143日目 世界の中心で、愛を叫ぼう(3)
理論は適当です。
雨は降る。
この世界から色を奪いながら。
空の色、花の香り。
温かな手のひらの感触は、いつまで心に残るのか。
消失と悲しみ。
風に晒され、消えて行くことが当たり前であるなら。
行方知れずの思い出を笑い。
胸に残る微かな記憶を、あの懐かしい日々を夢に見よう。
「少年、君は私をどんな目で見てるのかな……?」
笑顔で問いかけてくる先輩は、しかしどうしてだろう?
酷く威圧感を伴っていた。
「ど、どんなって?」
「なんで私が熊の手を集めてるって思ったのかなぁ?」
「それは……長い付き合いだからですかね」
「本気パーンチ!」
「ぐおぅ!?」
瞬時の踏み込み、刹那の交錯。
目に見えない速さで放たれた先輩からの一撃で、僕は宙を飛ぶ。
「ごはっ!!」
そのまま背中から壁にぶつかる。
衝撃で、肺の中の空気を吐き出した。
「ちょ……ちょっと!? 大丈夫なの!?」
慌てたように声をかけてくる冷蔵子さん。
身を屈め、ごほごほっと咳き込みながら、僕はこちらに駆け寄って来ようとする冷蔵子さんを手で制する。
「だ、大丈夫だから……!」
「で、でも貴方、さっき三メートルは飛んだわよ!?」
「紙一重で躱したよ。見てなかった?」
「どう見ても躱せて無かったわよッ!?」
絶叫する冷蔵子さん。
やはり彼女には分からない、か。
打たれて痛む胸をさすりながら、先輩を見る。
先輩はやはり分かったのだろう。腕組みしながら僕に微笑みかける。
「腕を上げたようだね、少年」
「ふふっ、いつまでも昔のままじゃ無いってことですよ……!」
お互いの健闘を称えあう僕らに、冷蔵子さんはハテナ顔だ。
「ね、ねえ? 何がどういう事なのかしら?」
事態が飲み込めず、オロオロと尋ねてくる。
しょうがないなぁ……。
僕は冷蔵子さんに近付き、先ほどのやり取りを説明する事にした。
「だから、さっきの先輩の一撃を僕は躱してるんだ。それだけさ」
「あんなに吹っ飛んだじゃないの!?」
「ちっちっち、甘いな。僕は先輩のパンチが当たる瞬間に自分から後ろに飛んで、当たる位置をずらしたんだよ」
「…………はぁ?」
説明に納得いかないのか、眉を顰め、
「そんなのでパンチの威力が減るわけ無いじゃないの。バカなのかしら?」
「ば、バカって……」
酷い! だってそれが答えなんだ! 他に言いようが無い!
「ファンタジーの読み過ぎよ。後ろに飛んだからって衝撃が逃がせるワケ無いじゃない」
「う~ん……どう言ったらいいかな」
つまり僕がやった事は、攻撃のタイミングをずらすことである。
攻撃というのは、対象物に接触する時間が短いほど衝撃が大きい。
サンドバックを同じ角度揺らすとしても、それが一秒の内なのか十秒かけて行うかで威力は大違いだ。
パンチの威力を最大にしようと思えば、拳が接触する時間が最短になる位置に打ち込む必要がある。
そのために的確な腰の捻り、腕の収縮、足の踏み込みが要求されるのだ。
当然のことながら、相手は何とかして攻撃を躱そうとする。だから打ち込む方は瞬時に腰の捻りを変え、僅かに足の踏み込みの位置を修正しながら、逃げる相手を追うのだが……。
僕は先輩のかける軌道の修正すら超える速さで動き、その拳と僕の体が接触する時間を引き延ばした。
だからあれほど派手に吹っ飛ばされたのである。本当に強力な一撃を受けた時、人は真後ろでは無く真上に吹っ飛ぶ。あるいはその場に崩れ落ちてしまう。そうなったらアウトだ。
「分かりやすく言えば、受身を取ったって言えばいいかな? 見た目よりダメージが少ない受け方をしたんだよ」
「どこがよ? えいっ」
「ぐはっ!?」
せ、先輩に打ち込まれた部分と同じ場所を、的確に突かれた!
