127日目 黄昏は未来で待つ
忘れた頃にシリアス系。
コメディを期待された方、申し訳ござらぬ…!
「ここかな?」
足元には背の高い草が生い茂っていた。
学園近くの山から、峠まで伸びる山道を黙々と歩く。雑草に荒れた道は細く、ともすれば獣道にも思えた。
(……この場所で合ってるかな?)
目指す場所は先輩から聞いてはいたものの、正確な位置は分からない。ガサガサと草を掻き分けながら山道を進む。
道は次第に緩い下り坂になり、重なった樹の幹の隙間から、前方にアスファルトの舗装が見えた。どうやら山道は、舗装道路と丁字でぶつかるらしい。僕は足を速めて一気に交差地点まで進んだ。
「多分……ここだよな?」
独り言のように呟く。連れは無く、僕の立つ峠道にも人気は無かった。藪を突き抜けた僕は一人きりで立つ。アスファルトの固い人工の感触が、目的地に到着したことを告げた。
道の向こうから清流の音がする。道の先、白いガードレールと遠景に広がる山の木々の葉が見えた。水音は遥か下方から響いている。あのガードレールの向こうは崖になっているのだろう。
「近場だから舐めてたけど、結構自然が残ってるもんだなー……」
いつか先輩から聞いた『心地良い風の吹く場所』。ここがそれであるはずだった。一人きりで山並みを眺める。ううむ、絶景じゃないか!
「こんな事なら誰か誘えば良かったかな?」
絶景を独り占めというのも勿体無い話だ。どこまでも広がる景色は、僕一人には大き過ぎた。どうして僕は誰も誘わなかったのだろうか? と今頃になって疑問に思う。
……考えたって、分かんないや。
諦め、辺りの風景を見渡す。頭上を覆う枝葉が鮮烈な緑色に輝き、岩肌に冷やされた空気がひやりと僕の前髪を揺らした。
「電柱あるかな~?」
地図を片手に電柱を探す。電柱には住所が書いてあり、目印になるような建物が無いこんな場所では、現在位置を確認できる重要な手掛かりだ。
先輩の言っていた場所は多分ここであっているだろう。しかし慎重な僕は、その確信を得たいところだった。ここまで来ておいて「別の場所でした」では笑えない。
「あっ、あった! けど、遠過ぎる……!?」
電柱は隣の山の山肌に沿って立てられていた。灰色に細長く伸びた電柱が、緑の木々に混じって生えている。
遠過ぎるだろ……! 確認に行けねえ……!
視線を下に向けると、底まで数十メートルはある崖が広がり、さわさわと透明な川が流れているのが見える。
さすがにこの崖を降りて、彼方に見える電柱まで近寄るのは無理だな……。
僕は口元をひくつかせながら、手にした地図をそっと裏返した。
さて、僕がこうして山深い峠に来ているのには理由がある。原因はジイちゃんだ。休日は学園の寮から自宅に帰る僕。家でゴロゴロしていると、ジイちゃんはこう言った。
「のう、トシちゃんちに行こう」
トシちゃん、というのはジイちゃんの友達の爺さんだ。つまり一線を越えた人であり、孫に武の道を教えるために僕を練習台にしようとした人物である。
トシちゃんの正体を知ってからは出来るだけ関わり合いにならないようにしているのだが、何故かジイちゃんは僕を連れて行こうと躍起だった。何故か? それは、ジイちゃんが一線を越えた人であるからだろう。
「ごめん、ジイちゃん。僕はもう約束があるんだ」
「そう言いながら電話を手に取るのは何故じゃ!? これから約束を作る気じゃろ!!」
「…………違うよ? ほら、あれだよ。これから行くよって連絡を入れるために、」
「その微妙な間は何じゃ!? 今考えた言い訳じゃろ!? そうじゃろ!!」
ジイちゃんの指摘は全く正しかったが、それを認めるわけにはいかなかった。
「用があるから急がなきゃ! 急がなきゃいけないから、もう行くね!」
「なんで説明口調なんじゃ!? おい!?」
手を伸ばすジイちゃんを振り払い、着の身着のままで家を飛び出す。行く先など無い。少なくともトシちゃんちでは無い。行方も知らぬまま、僕はただひたすらに駆け抜けた。
「ここまで来れば……大丈夫かな?」
自宅からかなり距離を取った所で、一息つく。乱れた息を整えながら「さてこれからどうしよう?」などと考えるが、特にプランは無い。何とはなしにポケットに手を突っ込むと、微妙な違和感が指先に伝わってきた。
「ん? なんだこれ」
引っ張り出してみると、それは地図だった。
「ナンダコレ? ……ああ、あれか!」
『心地良い風の吹く場所』を記した地図。風の旅人である先輩が、かつて僕に語ったオシャレな路上の場所がそこに示されている。
地図は先輩が手書きしたもので、非常に前衛的なタッチで描かれていた。所々に覚え書きのように地名が記されている。が、肝心の道が大雑把過ぎてわけが分からない有様だ。
こんな物では到底目的地に辿り着けるとは思えない所だが、実はヒントが隠されていた。地図の裏には精密な風景が描かれている。連なる山の峰と、細く伸びる川。恐らくは峠から眺めた景色だろう。
それこそが『心地良い風の吹く場所』から眺めた風景であり、真の地図と言えるものだった。この絵に描かれた景色と合致するポイントこそがゴールだ。
「目指してみるか……?」
空を見上げる。晴れた青空が、透明な半球を描きながら遥か頭上に広がっていた。
地図の裏側に描かれた風景と、眼前に見える景色を交互に見比べる。ふむふむ……おおっ!? 完全に一致してるじゃないか!
