118日目 少女、フルスロットル。
人間らしさとは何だろうか?
ふとそんな事を考えた時、あまりにも当たり前の事に気付く。
そう、人間がやる事は全て人間らしい行動なのだ。
だから、こんな仕草はどうだろうか? と悩む必要は無い。
あるいは、思い悩む事も含めて人間らしさは成立する。
卵が先か鶏が先かと言う話にも似ているが、言うべき事は一つであった。
下手の考え休むに似たり。案ずるより産むが安し、だ。
特に情報伝達が加速する現代社会では、スピードこそが物を言う。
遅いことは悪なのだ。
必要なのはアクセルを全開にする狂気だけ。
その点で言えば、マン島を駆け抜けるバイクはまさに現代の最先端と言えた。
「……という訳で、最近はマン島のバイクレースに興味を持ってるんだ」
「何が『という訳』なのよ? 説明が全然無いじゃない」
イスに座りながら小首を傾げる冷蔵子さん。
しまった。考え事をしながら話した僕は、色んな説明をすっぽかしてしまったようだ。
ポリポリと頬を掻きながら改めて説明する。
「ほら、今は情報化社会でしょ? 僕らもアクセルを踏み込んで生きる必要があると思ってね」
「貴方はむしろ、ブレーキを踏むことを覚えた方が良いんじゃないかしら?」
クスリ、と微笑む冷蔵子さん。
その艶麗な様子に思わず見とれてしまう。
さらりと流れる金色の髪は、色付いた麦穂のように優しく揺れる。
いつもは冷たく見える青の瞳も、今日は幾分か柔らかく見えた。
「それにしてもバイクねぇ。確かタイヤが二つの乗り物でしょう?」
「タイヤが二つって……」
あまりにも斬新なバイクの表現方法だ。
それじゃ自転車も大八車もバイクになってしまう。
いや待てよ、自転車はバイクで良かったんだっけ?
……どうだったっけ?
ううむ、これじゃ冷蔵子さんの事を笑えないな。
是とも否とも言えないまま、僕は曖昧に笑った。
とある事情から僕らは恋人のフリをしている。
だからこうやって、授業の合間に会話をしているわけだが……。
果たして先ほどのやり取りは、他人から見て恋人同士の会話に見えるのだろうか?
それを考えると、一筋の汗が頬を流れて行った。
何かが間違っている気がする。
少なくとも、バイクのタイヤの本数は色恋とは無関係のはずだ……!
どうする!? どうすればいい!?
恋人らしさを模索し心の迷宮に入り込む僕に、冷蔵子さんは怪訝な表情を浮かべた。
「バイクのタイヤは二つじゃなかったかしら?」
「ザッツライト! と言いたい所だけど、もうちょっと特徴があるかな」
「細かい所は良いのよ。どうせ興味無いんだから」
アクビを噛み殺しながらそんな事を言う。
何故だ!? どうして興味が湧かないんだ!?
民家すれすれの公道を、時速三百キロメートルで駆け抜けるレースだよ!?
荒ぶる心。しかしギリギリの所で言葉にはしなかった。
何故なら、僕もバイクの事はあんまり知らないしね……!
齧った程度の知識を披露するわけにも行かない。
しょせん僕はニワカなバイクファンなのだ。
引き下がるタイミングで下がるべきであり、今はその時だった。
なあなあで済ませようとしたその瞬間である。
脳裏に一筋の光が走った。
光は青色や赤色を明滅させながら一つの映像に変わる。
それは、タイヤを滑らせながら全力で走るバイクの勇姿だった。
――ブレーキ? おいおい、まだそれを使うタイミングじゃないだろ?
