132日目 ストレンジ・ラブ
戦いはいつも虚しい。
国土は荒れ果て、無意味に命が失われ、人心は荒廃する。
たとえそこに勝利があったとしても虚しい結果に終わることもある。
それを象徴するのが『ピュロスの勝利』の故事だ。
かつてローマと戦うことになった経済都市タレントゥムは、エペイロス王ピュロスを頼った。
ピュロスは強く、よく兵を指揮し、ローマの軍勢を破る事となる。
勝利を喜ぶ部下。それに対しピュロスは「もう一度こんな形の勝利すれば、我々は破滅するだろう」と述べたと言う。
彼らの勝利はあまりにも損害の大きいものだったのだ。
この故事にちなんで、損害が大きく得る物の少ない勝ち戦を『ピュロスの勝利』と呼ぶ。
「だからテストの点数で一喜一憂するなんて虚しいことだと思うんだ」
「ふうん?」
教室の片隅で。
返却されたテストのプリントを片手に、冷蔵子さんは冷然とした視線を送ってくる。
流れる汗を無視して、僕は決然と胸を張りながら言った。
「テストの本分は自分の学力を把握する事だしさ。点数っていうのは相対的な物でしか無い。重要なのは、今の自分の実力を確かめてこれからどうするかって事さ」
そうさ、重要なのは結果で無く過程。
勝利の余韻に浸るのでは無く、これからどうするかが重要なのである。
「だから点数を比べ合うとか、そんなのは虚しい話さ。テストは他人に勝つ物では無く、そう、自分自身に打ち克つという試練だから……!」
「テストの点で勝負しよう、って貴方から言い出したんじゃないの」
「過去に囚われちゃダメだ! 日が進むように、月が絶え間無く歩くように、人は常に未来を目指しているんだ!」
拳を握り締め力説する。
そうさ、過去にこだわっちゃいけない!
たとえそれが、自分自身の言葉だったとしても!
過去を捨て去り、未来を目指す僕。
冷蔵子さんは無言だった。相変わらず冷たい目である。
しばし僕を見つめた後、僅かに肩を竦めると、
「言いたい事はそれだけかしら?」
冷たく言い放った。
無慈悲。白々とした月の光のような、無情な美しさがそこにある。
「……ぐぬぬ、これが世に聞く圧迫面接って奴なのか……?」
「はあ?」
「どう答えても睨まれる! 揚げ足を取られて攻撃されるんだ!」
「何の話よ?」
怪訝な表情を浮かべる冷蔵子さん。
彼女はそう、さながら天然圧迫機。
凍るような瞳で他人にプレッシャーを与え続けるのだ。
「大体、自信無いって言葉は何だったんだよ! 九十五点ってほぼ満点じゃないか!」
「普段は百点だもの」
「クソッ、そんなの勝てるわけ無いじゃないか! 出来レースかよ!」
ちなみに僕の点数は八十点だ。
この点数で自信に満ち溢れていた頃が懐かしい。
「あらあら? 負けた途端に言い訳なのかしら? 惨めなものね」
「くぅぅ……!?」
「勝負を持ちかけて来たのは貴方だし、私に自信が無かったのも本当よ? それなのに、ねえ今の貴方の態度はどうなのかしら? 負け犬、って言うのかしらね?」
「ち、チクショウ……!」
悔しいが何も言い返せない。
八十点取った時点で僕は天狗だった。負けは無いと思った。
そして冷蔵子さんが「あらら、今回はちょっと自信無いわ」的な発言をした事により、勝機を見出した僕はしなくても良い勝負を挑んだのだ。それも自分から進んで。
過去を捨て去り、未来を見据えても、負けた事実は厳然としてそこに在る。
心には背けない。だから僕は敗北を受け止めねばならなかった。
「いいさ、今回は君の勝ちだよ。でもね、次に勝負する時はハンデをもらうから! 二十点はもらうけど、良いよね!?」
「捨てセリフがそれ!? プライドは無いのかしら!?」
だってハンデが無きゃ勝てやしないじゃないか……!
僕は闘志に燃えていた。
大体、普段は百点ならこっちも百点取らなきゃ勝負にならない。
無理じゃん。無理ゲーじゃん。
「ハンデを三十点と言わなかった所が僕のプライドさ!」
「……………………」
過去を受け止め、未来を見据え、勝つための土台を作ろうとする僕。
何故だろう、冷蔵子さんの瞳は普段よりさらに冷え冷えとした物になっていた。
「何の話をしているのかな? テストの結果の事?」
何者じゃ!?
