僕は授業の出来事を掻い摘んで先輩に話す。
使い道の無い机。
そんな物の一つに座りながら、先輩はどこか得意気な顔を浮かべた。
「少年、知らなかったの? 星が永遠じゃないって」
いや、この話のキモは真紅先生の限界が近いってことだったんだけどな……。
星の方じゃ無かったんだけど。まあいいか。
気を取り直して、僕はありあわせの天文知識を披露した。
「太陽だっていつかは消えるんですよね。星の寿命とかで」
最後はブラックホールになるんだったけ?
いや、質量が足りなくて無理だったかな。
「寿命だけじゃ無いんだけどねー」
そう言って、先輩はニヒヒと笑う。
「北極星だって変わるんだよー。知らなかったっしょ?」
「え? 北極星ってあの動かない星ですよね? 変わるって何が変わるんですか?」
「ふふふ、実は北極星は……動いているのよ!」
ババーン、という感じに先輩は両手を広げる。
まるで密室トリックを見破った探偵のごとく、指を一本立てながら説明を続ける。
「今の北極星はポラリスっていう星だけどね? 何千年か前は別の星だったみたい。りゅう座の……あれ? なんて言う星だったかなぁ?」
肝心な所で忘れちゃってるよ、おい。
僕は半眼になりながら、疑わしげな目で先輩を見た。
「でも北極星って北から動かないって事に存在意義がありますよね? 移動しちゃったら台無しじゃないですか? 北を極めて無いですし」
「むむむ、そんなこと私に言われてもどうしようも無いしー!」
イスがガタッと耳障りな音を立てる。
哀れな器物の上げる悲鳴の声。
そんな音を気にもせず立ち上がりながら、先輩は大声を上げた。。
抗議の意を示しているのだろう、握り締められた右手は小刻みに震えている。
「北を極められなくなった星は、きっと北極星の名を返上するんだよ!」
「そんなチャンピオンベルトみたいな……」
わけが無い、と言いかけた僕を遮るようにして、玲瓏な声が響いた。
「先輩さんの言っている事は本当よ」
それまで部屋の片隅で黙々と本を読んでいた冷蔵子さんが、冷え冷えとした視線と共に口を開く。
「北極星は天の北極に位置する星に与えられる名前なのよ。今はこぐま座のポラリスが北極星と呼ばれているのだけれど、北極星とポラリスが常にイコール、というわけでは無いのよ」
ちなみに、と言いながら、冷蔵子さんは軽やかにそして涼やかに舌を動かす。
「春分点の星も変わるわ。魚座から水瓶座へ変わるんだけれど、一部の人の間では、これを新しい時代の幕開けと捉えているらしいわね。水瓶座の時代、アクエリアンエイジ。水瓶座は自立や革命のシンボルでもあるから、世界の変革を夢見る人もいるみたいよ」
ほらみたことかー! とふんぞり返る先輩を横目にしながら、僕は冷蔵子さんに向かって呟くように言った。
「……やけに詳しいね。もしかして、オカルトとかに興味あるの?」
水瓶座の時代。アクエリアンエイジ。そして、世界の変革。
そんな単語を耳にして思い浮かぶのは、オカルト同好会のことだ。
転生とか生まれ変わりとか、その手の世界にどっぷり浸かってしまった悲しい人。
一線を超えてしまったエックス氏の顔を思い出しながら、僕は嫌な緊張を覚えた。
……冷蔵子さんも奴らと同じタイプなんだろうか?
まれに痛いんだよなぁ、冷蔵子さんって。
夜の図書室部だっけ? 変なグループ作ってたみたいだし。
「オカルト? そんなわけ無いじゃない」
キョトンとした顔で冷蔵子さんは答えた。
ああ、そう言えば幽霊が苦手なんだっけ、冷蔵子さんって。
今さらながら、僕はかつての夜の出来事を思い出す。
自らが生みだした組織、夜の図書室部を殲滅せんとする彼女。
夜の校舎に突撃しようとする冷蔵子さんに、僕は学園七不思議を語って聞かせた。
恐怖に引き攣る冷蔵子さん。あの時の顔は今も忘れられない。
「私はただ、少しだけ星に詳しいだけかしら」
そう呟くと、彼女は読みかけの本に視線を戻した。
もう用事は済んだ、と言わんばかりの冷蔵子さんに向かって、僕は、
「星座とかに興味あったんだ」
何気なく、相槌を打つように言う。
とくに深い考えも無く出したそのセリフ。
だがしかし、冷蔵子さんが見せた反応は過敏に思えた。
金髪の隙間からのぞく青い目。
本から顔を上げた彼女は、氷を思わせる瞳で射抜くように僕を見つめる。
「な、なにかな?」
な、何が悪かったんだ……!?
極北の視線に晒され、居心地の悪さを感じる僕。
身じろぎするような時間が流れたあと。
冷蔵子さんはさらりとした口調で、
「別に……」
とだけ呟いた。
しかしその言葉とは裏腹に、彼女には何か思う所が感じられた。
隠された意味を。言葉の裏側にある気持ちを。
僕に察しろとでも言わんばかりの響きが、確かにあった。
部屋の中の会話が途切れる。シンと静まり返った世界は、温度すら無くしてしまったように感じられた。なんだこれ? どういう状況?
い、居心地悪い……!
やめてよね、こういうヒント無しのクイズみたいなノリ!
今の会話の何が悪いかなんて、分かるわけ無いじゃん!
冷蔵子さん、君は一体僕に何を求めているんだい!? さっぱり分からないよ!!
「え、ええっと、その……」
静寂を打ち破るように、僕はたどたどしく声を上げる。
まるで時限爆弾の起爆コードを切断する時のような緊張感が全身に走った。
冷蔵子さんは押し黙ったまま本を読んでいる。
それは僕を無視するためのポーズにも思えた。
「そのですね……」
冷蔵子さんは僕に目を向けないままだ。
僕は悪く無い。どう考えても悪く無い。
仮に悪いとしても、糾弾されるほどでは無い。
だから僕は、父と子と精霊の名において毅然と立ち向かおう。
(媚びるな! 心の弱さに堕するな!)
沈黙し、無言の糾弾を続ける冷蔵子さんを前にして。
僕は時間をかけながら、指を一本ずつ折り曲げ、強く強く握りこむ。
怯えるな。竦み上がるな。
そして、折れず曲がらず信念を貫くのだ。
握り締めた拳が痛む。
その痛みから目を逸らさずに――。
心を閉ざす冷蔵子さんに、巨大な壁に立ち向かうために、ただ強く意志を固めた。
「な、何か悪いこと言ったかなー……?」
ごめん、僕は弱い人間なんだ――
折れて曲がった卑屈な心を抱えながら、見えない誰かに頭を下げた。
「……さっきからなにを怯えているのよ?」
「え、えへ」
ようやく顔を上げた冷蔵子さん。そんな彼女に、僕はポリポリと頬を掻いてみせた。
怯えるべき理由が分からないから怯えているとも言える。人は未知を恐れるのだ。
冷蔵子さんに不機嫌の原因を聞こうとした瞬間、突然ドアが勢いよく開かれた。
扉を開けた人物は、中に踏み込むなり、金切り声を上げる。
「――戦争、かな」
そこにいたのはショートカットの女の子だ。
見慣れた顔に、見慣れない真剣な表情を浮かべる。
風の王を自称する少女は、血走った目で僕を睨みつけていた。