117日目 海とジイちゃんと男酒
「わっはっはっは!」
「おうジイさん、良い飲みっぷりだねえ!!」
海辺の町の民宿『鯉ノボリ亭』に客の姿は少ない。
季節外れのせいなのか、そもそもこの店の人気が低いのか。
しかし亭主のおっちゃんは、気にした風も無く酒を飲んでいた。
数少ない客の一人であるウチのジイちゃんも、勧められるままに飲んでいる。
窓から吹き込む柔らかな潮風の匂い。
木造の民家の一階を改装して作られた食堂で、僕は海鮮丼をパクついていた。
「どうだ兄ちゃん、ウチの海鮮丼は美味いかい?」
「美味しいですね。やっぱり新鮮っていうか、海の幸って感じですね」
「そいつは良かった! 何せ今日はカアちゃんが婦人会で出かけててよお。いつもならカアちゃんが作るんだが、今日は俺様が作るはめになっちまって、ちいと自信が無かったのよ!」
そう言ってガハハと笑う亭主のおっちゃん。
気のせいか、おっちゃんが喋るたびに日本酒独特の少し甘いようなアルコールの香りが室内に満ちるように感じた。
「坊、ちゃんと食べてるかのう? 若いもんはしっかり食べるのじゃ」
「がっつり食べてるよ。ジイちゃんは年なんだから、あんまりお酒は飲まないようにね」
「ふわーはっはっは! 酒は百薬の長じゃよ!!」
僕の忠告をきっぱりと無視すると、ジイちゃんは赤ら顔で焼酎を飲む。
磯の香りと酒の匂いが混ざり、少しだけ食欲が失せた。
食堂に据え置かれた旧式のテレビは、誰に構う事も無く下らないバラエティ番組を流す。
その音声に負けないようにだろうか、ジイちゃんとおっちゃんもまた、誰に構う事も無く大きな声で騒ぐのだ。
「海と言えば怪談じゃのう。のう、亭主さん。何か知らんかのう?」
「うん? 怪談か……。海の妖怪っつーと、牛鬼だなぁ」
「なんじゃそりゃ? なんで海なのに牛の鬼なんじゃ?」
「そんな事を聞かれても知らねえよぉ。江戸時代は牛が海を泳いでたんじゃねえの?」
どの時代でも牛は海を泳がないだろっ!
思わず心の中でツッコミを入れるが、言葉にはしなかった。
酔っ払いの下らない会話に巻き込まれる訳にはいかないのだ。
沈黙は金なり。時として雄弁であるよりも、口を閉ざすことが有益となる。
今がまさにその時だ。静かに食事を取る僕の耳元を、海から吹く風が通り過ぎて行った。
……ついでにアルコールの匂いも通り過ぎて行く。
うっぷ。嗅いでるだけで酔いそうだ……!
「のう、坊は何か知らんかのう?」
「ん? 怖い話の事?」
「そうじゃ」
たとえ沈黙を守ったとしても、巻き込まれる時は巻き込まれる。
無駄に終わった努力に徒労を感じつつ、酔っ払いに捧げるべく怖い話を思い返した。
「ああ、そうそう。あの話があった」
「おっ、なんじゃ? どんな話じゃ?」
「海が良いって、父さんが言ってたよ」
「んん? あの貧弱サラリーマンがなんじゃと?」
僕の父、つまり自分の息子を「貧弱サラリーマン」と卑下するジイちゃん。
そんなジイちゃんに向かって、僕は詳しく説明を始めた。
「いつだったか覚えて無いけどさ。凄い音がしたんだ。何かが壊れるような。それで見に行ったらさ、父さんが折れたゴルフクラブを持ってたんだ」
「ほほう。あの野郎も、ゴルフクラブを折るくらいの力はあったんじゃのう」
「そうみたいだね。それで、何やってんのって聞いたらさ、遠い目をして言うんだ。山に埋めるよりも海に沈める方が良いって」
「……ほほう。他には何て言っておったかのう?」
「あのゾウリムシをいつか海に……って。ははっ、結構怖い話だよね?」
ゾウリムシとは、父がジイちゃんにつけたあだ名みたいな物だった。
つまり父はジイちゃんを海に沈めようとしてるわけで……。
果たして最後に残るのは父か、それともジイちゃんか。
シリアスって言葉はきっとこういう時に使うのだろう、と僕は何とは無しに思った。
「おのれぇ……! ワシもそろそろ本気で剣を取るべきかのう……!」
ギリギリと拳を握り締めながら唸るジイちゃん。