痛い! ずらして受けても、先輩の攻撃はノーダメージじゃ済まないんだよ!
「ほらみなさい。やせ我慢しているだけでしょう?」
「ぐあああッ!? グリグリとえぐるように……!」
冷蔵子さんは僕の左胸、正確に言えば脇腹あたりに拳を押し付け、まるで磨り潰すように何度も捻りを入れてくる。
僕の傷口を確認したいのか、それとも単にダメージを増やしたいだけなのか。そのどちらの意図か判断しかねながら、助けを求めるように先輩に視線を向けた。
「せ、先輩! なんだか凄く酷い目にあってるんです!! 助けて下さい!!」
何故か先輩は目を閉じている。
腕組みし、沈思黙考しながら、ややあってからそっと口を開いた。
「……少年」
「なんですか!?」
「油断大敵だね! 私の一撃を上手く捌いたからって油断しちゃダメだよ?」
「え……ええっ!? これ、油断とかそういう問題ですかね!?」
「むっ。私を無視しないでちょうだい」
「痛い痛い! 止めて! ボディーブローはキツイ!!」
拳を押し付けてくるのを止め、今度はサンドバックのように叩いてくる冷蔵子さん。
ヒビが……! ヒビが入ってしまいそうだ! アバラへの累積ダメージが洒落にならない!
「あら? なんだか汗びっしょりよ、貴方の顔」
誰のせいだと思ってるんだ……?
声も出せず見つめる先で、冷蔵子さんはその冷たく映る瞳を少しだけ和らげる。
冬の日に気まぐれで差し込む日の光のように、そっと僕に向かって微笑んだ。
「あんな勢いで壁に叩きつけられたんだもの。最初からやせ我慢しなくて良かったのに、バカね。……さ、保健室に連れて行ってあげるわ」
「少年、まだまだクンフーが足りないね!」
あれー? なにこの流れ? おかしくない?
釈然としないものを感じながらも、僕は冷蔵子さんの肩を借りて保健室に向かった。
休日の街角。
人がせわしなく交差するそこに、一軒の雑居ビルが建っている。
ヨーロピアンテイストの、ちょっとしたお城をイメージした建物だ。
その一階はいわゆるファンシーショップであり、カラフルなアイテムが陳列されていた。
「へえ。こんな店にちょくちょく来てるんだ」
「意外だったかしら?」
冷蔵子さんと一緒に並びながら、僕は『オレンジ・ノエル』という名前の店を眺めていた。ティーンズ向けの雑貨が所狭しと置かれたその店は、冷蔵子さんのお気に入りの店らしい。
冷蔵子さんは上に麻色のニット、下は褪せた青色のロングスカートという落ち着いた格好だ。足元はオリエンタルなサンダルで、いかにも涼しげである。
僕は七分丈のTシャツに七分丈のカーゴパンツという、なんだか七分にこだわり抜いたかのような格好だが、実のところ特に深い意味は無い。
「で、その親戚の女の子って言うのはどんなアクセサリーが好きなのよ?」
「う~ん、ちょっと変わった娘でさあ」
紆余曲折を経ながらも、僕は冷蔵子さんの協力を得ることに成功していた。
彼女に紹介してもらったこの店ならば問題無さそうだ。
「まあリボンを贈るって言ってあるから、リボンの中から選ぼうと思うんだ」
「リボンね。でもリボンって言っても色々あるわよ?」
そんな事を言い合いながら店内へと足を進める。
街路を交差していく人々。
その波を見渡した時、視線の先に引っ掛かる物があった。
「ん? あれは……」
「どうかしたのかしら?」
「……いや、なんでも無いよ」
尋ねてくる冷蔵子さんに軽く返して、止めていた足を前に進める。
(まさか、アイツのわけが無い――)
それはただの願望だったのかもしれない。
ふと見かけた後ろ姿。
長い黒髪。キャミソールから見える細い肩。
それは僕の知る人物にとても良く似ていたが、勘違いである事を祈った。
視線を逸らした後。
その人物が振り返り、こちらを凝視していたことにも気付かず。
僕は冷蔵子さんと下らない話を交わしながら、『オレンジ・ノエル』の店内へと進んでいた。