147日目 眠らない過去(3)
僕は本家の門の前に立っている。
家屋と庭は塀に囲まれ、木造の重厚な門だけが中へと通じているのだ。
木造には似つかわしく無い近代的なインターフォン。
門の右側に設置されているそれのボタンを、少し気後れしながら押した。
「お兄様!? 久しぶりです! わらわはずっと待っていました!」
「やあ、ヒナちゃん」
門から続く石畳の道を歩いていると、庭にはイトコのヒナちゃんの姿があった。
広大な庭には砂利が水を模して敷き詰められている。
いわゆる枯山水だが、庭師の苦心を文字通り踏みにじりながら。
ヒナちゃんは、陽光を白く反射する砂利の上に立っていた。
庭師とヒナちゃんの家族の絶叫が聞こえてきそうだ。
これは後が怖いなぁ。一応注意しておくか。
「ヒナちゃん、そこに立つのはちょっとマズイんじゃない? ほら、せっかくオシャレな感じに石が並べてあるんだし……」
「大丈夫です!」
何か確信があるように、ヒナちゃんは堂々と胸を張った。
「いいですか、お兄様。うちの庭は枯山水という呼び名の、古式ゆかしい庭園です」
「うん、それが分かるから言ってるんだけど」
「いいえお兄様、お兄様は分かっておられないわ」
「?」
なにが言いたいんだろう?
とりあえずジッと待っていると、ヒナちゃんは左足を軸にして軽やかに一回転した。
ザリザリと音を立てて大切な砂利がえぐれていく。
ここまで豪快に荒らされるといっそ清々しい。
「じゃーーーん」
回転が終わると同時に両手を広げるヒナちゃん。
そして自から効果音を口にする。
これは……ええっと、
「登場演出なのかな?」
「ふふふ、わらわはこだわりのある女なのです」
どうやらこだわりのある女らしいヒナちゃんは、謎の演出を終えると、ようやく枯山水の庭を踏み荒らしている理由を説明し始めた。
「いいですかお兄様? 枯山水の精神とは天地万物を現すことです」
「天地万物?」
「そうです。森羅万象、天然自然。泰然自若とした雄大なその流れ、その静けさを表現したものなのですが……」
そこで一端声を潜めるようにすると、ヒナちゃんはまるで宣教師のように厳かな口調になった。
「わらわは気付いたのです。人もまた自然である、と。ゆえに、わらわの行いもまた自然なのです」
「……つまり?」
「わらわの残した足跡もまた、枯山水たり得る。そう気付いたのです」
えへん、と胸を張り自慢する。
そんなヒナちゃんを前にして僕はしばし考えた。
さてどうしたものか?
……本人が満足しているならそれでいいか?
いや、ヒナちゃんの両親はそれでは納得しないだろう。
下手に放っておくと、きっと彼女は叱られる。
ここらで注意しておいた方がいいかな。
「でもさ、家族の人が怒るんじゃないの? 庭師さんが一生懸命に整えたものだろうしさ」
「いえ、そこは心配ありません! うちの庭を管理しているのはお爺様ですから」
「ご隠居が? いやだったら、ご隠居に悪いんじゃ……」
「いいんです。お爺様はもう庭の手入れ以外にやることが無くて、とても暇そうなんです。わらわが庭に足跡を残すのは、手入れに手間がかかる方がボケ防止にもなるという、お爺様への深遠なる配慮が隠されてもいるのです。ふふふ」
深遠なる配慮があったらしい。
なるほど、そういう理由ならもはや何もいう事は無い。
踏み荒らされた庭を無感動に眺めながら。
僕は右手に抱えていたプレゼントをヒナちゃんに差し出した。
「はい、これ」
「? なんですか、お兄様」
「この前、約束したでしょ? クシの弁償をするって」
その言葉を聞くやいなや、パァっとヒマワリのような笑顔を浮かべる。
「わぁ! これがそうですか!?」
そう言ってヒナちゃんは嬉しそうに受け取った。
薄いブルーのラッピング。
小さな花を象形文字にしたような絵柄、そんな包装紙で包まれたプレゼントだ。
中身は結局リボンにした。
「いま開けてみてもいいですか?」
「どうぞ」
まるで子犬のようにはしゃぐヒナちゃんを前に、苦笑を漏らす。
ここまで喜ばれるとは思って無かった。
予想外な反応で、妙な感慨が胸に広がる。
「うわぁ、このリボン……ジッパーが付いているんですか?」
「ちょっと変わってるでしょ? でも、ヒナちゃんに似合うと思って」
僕が選んだリボンは一風変わっていた。
黒いリボンはフリル状のヒラヒラが付き、真ん中の帯び目から左右に向かってジッパーが付いている。
そこにどういう機能的用途があるのかは知らない。
