125日目 月をねだる子供達
人類が月の地表を踏んだのはいつだったか?
詳しく知ろうとは思わない。
宇宙の歴史に興味の無い僕にとって、それが過去の事であるのが分かれば十分だ。
とにかく人は月に届き、国旗が立てられ、競争は終わった。
高嶺の花のように見つめたその地は、今や手垢に塗れている。
例えそれを為したのが誰であっても。
僕らはもう月に憧れない。少なくとも、かつての人々のようには。
見果てぬ夜空。
その先に見た世界は、憧れそのものだった。
クライ・フォー・ザ・ムーン。
月をねだる子供は、幸か不幸かそれを手に入れてしまう。
幾千もの憧れは、空高く輝く楽土は、手にした瞬間に土と砂礫に変わり。
僕らはもう、月に憧れる事はない。
「久しぶりだな」
思わず久しぶり~なんて反射的に返事をしかけて止める。
振り向いたそこには、見慣れたく無いが見慣れてしまった人物が居た。
「あんたは飛天さま! まだ生きていたのか!?」
「勝手に人を殺すな!」
「勝手に……願ってちゃいけないのか……?」
「良いわけ無いだろ!? 何を考えとるんだ貴様!?」
激昂する飛天さま。
もっとも顔はお面に隠されているので、声の調子から判断した結果に過ぎないが。
とっさに辺りを見回す。
夜の街路に人気は無く、空高く浮かぶ月だけが僕らを見ていた。
どうして買出しの時に限って襲ってくるんだよ!?
なんでこうタイミングが良いんだ!? まさかどっかで監視しているのか!?
「おい!! 何とか言え!!」
そろそろ警察に相談すべき時なのかもしれない。
問題は、保身に忙しいあの組織が真面目に対応してくれるかどうかだ。
前回見捨てられたしなぁ……。
自分で解決するしか無いかな……。
「はぁぁ……」
「なんだその溜息は!? 馬鹿にしてるだろ!? 絶対馬鹿にしてるだろ!! なあ、おい!!」
握った竹刀をプルプル震わせている。
僕はそんな飛天さまを、アシナガバチの生態を観察するファーブルのような気持ちで見ていた。
「テンション高いっすねー。夜行性なんすか?」
「だ・れ・のせいだと思ってるんだ!? おどりゃー!!」
スカートなのに大股開きに足を開きながら、怒りに肩を震わせる飛天さま。
女性力がフリー・フォールのように秒単位で垂直落下している。
知人として一言注意しておいた方がいいだろうか?
……いや、止めておこう。
それこそ失礼に当たるだろうし。
我ながらなんと言う気遣いの心。この心遣いはもう少し褒められても良いと思う。
真っ暗な空の、見えない奥底から風が吹く。
夜風は僕と飛天さまの間を通り抜け、静かな囁きだけを残す。
やれやれ、どうしよう? このまま真剣勝負するしか無いのかな?
そう考えた次の瞬間、
「――誰だっ!?」
「――この気配は!?」
直感のざわめきと共に、僕らはほぼ同時に身を翻す。
視線の先、数メートル離れた所に人影が在った。
まるで夜風が呼んだかの様に現れたその人物は――。
「久しぶり、だね」
かつて、風の王と呼ばれた少女だった。
僕の隣に立つ風の王。いや、風子ちゃんと呼ぶべきか?
どこか小悪魔めいた微笑を浮かべるその少女に向かい、僕は開口一番に言った。
「生きていたのか!?」
「勝手に殺さないで欲しいかな!?」
「しばらく姿を見せなかったからさあ。何となくノリで言っておくべきかな~……って」
「……キミはもう少し慎重に言葉を選ぶべきだね」
吐き捨てるように言う。
どうやら彼女の中で、僕の紳士ポイントはだだ下がりのようだ。
まあいい。なるようになるさ。僕は気を取り直して尋ねる。
「それで、こんな夜更けに何してんの?」
「風がキミのピンチを伝えてね? 助太刀に来たんだ」
「そ、そうなんだー。……風が伝えた? ホワイ?」
「ふふ、何故ならワタシは風の王だから、ね」
答えになってねーよ!
おのれ、どうやって僕を監視している!?
それとも偶然!? 偶然であってくれ……!!
そろそろ本気でしかるべき窓口に相談すべきだろうか?
慄く僕を前にして、少女はさらに言葉を続ける。
「そう、ワタシは風の王! 名前とは! 誰かに付けられるものでは無い! 例え違う名で呼ばれようと! ワタシは常に風の王なの!!」
どうやら、大阪さんから与えられた新たな名前はお気に召さなかったようだ。
本当の名を捨てた少女は、自ら選び取った名前を誇らしげに叫んでいた。
「ほう? 二人がかりか……それもまた良かろう……!」
チャキ……なんて時代劇のような音は上げないが、飛天さまは竹刀を構え直す。
満月が、悲壮な静けさをもって僕らを照らした。
それはこれから始まる決戦の、ささやかなるオープニングイベントだった。
月に臨む、か。
ごくりと息を飲み込みながら、月下に対峙する少女達を見守った。
そう、僕の役目は見守る事。
じりじりと少しずつ後ずさり、徐々に戦闘空域から脱していく。
「おいこら貴様。な・ん・で、そそくさと距離を取っているんだ!?」
「いや……決戦に水を差しちゃ悪いと思って」
「この戦いは貴様と我の戦いだろうが!? 何で他人任せなんだ!?」
月の光がそうさせるのか、飛天さまは狂気の絶叫を上げる。
だが僕にだって言いたい事があるんだ!
射抜くような瞳を向け、本音をぶつけた。
「他人事であって欲しいと……考えちゃいけないのか……?」
「良いわけ無いだろ!? 貴様、本当もういい加減にしろよ!?」
月と狂気。触れ得ぬ月に、かつて人は狂気を重ねた。
月への憧れ。憧れと狂気。狂気への憧憬。
しかし僕はもはや月には憧れ無い。狂気への憧憬も無い。
だから出来れば飛天さまの相手はしたく無い。それが偽らざる本音だった。
「という訳で任せたよ風の王! 君だけが頼りだ!」
「えっ!? 良いの!? もの凄くキミをご指名みたいだけど?」
「良いんだ。二対一は卑怯だしね」
「まずキミが戦うという選択支は……?」
そんな物は無い。
ふー、ふー、と鼻息荒く闘気を揺らめかせる飛天さま。
その怒気から逃れるために、僕は風の王の背に隠れるようにして立つ。
「……もはや剣で語るほか無し。その女を倒せば貴様の番という訳だ……!」
「いいかい風の王、やつの弱点はきっとお面だ。そこを狙っていこう」
「弱点狙い!? 卑怯じゃないかな!! それ!!」
戦いに卑怯という言葉は無い。
勝てば官軍。とにかく僕が戦闘を避けられればそれで良いのだ。
「準備は出来たか!? 貴様ら!!」
「相手をするのは僕じゃ無い!! だから貴様"ら"という言葉は撤回してもらおうか!!」
「ねえ!? さっきからキミの発言は何かおかしいよ!?」
三者三様の葛藤を抱えつつ。
月だけが、静かに僕らを見つめていた。