115日目 運命とロマンス~記憶の旅~
「ねえ少年、カーリー・マーって知ってる?」
「? いや、知らないですけど」
「そっかぁ……」
残念そうに呟く先輩。
だが知らない物は知らないし、生憎と都合よく知識は湧いてくれない。
こんな時は僕らの智恵袋である冷蔵子さんの出番だろう。
ちらりと視線を向けると、冷蔵子さんは「私も知らないわ」と小さく呟いた。
早くも諦めの境地に達した僕は、先輩へと視線を戻す。
カーリー・マーなる物の説明を待っていると、後ろから聞きなれた声が響いた。
「多分だけど、インドの神様の名前、かな?」
そう言ったのは風の王を名乗る少女だ。
本名は知らない。そろそろ知りたいとも思っている。
何故なら、風の王と呼ぶのは正直恥ずかしいからだ。
もっとも、彼女自身はむしろその呼び名を誇っているらしい。
出来れば恥じらいを持って欲しい所だ。
風の王の出した回答に、先輩は大きく肯く。
そのままズビシ、と人差し指を突きつけながら得意気な表情を浮かべた。
「その通り! 私も昨日突然名前が思い浮かんで、チラッと調べてみたんだよね~」
「なんでインドの神様の名前が思い浮かぶんですか?」
「それはほら、サブリミナル効果とか瞬間記憶能力とか……」
「いや、それは絶対関係無いですよ」
もにょもにょと喋る先輩の理論を一蹴する。
サブリミナルは映像による催眠だし、瞬間記憶はその名の通りの能力だ。
日常生活を送る上で、インドの神様の名前が思い浮かぶ理由が分からない。
しかも聞いた事も無い名前だ。これはもう、何かとチャネリングしたとしか思えない。
果たして先輩の脳に何が起きたのか?
常人とは異なる身体能力を持つ先輩である。脳も人類と異なっていても不思議は無い。
愛と希望と勇気の名において真相究明しなければ!
そう意気込む僕の心の中には、探求という名の火が灯っていた。
そう、知性とは炎なのだ。
燃え盛るほどに熱く、無知と言う暗闇を照らす。
かつて人類に、知恵と言う名の火を授けたプロメテウス神。
その火を消したのは、北東に吹く季節風のように冷たい冷蔵子さんの言葉だった。
「記憶という物は去来する物よ。どこかで聞きかじった言葉を、突然思い出す事はよくある事じゃないかしら?」
うんまあ、そうだけどさぁ。
もうちょっとロマンとか神秘とかを信じてもいいんじゃない?
洞窟で瞑想してたら天使の言葉を聞いたりとか、世の中ってもっと不思議が溢れてても良いと思うんだ。
しかし冷蔵子さんの言う通り、先輩は単に思い出しただけだろう。
ウニを崇める先史文明と交信したわけでも無く、天使が稲妻と共に現れたわけでも無く。
平々凡々と世界の時間は流れていくのである。チッ。
「それで先輩、カーリーさんってどういう神様なんですか?」
内心で舌打ちしながら僕は言った。
そんな僕に対し、先輩は紺碧の海のように黒々と美しい目を向けながら話を続ける。
「うん、それがね、死と破壊を司る女神様なんだって」
「わあお。中々アナーキーな神様ですね」
「アナーキー? 死と破壊の例えに使うなら、無政府状態はちょっと違うんじゃないかな?」
むうう!? 冷静にツッコミを入れられても困る!
もっとノリで生きていこうよ、波乗りサーファーみたいにさぁ!
風の王のツッコミを華麗にスルーしながら僕は続けた。
「破壊の女神なら先輩にぴったりじゃないですか」
「うぷぷ! まあ私が女神のように美しいっていう少年の気持ちは分かるけどね~」
誰も美しいとは言ってないよ!
思わずツッコミかけてるのを止める僕の前で、先輩はふふんと鼻を鳴らした。
まるで「さっさと褒め称えなさいよ」と言わんばかりの表情だ。
くっ、認めないぞ! 先輩が女神だなんて!
女神が握力に物を言わせて鉄の檻を曲げるものか!!
過去の数々の出来事を反芻する僕の耳に、涼やかな声が届いた。
「女神が美しいとは限らないわ」
冷蔵子さんが、どこか冷気を漂わせながら呟く。
僕はくるりと体を反転させて聞き返した。
「そうなの?」
「運命の三女神は、確か醜い老婆の姿をしていたと思うわ」
「えっ? 本当に?」
運命の三女神という名前の響きからは美女しか想像出来ない。
むうう……なんてこった。何だかちょっと残念な気分だ。
三女神という事は、きっとそれぞれ過去・現在・未来を司っているに違いないだろう。
過去の老婆、現在の老婆、未来の老婆。
時が流れ、僕らがどんなに遷ろってもそこに居るのは老婆だ。
導き出されるロマンスは無常。
栄枯盛衰どころか、栄える事すら無く枯れていく物語である。
辛く切ない現実を見つめながら。
僕は女神のような先輩に視線を戻しながら、言わねばならなかった。
「という訳で先輩、女神のようにって言葉は老婆を指すみたいです」
「老婆!? 私はまだ年老いて無いっ!!」
むきー、と猿のように声を荒げる先輩。
あえて訂正すれば、ゴリラのようにだろうか。
全てを握り潰す力を秘めた先輩の両手を眺めながら、僕は無感動に事実を告げる。
「でもほら、先輩は僕ら三人とは学年が違うから、あながち間違いじゃないと思うんですよ」
「一歳の違いで老婆は酷いと思うよ!? ローバー! ローバー!」
何故か今は無きイギリスの自動車メーカー名を連呼する先輩。
ローバー社って、インドのメーカーに買収されちゃったんだよなぁ。
かつての植民地に自動車メーカーを買収されるってどんな気持ちなんだろう?