頭のネジが外れたとしか思えない速度でバイクは疾走する。
アクセルは緩めず、むしろ切り込むようにしてカーブに挑む。
そうだ、狂気だ。全開にした狂気だけが勝利を掴むのだ。
拳を固く握り直すと、僕は決然として言い放った。
「もっとバイクに興味を持って欲しいんだ……!」
「嫌よ」
「早っ!? 即座に否定された!?」
光の速さで要求を断る冷蔵子さん。
そのスピードは非常に現代的であり、彼女が常にアクセルを踏み込んでいる事は間違い無かった。
最先端を果敢に生きる彼女は、ツンと唇を尖らせながら言葉を続ける。
「前にも言ったでしょう? 私は機械が苦手なのよ」
「……あー、何か聞いた事があるかも」
「だから機械の話にも興味が無いわ。鉄や電線を加工して何が面白いのかしら? それに比べて森林は良いわぁ。森は色んな命を育むのだから」
そのまま冷蔵子さんは森林万能論を展開し始めた。
機械化を憎む少女に対し、僕はポツリと本音を漏らした。
「まるで文明に取り残された古代種族みたいだな」
「……何か言ったかしら?」
「いえ、何でもありません!!」
うわービックリした! ビックリした!
かなり小さい声で言ったはずなのに、何で反応出来るんだ!?
おちおち油断も出来やしない……!
ドクドクと急激に脈打つ心臓を、懸命に落ち着けながら僕は言った。
「主張は分かりました、裁判長どの」
「誰が裁判長よ、誰が」
ジト目を向けて来る冷蔵子さん。
僕は「コホン」と一つ咳払いしてから再び口を開いた。
「しかし我々はもっとお互いの理解を深めるべきでは無いでしょうか? 裁判長の判断は、明らかに矛盾している……!」
「貴方、あくまでそのネタを引っ張るつもりなのかしら!?」
驚愕に目を見開く裁判長を前にして、僕は力強く宣言した。
「こちらには裁判長の意見をひっくり返す自信があります! ここにその証拠が……。証拠は、特に無し!!」
「くぅ……! って、結局力押し!? 何の説得力も無いんだけれど!?」
ちぃ、バレたか。
勢いで押し切れなかった……!
僕らは互いにぜぇはぁと息を切らし、肩を揺らしていた。
惜しかった……! あと一歩という所で……!
だがどんなに悔やんでも終わってしまった事は仕方が無い。
氷のような目をした強敵を見つめながら、次の戦いへの決意を新たにする。
だが今回の戦いはこれで終りだ。僕は肩から力を抜くと、そっと冷蔵子さんに話しかけた。
「まあ冗談はこれくらいにして、もっとお互いの趣味とかに興味を持った方が良いと思うんだ」
「出来れば最初から素直にそう言って欲しかったわ……」
少しだけやつれた表情でそう言うと、彼女はやおら姿勢を正した。
イスに座ったまま両手を胸の前で構え、さらには足を組んで威風堂々とした姿を取った。
「それならまず、貴方が私の趣味を理解するべきじゃないかしら?」
「ほう。例えばどんな?」
「そうね、例えば……」
呟きながら一冊の本を取り出す。
細い手で差し出された本を、僕は無言で受け取る。そしてそのままタイトルを読んだ。
「何これ? えーと、『日本のフォークロアⅡ』?」
「そうね。それは二冊目だから、まずは一冊目から読む事をお勧めするわ」
「……これって何の本?」
僕が尋ねると、待ってましたとばかりに彼女は答えた。
「貴方はフォークロアって言葉をご存知かしら?」
「……すみません、知らないです」
「ふふっ。フォークロアとは民俗学の事よ」
僕のテンションが下がる分だけ彼女のテンションは上がるようだった。
自慢気に説明すると、さらに本の内容まで教えてくれた。
「日本の民俗学は非常に興味深い物ばかりよ。祭り、神事、あるいは村の掟。私達のルーツを探る旅は始まったばかり……! そう、民族性とは外見では無く、精神性でこそ語られる物なのよ!」
熱く語りだす冷蔵子さんを無視してパラパラと本のページを捲る。
うわっ、文字ばっかりだ。しかも難しそう。
頭が痛くなってくるな……。
チラッ、と視線を向けると、冷蔵子さんはなおも熱く語っていた。
もう一度本に視線を戻す。
……彼女を理解する為には、これを読まねばならないのか。しかも一巻から。
う~ん、正直厳しい。
恋人らしさの追及のために言い出した事だけど、相互理解への道は険しいようだ。
アクセルを全開にして民俗学を語りだす少女を前にして。
どこでブレーキをかけさせるべきか?
僕はただそれだけを考えいた。