124日目 僕と先輩と城攻めの心得
雨の日には独特の匂いがある。
それは晴れた日とは違い、どこかしら密やかな香りだった。
苔むした岩肌を流れる水雫は。
鮮やかなエメラルドグリーンに輝いて見えた。
灰色の空は暗く、冷たく、そして物悲しく映る。
だからきっと僕の心も、苔土を掴む指先も、何かしら悲しみを抱いているに違いなかった。
「どうした少年!? ファイトだよ!」
頭上から先輩の声が響く。
僕は崖にしがみ付いていた。
ぷるぷると震える手足。
限界は落下とイコールだった。さっきから、壮絶な悪寒が続いている。
「先輩! 本当にここって登れるんですか!?」
「なぁに? もう弱音を吐くの? だらしないな~」
僕らのいる公園は、小山を利用して作られた自然公園だった。
高台があり、斜面があり、切り立った崖の一部は細かなブロックで補強されている。
風雨にさらされたブロックには苔が生え、土がたまり、今は僕が何かの虫のようにしがみ付いていた。
「だって、もう限界が近いんですけど!! ぐぅぅ!? 雨で指が滑る!!」
「忍者だ! 少年、忍者の気持ちになるんだ!」
先輩はグッと片手の拳を握り締めて叫ぶ。
雨が降り、容赦なく叩き付け、汗のように流れていった。
ロック・クライミングもどきの運動で崖を登る僕と先輩。
ザ・城攻めごっこと名付けられたこの遊びは、城の石垣の攻略をイメージしていた。忍者がどう関わってくるかは知らない。
諦めたら楽になれる……!
指先は徐々に摩擦を失い、僕とブロックは抗えぬ運命の中で引き離されようとしていた。
引き離されれば、それは永遠の別れとなるだろう。
別れは落下であり、落下は色んな意味で別れになりそうだった。
「ぬおお!! 別れてたまるかぁ!!」
「その意気だよ! 少年!」
ギリギリの所で力を振り絞り、少しずつ上を目指し登っていく。
眼下を眺めれば、地上はそれなりに遠く見えた。
「先輩、どうして僕達はこんな事をしているんでしょうか……!?」
「それはね、少年。先人の思いを学ぶ為だよ!」
「学ぶ……?」
「そう。かつて城攻めに挑んだ武将達の悲哀を、覚悟を。私達は知る事が出来る!」
先輩は僕よりも遥か先まで崖を登っている。
雨雫が彼女の髪を濡らし、そして頬を伝って流れていく姿が美しかった。
「ぐうう……! 僕のイメージとしては、城攻めってもっと華やかだったんですけどね……! こんなに過酷だとは思いもしませんでした!!」
「ふふ、さっそく学んだね? その意気だよ!」
「生きて帰れたら活かしたいと思います……!」
雨に濡れ、髪を頬に張り付かせ、先輩は僕に顔を向ける。
水を含んだジャージは黒く染まり、剥き出しの手足の白さが際立った。
まくられた袖からぬっと突き出る二の腕。裾と運動靴の隙間から見える踝。
そこには……密やかな香りが息づいているような気がした。
「ゆ、指の感覚が……! 先輩、城攻めって凄く辛いです!!」
「そうだね! じゃあどうしてこんなに大変なのに、先人達は城攻めをしたと思う?」
喘ぐ僕とは対照的に先輩は余裕そうだ。
しばし考えてから僕は答えた。
「……そこに城があるから?」
「ふふ。この崖を登りきった時、きっと君は違う答えを見つけるはずさ!」
「ええ!? なんですかその曖昧な返答! 教えて下さいよ!」
「答えは教わる物では無く、自分で見つけるものだよ? ワトソン君」
片目を閉じてウインクする先輩。
果たして僕は、生きて答えまで辿り着けるだろうか?
雨で濡れたブロックは冷たく、僕の指先から熱と共に力が失われていく。
このまま……僕は落ちるのか!?
「先輩! 本気でもう限界っぽいです!」
「少年はそこで終わる定めじゃないよ! レッツゴー!」
愛はさだめ、さだめは死。
かつて読んだSF小説のタイトルが頭をよぎった。
SFでは珍しい女性作家。
作者は正体を隠していた事もあり、男性だと思われていたという。
正体を隠しながら愛を語る女は、必死に石垣を登る男に何と声をかけるだろう?
分からない。分からないまま登り続ける。
戦場で戦う男の姿を見たなら、きっと応援するだろう。
馬に乗り、必死に槍を取る男の姿なら、きっと声援を送るだろう。
では石垣にしがみ付く男の姿を見たならどうするか?