僕は無感動な声で建設的な提案をする。
「剣を取る前に対話しようよ。そろそろ本気で父さんと仲直りして欲しいんだけど」
「ワシはバアさんは愛せても、あの野郎を愛する事は出来んのじゃ!」
拗ねたような表情を浮かべながら、自分の息子に向かって「あの野郎」と罵るジイちゃん。
……そろそろ丸くなってよ、ジイちゃん。
僕は気付かれないように声を潜めながら、そっと嘆息を吐いた。
「どうしてもっとハッピーに生きれないのかな?」
「ふふっ、坊よ。世の中はそうそう上手く行かないのじゃ……!」
「……元凶が言うべきセリフじゃないよね」
ちょっと前にも同じ事を言った気がするなぁ……。
それを考えると、どっと疲れが増してくるように思えた。
全く、困ったジイちゃんだ。
「ハッピーと言えばのう、坊よ」
「何? ジイちゃん」
人の気も知らないまま、ほろ酔い加減で暢気に言ってきた。
「坊も、彼女の一人や二人は出来たかのう?」
「ああ、うん。偽の彼女が出来たよ」
「ほうほう。そうか、そうか。偽の……偽のじゃと!?」
ガタン、とイスを蹴り上げるようにして立ち上がるジイちゃん。
驚愕に見開いた眼で僕を凝視してくる。正直怖い。
「わ、ワシは認めんぞい! 偽ってなんじゃ! 偽って事は、ダミーって事じゃぞ!?」
「じ、ジイちゃん!? 落ち着いて!」
「ダミーじゃぞ!? クローンじゃぞ!? ええっと、そう、生命倫理に引っ掛かるぞい!! 坊は今、非常にデリケートな問題に接触しておるのじゃ!!」
息を荒げて訴えてくるが、多分クローン問題は関係無い。
どうしたもんかな、コレ……。
正直に言えば、まともに相手にしたく無い。今日は色々疲れているのだ。
怒りの炎に包まれたジイちゃんを前にして、僕は静かに言葉を発した。
「ジイちゃん」
「なんじゃ!? ワシは許さんぞい!!」
「ジイちゃんの気持ちも分かるよ、でもね」
「でももクソも無いんじゃ!」
「世の中はそうそう上手く行かないんだよ……!」
僕のそのセリフを聞いた瞬間、ジイちゃんはピタリと停止した。
痛いほどの静寂。ただ、テレビから流れる下らない音楽だけが続く。
やがてジイちゃんはゆっくりとイスに座ると、打ち破れたように肩を丸めた。
無言で焼酎の入ったグラスを手に取る。渇きを癒すように、一口だけ酒を喉に通した。
「なんでもっとハッピーに生きれないんじゃろうかのう……?」
「知らないよ」
さめざめと語るジイちゃんを前にして、僕の心は漂白されたように無色を浮かべる。
繰り返される会話は月に手を伸ばすように虚しく、無色透明の徒労感だけが残った。
遠く波の音が聞こえる。
疲れた心に染み入るように繰り返す。
微かな静寂は、夜の海の音だった。
無色透明の酒が注がれたグラスを手に取り、ジイちゃんは無言でそれを眺めている。
果たしてその瞳は何を見るのだろうか?
グラスの中に揺らめく水面に、幸せの在り処を探しているのかもしれない。
何万海里の先にあるそれは、見果てぬ夢と似ていた。
「坊よ、悪貨は良貨を駆逐する、と言う言葉を知っておるかのう?」
それまでの軽口とは違った重みを持つその言葉に、僕は思わず背筋を正した。
「一応知ってるけど……」
「偽物が本物を駆逐してしまうという言葉じゃな。……坊よ、心を偽っておると、いつか本当の気持ちを無くして、そのまま取り戻せなくなってしまうぞい?」
恐らくジイちゃんは、僕に何か大事なことを伝えようとしている。
伝えようとしているのだが……どうにも腑に落ちない物があった。
「それは良いけどさ、ジイちゃん。少しは父さんにも愛情を注いであげてよ」
心を偽るとかどうとかより、実の息子に愛を注いでよ。
そしたら仲直りして、家族円満のハッピーエンドなんだからさぁ。
「ふふっ、坊よ。それは無理な話じゃ……!」
「……なんで?」
「ワシがあのへっぽこ侍を嫌っておるのは、正真正銘、本当の気持ちだからじゃ……!」
自分は偽れんわい、と言って朗らかに笑う。
いやいや、笑う所じゃないよ!?