栄枯盛衰の流れをひしひしと感じつつ、僕は溜息と共に呟いた。
「そう言えば、今はもうローバー社って無いんですよね……あのジャガーもインドの子会社ですし」
「あなたは一体何を言っているのよ?」
「ローバー社って何? 訳が分からないかな?」
口々に疑問の声を上げる冷蔵子さんと風の王。
悲しい事に、二人には先輩のギャグが分からなかったようだ。
でも先輩、僕だけは分かっていますよ……!
老婆とローバー社を、さらにインドまで絡めた先輩のギャグを。
視線の先に立つ先輩は、凛とした姿勢で僕を見つめ返している。
絡まる視線の中に、時が止まる瞬間を夢想した。
僕と先輩だけの世界。二人だけの世界。
僕の見つめる先で、先輩は困ったように眉を顰めた。
甘く苦く、切ない思いが渦巻く時の終り。それを断ち切るように。
かつてファウストが、悪魔メフィストフェレスに別れを告げた時のように。
少しだけ微笑みながら。そっと、薔薇のような唇を開く。
「少年、君は一体何を言っているのかな?」
「……全然理解されて無かった!? ホワイ!? じゃあなんでローバーとか言ったんですか先輩!!」
「え? 老婆をただ伸ばして言っただけだけど?」
「やっぱりそんな事かよチクショウ!! やり直しを要求します!!」
しょせん車の話題は男の世界。
女性には理解されないのだ。
くそう、辛いなぁ! 何が辛いって、一瞬でも先輩と心が通じ合ったと勘違いした事が辛い!
激発しそうな恥しさを言葉にして、涙を流す変わりに叫んだ。
「時よ止まるな! 僕はまだ満足しちゃいない!」
「何で突然ファウストなのよ? 貴方の頭の中は一体どうなっているのかしら?」
「むっ、失礼な。記憶は去来する物さ。だから突然、ゲーテの物語を思い出すのもよくある話で……」
「普通は無いわよ」
呆れ顔を浮かべながら、断定するように言う冷蔵子さん。
くそう、辛いなぁ! 何が辛いって、彼女の目がバカを見る目で、とっても冷たい瞳なのが!!
無言の内にバカにされ、打ちひしがれる。
そんな僕に追い討ちを掛けるように、先輩と風の王から無慈悲な言葉が投げかけられた。
「少年の頭の中身を一回見てみたいなぁ」
「ワタシも賛成だね。常人とは異なる脳をしてるのかな? 実に興味深いナ……」
「いたって普通ですって! 何だか皆の態度が冷たくないですか!? 僕なんかしましたっけ!?」
「少年。身から出た錆って言葉……知ってるかな?」
「知ってますけど……。それって、今の僕に関係ありますか?」
「自覚症状無し、かな」
うわあ。何だか凄い事を言われてるぞ。
好き勝手に言われ、さながら清流に浮かぶ笹の葉のように翻弄される僕。
そんな中、冷蔵子さんが話の流れをぶった切るようにして、清水のように冷たく透明な声を上げた。
「そう言えば、確かゲーテはインドの詩人カーリダーサに影響を受けていたわね。カーリダーサとカーリー・マー神。ファウストと先輩さんの話は、何か関係があるのかしら……?」
「ファウストとインドの神様? ははっ、君の頭はどうなっているんだい?」
ここぞとばかりに言い返す僕。
ははっと笑う部分は、当然アメリカのアニメキャラのように軽快な口調だ。
そこは譲れない。
余裕の笑みを浮かべていると、冷蔵子さんがガタリと音を上げて席を立った。
そのままツカツカと僕の前まで近付くと、無言で足を踏みつけて来る。
その行動は、まるで熟練のコンビニ店員のようなさり気なさとスピードの技。
浮かべた笑みを驚愕に変える暇も無いまま、ただ足を踏み抜かれるしか無かった。
冷えた月のように、冴え冴えとした冷酷な瞳を前にして。
言葉を発せ無いまま、ごくりと唾を飲み込んだ。
「記憶は突然思い浮かぶものよ? 言わなかったかしら?」
その言葉は、僕に同意を求める物では無かった。
ただひたすらに肯定だけを求めた物。
反抗など許されないのだ。
僕の右足を踏み抜いたまま、まるでそれが当然のような態度の彼女は。
その冷めた瞳が。悠然と僕の反抗心をへし折っていた。
「そ、そうだね! 僕もそうだったしね!」
「貴方のはカオスよ。私と一緒にしないで頂戴」
「ふぇ!? それはあんまりじゃないかな!?」
「……あら? 何か言いたい事があるのかしら?」
「いえ何でも無いです! ナマ言ってすみませんでした!!」
だらだらと冷や汗を流しながら。
視線の先に、冷ややかな態度の冷蔵子さんの姿を捉える僕の胸には。
月は無慈悲な夜の女王、という単語が去来していた。
思い浮かんでは消えて行く記憶の中で。
恐怖だけは、中天に輝く真円の月のように。
白々と明るく、そして無慈悲に。胸の内で輝くのだろう。
何故かそんな事を、強く強く思った。