「こんなの今まで見たこと無い! 一生懸命選んでくださったのですね、お兄様……!」
なにやら凄く感動しているようだ。
こうまで喜ばれると、まさか五秒で選んだとは言えないなぁ……。
冷蔵子さんが妙に絡んできてまともに選ぶ時間が無かったんだ。
悪いのは僕じゃない。許してくれ、ヒナちゃん。
「お兄様の想いをヒシヒシと感じます! 嗚呼、やはりわらわ達は見えない何かで結ばれているのですね……!」
「そりゃ親戚だからね。遠いと言っても、血の繋がりはそれなりにあると思うけど」
「もう! そういう事じゃありません!」
喜びから一転、怒りの表情を浮かべながら、ヒナちゃんはスズメのように唇を尖らせた。
「いいですかお兄様、わらわ達は花とミツバチなのです!」
「養蜂農家に憧れてるの?」
「ぶっぶー! 比喩表現だから養蜂とは関係無いもん!」
さらりと美しく流れる前髪。
視界の邪魔だったのか、切り揃えられたそれをウザったそうに左手でかき分けながら、ヒナちゃんは夢見るように空を見上げた。
「草原に美しく揺れるわらわ。そしてそこに飛んでくるお兄様。わらわは自分一人では花粉を飛ばせず、お兄様はわらわの蜜が無ければ生きていけない……! そんな、そんな関係なのです」
「知ってるヒナちゃん? 最近、ミツバチがいきなり失踪するんだって。それも世界中で。原因がよく分からないなんてミステリーだよね」
「えっ? 本当ですか? ……って話を誤魔化さないでください!!」
ジャリジャリと音を立てて地団太を踏むヒナちゃん。
枯山水世界は今や崩壊の危機に瀕していた。
いや、生まれたからには滅びる定めか……。
天地万物を描いたそれは、描いたものと同じく、僕の目の前で消え去ろうとしている。
諸行無常。この世に滅びぬ者などいようか。
海も、空も、川も、大地も。
遥かな果てに浮かぶ星々ですら移り変わって行く。
時は巡り、星はその位置を変え、いつしか星座も崩れていくだろう。
かつて古代の人が見た星は、どんな形をしていたのか?
今とは違う星座。世界は形を変え、人は流され、ただ思い出だけが胸に残る。
誰も覚えていない記憶を。
それだけを抱きしめて、微笑みながら、僕はウロボロスの時間を生ている。
「そうは言ってもさ、親戚関係とミツバチってどんな比喩表現なの?」
「もう! お兄様のおたんちん!」
おたんちん!?
初めて聞く言葉だ。一体何を意味するのかさっぱり分からない。
「ヒナちゃんって難しい言葉をよく知ってるね」
「ふふふ、お爺様のセリフはとても参考になるのです」
キラーンと瞳を輝かせるヒナちゃん。
僕はコホンと咳を払うと、畏まるようにして居住まいを正した。
ここから数年に渡る因縁が終わるかもしれないと思うと、なんだか慎重な気分になる。
「話は変わるけどさ、ヒナちゃん」
「なんですか? お兄様」
「遮那からもプレゼントをもらったりしてるの?」
ごくりと息を飲む。
そんな僕の緊張に気付いていないのか、ヒナちゃんはあっけらかんとした口調で言った。
「遮那ちゃんですか? わらわと遮那ちゃんなら、よくプレゼント交換とかしますよ」
ビンゴ……!
やはり遮那は、ヒナちゃんに特別な想いを持っている!
「それによくお化粧品の話もしますし。遮那ちゃんって睫が長いから、マスカラ使わなくても綺麗ですよねー……。わらわちょっぴり嫉妬しちゃいます。リップは遮那ちゃんがお勧めしてくれたの使っているんですけど、遮那ちゃんてとっても趣味がいいですよ」
男が化粧の話をするワケないし、マスカラを使う必要は最初から無い。
ましてやリップを選ぶセンスが良いはずが無い。
いやもしかしたら、奴はヒナちゃんのために涙を飲んで化粧品売り場に並んだのかもしれない。
そう考えると、奴の根底にある恐ろしいまでの想いが見えるようだ。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍び。
男でありながら、リップクリームを選ぶ日々。
それもきっと、全てはヒナちゃんに話を合わせるためだ。
遮那の心にあるもの。それは、愛、だろう。
「お化粧の話が出来るのって、わらわには遮那ちゃんくらいしか居ないです」
なにやらヒナちゃんが説明を続けているが、今はもっと大事なことを考えねばならない。
遮那。僕に対し度重なる嫌がらせを続けてきた悪魔。
奴の目的が見えた今、長きに渡った僕と遮那の冷戦も、終りを向かえるかもしれない。
そろそろケリをつけときたいなぁ……。
漠然と僕は思った。