さらりと言ってるけど、実の子供を嫌うなよ!!
せめて嘘でも良いから仲良くしてよ!!
このままじゃ家庭内デスゲームでバッドエンドだよ!!
「少しは気持ちを偽ってくれた方が、ハッピーになれると思うんだけど……」
口元を引き攣らせながら僕がそう言うと、やはりジイちゃんは笑みを浮かべる。
何を言われても構わんとばかりに、豪快な笑い声を上げた。
「そうでも無いぞい? もしもワシが気持ちを偽っておれば、いずれワシは誰も愛せん人間になっておったじゃろう。あいつとて、ワシを憎めなんだら……」
そこで一つ言葉を切ってから、ジイちゃんは何かを祈るようにしてグラスを見つめた。
「ワシを憎めなんだら、やはり人を愛せん人間になっておったじゃろう。ワシとあいつが本心で接したら、憎み合うしか無いんじゃ。それは悲しい事じゃけど……心を無くすよりは、マシじゃろう」
「そんな難しく考え無いで、普通に愛したらいいじゃん」
「ほっほ。人はな、誰も彼も愛せるわけじゃ無いんじゃ……! 世の中にはどうしても分かり合えん人間がおる。ワシの場合、それがたまたま血を分けた実の子だっただけじゃよ」
自慢にならない事を自慢気に語りながら、ジイちゃんは静かに焼酎に口をつける。
なんて酷い人だろうと思いつつも、僕にはそんなジイちゃんの様子が寂しく見えた。
喉を潤す透明な酒は、流せぬ涙の代役だろうか?
息子を愛せなかったジイちゃんには、やはり何かしらの後悔があるのかもしれなかった。
思えばジイちゃんも、かつては幸せを掴もうとしたのかもしれない。
やがてそれが、月に手を伸ばす事と同じだと気付き――。
愛せないなら、せめて本心で接しようと考えたのだろう。
愛するフリをするのでは無く、真心で。
決して誰からも理解されず、褒められないまま。
それでもジイちゃんは――父に何かを伝えようと、懸命に足掻いてきた。
そんな、気がした。
夜の海は静かで、それは緩やかに吹いている風も同じだった。
テレビのバラエティ番組はいつの間にか終り、流れるコマーシャルが無意味な音を立てる。
誰にも構う事無く音を立てるのは機械だけだった。
それは時に優しくもあり、会話が途切れた僕らにとってはささやかな心の慰めになった。
機械とは違い、気を使って口を閉ざしていた亭主のおっちゃんが、静かに口を開く。
そうだね、こんな時は何かを話してくれた方が良い。
悲しい沈黙を破るように、おっちゃんは言った。
「俺様は長いこと海で暮らして来たから分かるんだけどよぉ……」
礼をわきまえた紳士のような声音で、低く呟く。
さあて、民宿『鯉ノボリ亭』の亭主はどんな言葉を聞かせてくれるのだろうか?
長年海で生きてきた男は、息子を愛せなかった老人に、どんな言葉を投げかけるのか。
静かに打ち寄せる波の音だけが、その答えを知っている気がした。
「ゾウリムシを海に、だっけ? さっきからずっと気になってたんだけどよぉ。ゾウリムシは多分、海にはいねえぜ? 食った事ねえし」
……沈黙が『鯉ノボリ亭』の食堂を満たしていく。
旧型のテレビから流れるコマーシャルの音だけが僕らの慰めだった。
「今日は泊まれるかのう?」
「宿泊かい? カアちゃん居ないからサービス落ちるけど、それでも良いか?」
「大丈夫じゃ」
「うっし。じゃあちぃーと料金の方はまけとくわ」
流れるように宿泊の手続きを済ますジイちゃんと民宿のおっちゃん。
あれ? もしかして深刻に考えてたのって僕だけ?
ウチのジイちゃんと父の確執とか、もしかしてそんなに大した事じゃ無いの?
……………………。
「寝よう……!」
「もう寝るのかい? 寝室は二階になってるからよう、布団敷くからちぃーと待っててくれよ」
「ほっほ。それまで酒でも飲んでるかのう」
海辺の町には静かな夜が訪れていた。
この町はきっと、こんな夜を幾度と繰り返してきたのだ。
そして僕らもきっと――きっと、何だろう?
まあ何でもいいや。難しく考えるのは馬鹿馬鹿しい……。
どうして僕が真面目に悩まなけりゃいけないんだ!
悩むならジイちゃんが悩むべきだろ!
静かな決意と共に。僕は明日の朝の事だけを考えた。