突然横から声がかかり、僕はくるりと視線を向けた。そこに居たのは、
「賢者くん?」
「そのあだ名、正直辛いんだよね。特にテストが返って来た時なんかは」
あはは、と爽やかに苦笑する学年一のイケメンボーイ。
賢者の称号を持つ男が、何の脈絡も無くそこに立っていた。
「特に今回は自信無くってね」
そう言って謙遜するように微笑むが、もうその手は食わない。
ちらりと冷蔵子さんを一瞥した後、僕は注意深く賢者くんを眺めた。
「勝負? 勝負だよね? テストの点数で競い合うって事だよね!?」
「し、勝負?」
「じゃあハンデだ! 十五点もらおうか! 一点も引かないよ!」
勝利を掴むには、まず戦う条件から始まるのだ。
揺るぎない決意で挑む僕。
そんな僕に対し、冷蔵子さんが錐のように鋭く呟くのが聞こえた。
「……貴方はそれで良いのかしら?」
「ふふ、確かにたった十五点じゃギリギリってとこかな……! だけど僕にもプライドがある! これ以上のハンデをもらったら男として名が廃るからね!」
「ハンデをもらう時点でダメでしょう!? 男らしくハンデ無しで勝負しなさいよ!」
何やら騒いでいるが気にしない。
目の前には冷や汗を垂らす賢者くん。僕は声を張り上げて言った。
「さあ何点だった!? 僕は八十点さ!」
「え、ええっと、九十点だけど……」
「九十……って事は、ハンデの分を引いて七十五点だから……よし、僕の勝ちだ!」
「え? ああ、うん」
おっし、やったぜ!
グッと拳を握り締めながら冷蔵子さんに自慢した。
「勝ったよ! いえーい!」
「ハンデ付きじゃないの。虚しく無いのかしら?」
「戦いはいつだって虚しいもんさ」
「……思わず一理あると思っちゃったけど、そういう話じゃ無いわよね?」
ふはは、何とでも言うが良い! 勝利は心地良いのう!
しかし勝負、勝負と言えば……何か引っ掛かるな。何だっけ?
「あ、そう言えば」
ポンっ、と手を打ちながら僕は賢者くんに視線を送る。
「ラウンドツーがまだだった」
「ラウンドツー?」
首を傾げる賢者くん。そんな彼に見せ付けるように僕は冷蔵子さんの肩に手を回した。
「いえーい。僕達付き合ってまーす。……なんちゃって」
肩に手を回した瞬間、見えない位置で僕の足を踏み抜く冷蔵子さん。
……痛いじゃないか。思わず「なんちゃって」とか言っちゃったよ。
僕と恋人のフリをしてくれる予定の冷蔵子さん。
彼女には言っていないが、賢者くんの前で見せ付ける事こそ最も重要なのだ。
逆に言えば、賢者くんに疑われたら台無しである。
ギリギリと足を踏みにじられる痛みをこらえながら、僕は微笑を浮かべていた。
「ヤダ、恥ずかしいじゃないの」
冷蔵子さんは肩に回された僕の手をそっと握る。
その仕草は一見可愛らしいものだが、密かに僕の指を折ろうとしているから侮れない。
僕と賢者くんの戦い。
果たして、僕が勝った後に残るものは何だろうか?
勝つために引き換えにした物と見合うだけの物が、そこには在るだろうか?
ふとした疑問に襲われるが、今さら後には退けなかった。
さあ勝負の結果はどうだ!?
視線を向けると、賢者くんは引き攣った顔で笑っていた。
そしてイチャつくフリをして暴れる冷蔵子さんの肘が、僕の脇腹にミートする。
思わず冷蔵子さんの肩から手を外してしまう僕。
そんな僕の肩を、後ろから掴む手があった。
な、何者じゃ!? 慌てて振り返ると、
「なあお前、嘘だって言ったよな? 嘘だって言ったよな、冷さんと付き合ってるのは……! じゃあ何だよ? 今のは何だよ!? なあおい、何だって訊いてんだろうが!!」
そこに居たのは怒り狂う長ソバくんだった。
あわわ……!
前回に続いてマジギレですか!? そこまで冷蔵子さんって人気なのかよ!?
果たして僕は何を得て、何を失おうとしているのか?
得る物が圧倒的に少ない戦いを。ピュロスの勝利に陥っている事を、その時の僕は気付けないままだった。