困る。きっと困るだろう。
応援するには間抜けな格好だし、声援を送るには情けない姿だ。
たとえそれが城攻めに必要な事であっても、一見して何をしているか分からない。
さらに途中で落ちたらどうだろう? 悲惨だ。この上なく悲惨だ。
忍者ならもっと悲惨だろう。
人知れず、夜の闇に紛れて石垣を登ろうとする忍者。
もしも途中で力尽きて落ちれば、まさに絵に描いたような自滅だ。
お前は一体何をしたかったんだ? となってしまう。
「……それだけはイヤー!! っと?」
頭上に差しのべた手が、今までとは違った手応えを返す。
どうやら登りきったようだ。
高台に辿り着いた僕は、そのまま柵を乗り越えて大の字に寝転がった。
「こ、今回ばかりはマジでキツかった……! 雨で、手が、滑るし!」
これまで、先輩の発案した謎のスポーツにほいほい挑んで来た僕。
今まで何とかなってきたんだからこれからも大丈夫でしょ?
なんて甘い考えで臨んだ結果がこれである。
びくんびくん、と痙攣する手足の筋肉。指は寒さと痺れで感覚がよく分からなかった。
「なんだ~? 惰弱だな~」
僕と同じくロッククライミングもどきを完遂した先輩は、余裕の表情で立っている。
くっ、さすが先輩だ……!
女性である先輩より体力で劣るのは、何だか悔しい!
最後の力を振り絞り、僕はヨロヨロとした足取りで立ち上がった。
「な、中々良い運動になりましたね……! まあ、余裕ですけど!」
「途中、限界だーって連呼してたじゃん?」
「言葉の綾ですよ! 城攻めをする足軽兵になりきってたんです!!」
「本当~?」
胡散臭そうな目で僕を見る先輩。
くっ、静まるんだ、僕の両足……!
秘められた疲労が、隠された乳酸菌が、筋肉を痙攣させる……!
「さっきから~なんか~小刻みに震えてるし~」
先輩はじと~っとした目を僕に向ける。
僕は負けじと、歯を剥き出しにするようにして笑った。
「はっは。これは武者震いですよ!」
「……何に対して武者震いするのさ?」
「そりゃあ城攻めですよ! はっは、拙者、城攻めは初めてでゴザルよ!」
「おうおう、成りきってるね~」
プルプル震える足に活を入れ、胸を張って朗らかな顔を作る。
雨の中、胸を張り、やせ我慢する僕。
悲しむ余裕など無い。灰色の空なんて攻め落としてやんよ……!
密かに決意を固め、雨粒で爆撃を繰り返す雲を睨み付ける。
視線を戻すと、そこには僕を見つめながらニヒヒと笑う先輩の姿があった。
「……なんで笑ってるんですか?」
「ん~? 何でも無いよ~」
先輩は、雨で濡れた自分の前髪を両手で絞る。
白い指が黒い髪を掴み、絡まり、対比するような美しさを演じた。
毛先から束となって落ちる雫。
その仕草には、どこか密やかな匂いがあった。
思わずごくりと唾を飲み込む。
いや、一体何を考えているんだ僕は!?
何フェチなんだ!?
自分でも分類できないようなフェチは持ちたくない!!
「それで、分かったかな?」
「ふぇ!? な、何も分からんとです!!」
「……少年、何で急に熊本弁なの?」
分かってはいけない……!
本能が全力で警告を出している。
理解した瞬間、僕は今しがた見つけてしまった新たなフェチを背負って生きていかねばならない……!
それはきっと特別なフェチで、それを持ってしまう僕もまた特別な存在なのです!
「特別って言葉には残念な響きがありますよね?」
「いや、別にそうは思わないけど……?」
小首を傾げる先輩。
思案顔を一転、どこか面白がるような笑みに変えると、改めて僕に尋ねてくる。
「それで少年は、城攻めをする人の気持ちが分かったかな?」
雨雫が地面を打つ音が、バックグラウンドミュージックのように響く。
ザアアという音を聴きながらしばし考え込んだ。
雨に濡れ、冷たい石を掴み、栄光無きロッククライミングに挑む兵士達。
その心とは……その心とは。
「強いられていた……んですかね?」
「ん! それも答えの一つだね! 誰だって、好き好んで城を攻めたりはしないんだよ」
特に石垣があるような城はね~と呟く先輩を前にして。
戦って地味でキツいんだな、としみじみ思う僕だった。