「よっしゃ、任務完了! 僕達の旅は始まったばかりだ!」
誰も居ない峠は静寂に包まれている。
……ついテンションが上がって叫んじゃったけど、虚しい……! やっぱり誰かと一緒に来るべきだったか?
わずかに後悔するけど、今となっては後の祭りだ。する事も無く、ぼんやりと風に吹かれる。心地いい静寂に包まれながら、意識は過去へと遡っていった。
壁一面の巨大なガラス窓。そこから見える空は青く、無音の静寂に満ちていた。音も無く流れる雲。僕はただそれを見つめている。
僕の前に座る先輩は、水の入ったグラスを揺らしている。波紋を広げながら。水は冷たい翳をテーブルに落とす。僕らは、水の底にいた。
――まあいずれ、一緒に行く事になるでしょ?
その時の僕は、確かに何の疑いも無く信じていた。過去、現在、未来。そのいずれにおいても僕は先輩と共にいて、いずれの場所にも赴くだろうと。
――きっと、全部の場所は行けないよ
だから、先輩の返事は意外だった。想像していなかった言葉は僕の中の何かを揺らし、その揺れは波紋の如くさざ波を立てる。乱れた心は、その理由さえ思い付かないまま、困惑に満ちていた。
先輩は僕を見つめながら、苦く笑う。深い海のように何かを湛える瞳が、音も無く揺れるた。僕はただそれを見ていた。為すすべも無く、ただ見ていた。
あの時の僕は何を考えていたのだろう? 時は流れ、感情は、押し流されるように日常に埋もれて行く。……埋もれて行き、今ではもう見えなくなっている。
「そうか」
はっとしながら目を見開く。
突然の理解。それは朝の目覚めのように唐突に訪れた。
どうして気付けたのだろう?
その原因が分からないまま、ここにやって来た当初の疑問の答えが、一瞬にして頭に浮かぶ。
(そうか、僕は思い出す為に来たんだ)
どうして一人きりで来てしまったのか? どうして僕は誰も誘わなかったのか?
それは僕があの日の感情を思い出す為であり……つまりはあの日に還る為だった。
此処には僕しかいない。僕の感情しか無い。そして僕は……。
風が吹く。とても、心地の良い風だった。
長く伸びる尾根。空は良く晴れ、木々は穏やかな風に吹かれている。揺れる枝葉は宝石のように輝き、それが世界の果てまで続いているようだった。
ここは先輩の場所だ。見えない先輩。その隣に立つようにして僕がいる。木々のざわめきと清流のせせらぎ。誰もいない。先輩の思い出と、僕だけがいる。そして僕は……苦笑した。
帰ることなど出来ない。時間は過去へは戻らない。僕はこうして、あの日に帰ったフリをしている。それだけだ。あの時の気持ちも、思い出せるはずが無い。思い出したフリをするのが関の山だ。
「先輩、僕は決めましたよ」
過去には戻れず、時に流され、僕は感情を見失う。あの時の僕が何を想ったのか、今はもう思い出せない。だから僕は今ここに在る感情を、気持ちを、素直に受け入れる。
「今度は僕が先輩の為に見つけます。心地良い風が吹く場所を」
そしてその場所を伝えよう。
誰も居ない場所、先輩の思い出の地に一人きりで立ちながら、そう誓った。