110日目 結末は遠く 彼の地を目指す
エンド・オブ・ザ・ガーデン。楽園の終りにて。
天国を追い出された天使が何処に行くと思う? と訊かれたら「知らねーよ」と答えるしか無い訳だが、そんな質問が果たして僕の身に降りかかるかと言われれば、恐らく無いと言えるだろう。
つまり杞憂。ありもしない影に怯える思春期の少年の悩み。
宇宙が収縮するだの膨張するだの、億年単位の出来事に地球の滅亡を憂うように、言ってしまえば他愛の無い行為だ。
そんな事を考えるより、もっと現実を見なければいけない。
そう、思いを馳せなければいけない事は、それこそ星の数ほどあるのだから。
ロマンよりもリアルを求めて。
僕が見つめる先には黒板があり、先生はこちらに背を向けて板書をしている。
保健体育の授業は実技と筆記があり、今日は筆記の方であった。
だから体育の先生はいつもの運動場を離れ、そして教壇の上に立ち、慣れない仕草でチョークを手にしているのだ。
黒板には几帳面な字でこう書かれていた。
『天使はどこに堕ちたか?』
分からない。先生が何をしたいのかが分からない。
教科書のどこにも該当しない一文を書き終えた後、先生は俯きながらボソリと呟いた。
「なあ、お前ら。天使はどこに行ったと思う……?」
知らねーよ。
むしろ先生が何処に行こうとしているのか訊きたい。
ごくり、と息を飲む音が響く。
尋常では無い様子の先生。クラスは異様な静けさに包まれていた。
そんな僕らを前にして、先生は狂人のように独り言を始める。
「どうして……何故……? 松浦さん……」
誰だよ松浦さんって?
恐らく教室中の皆が同時に思った事だろう。
しかし、誰もその疑問を口にする事はしなかった。
肩を震わせる先生に、僕らが取るべき行動は何だろうか?
分からない。分からないまま時は無情に過ぎて行く。
「愛していたんだ……! どうしてですか、松浦さん……!」
慟哭するような叫び。
むせび泣くような悲痛な声に、居たたまれなさを感じる。
どうしてだ松浦さん!?
どうして僕らは、保健の授業で訳の分からない愚痴を聞かされているんだ!?
顔も知らない松浦さんに向かって、心の中で絶叫した。
「天使だと思っていたのに……! ちくしょう……!」
言葉と共に、握った拳で教壇を叩く。
男泣きに泣き出す先生。光る雫がポタポタと流れ落ちる。
静寂と沈痛。悲哀と同情。様々な感情が教室の中を交錯し、誰もが身動き出来なくなっていた。
こんな時にどうすればいいのだろうか?
分からない。クソッ、僕が今まで教わって来た事は何なんだ!
数学だの古典だのいくら知ったって、目の前の一人の人間も救えない!
先生を救えるのはそう、松浦さんだけだ!
しかし現実は非情である。
今から僕が松浦なる女性を探すのは困難であり、なおかつ先生と穏便な関係を取り戻してもらうのは、なおさら不可能に思えた。
となれば次善の策である。
クラスの誰かによる説得と交渉。それが求められていた。
果たして誰がその役を担うべきか?
適任となる人物を探すべく、僕は音も無く視線を巡らした。
まずは長ソバくん。
僕の友人である彼ならどうだろうか?
ちらりと見やると、長ソバくんは……泣いている!?
「うっ……そうだよ……。どうしてなんだ……?」
ぶつぶつと何事かを呟く長ソバくん。
先生とシンクロするようにして、滂沱の如く涙を流していた。
少し不思議に思うが、今は保留にしておくことにする。
続いて、ゴンさんに目を向けた。
クラスの女子の纏め役である彼女ならどうか?
ゴンさんは真っ直ぐに先生を見つめていた。
真一文字に閉じられた口。顰められた眉。
決意に満ちたその表情は、これから起きる激流を予感させる。
僕が見守る中、ゴンさんはゆっくりと立ち上がった。
「先生。」
毅然とした視線を先生に向けるゴンさん。
そんな彼女に教室中の注目が集まる。
「一体さっきから何なんですか? 真面目に授業をして下さい」
クラス中の視線を物ともせず、きっぱりとした口調で言う。
正論だ。限りなく正しい指摘だった。
しかしそんな非の打ち所の無い言葉に反論する声が上がった。
「ゴンさんは分かってねえぜ!」
長ソバくんが勢いをつけて席を立ち上がる。
自慢の長髪を振り乱し、涙を流しながら絶叫した。
「男には……男にはどうしようも無い時があるんだよ!!」
「な、何それ!? 意味分かんないわよ長ソバ!!」
「先生は天使を無くしちまったんだよ!! それが……それが……!!」
うおおおん、と号泣する長ソバくん。
それを契機にするように、教室中から怒号が上がった。
「おい女子共! 先生が可哀想だとは思わないのか!」
「思うわよ! でも授業中に愚痴を聞かされたく無いのよ!!」
「落ち着いて! 一端冷静になろうよ!」
「そもそも松浦って誰だ? お前知ってる?」
「あ、俺聞いた事ある。確か、先生が入れ込んでるキャバ嬢だよ」
「えっ!? 相手はキャバ嬢なの!? 先生最低~!!」
「ちょ、ちょっと待って! そこは責めるなって!」
次々と上がる声は混乱を極め、何一つ分からないまま渦を巻く。
訳が分からない。どうしてこうなった?
何も変わらないのは先生だけだった。
机に突っ伏したまま、男泣きを続けている。何なんだこの状況は!?
もはや収拾が付かない状態だ。
クラスメイトは激発するように言葉を交わし、終結が見えない議論を繰り返す。
泣き叫ぶ長ソバくん。ぶちギレるゴンさん。二人に触発されたクラスメイト達。
誰もが混迷という名の急流の中に飛び込む中、取り残された僕はただ呆然と狂乱するクラスメイトの姿を見つめるしか無かった。
「どうなってるのよ、これ?」
静かな声で話しかけられ、僕は振り向いた。
振り向いた先には冷蔵子さんが立っている。
どうやら彼女も取り残された一人らしい。
教室の騒乱を避けるために僕の傍に寄ってきたのだろう。
「どうなってるって、こっちが聞きたいよ」
「全く、先生も先生よ。教師と言う自覚があるのかしら?」
憤懣やる方無い、と言った風情の冷蔵子さん。
まあそう思うのも無理は無い。
キャバ嬢に振られた挙句、天使がどこに堕ちたか? なんて事を聞かれた日には僕だってそう思う。
誰だってそう思うだろう。むしろ先生を庇う理由の方が分からなかった。
「長ソバくんも、何でゴンさんに反論したんだろう?」
「彼にも彼なりの理由があったんだと思うよ」
僕の疑問に答えたのは冷蔵子さんでは無かった。
賢者くんが、爽やかな笑みを浮かべながら僕らの隣に立っている。
「オレもこっちに居ていいかな?」
その言葉に、即座に肯くことは出来なかった。
ちょっと前の出来事以来、僕と賢者くんは静かな臨戦状態にある。
言葉に詰まる僕に対し、沈黙は肯定と受け取ったのだろうか?
賢者くんは腰を落ち着けると、柔和な笑みを絶やさないまま言葉を続けた。
「どうにも、皆を止める事が出来そうに無いんだ」
見渡すと、クラスメイト達は相変わらず怒声を上げている。
お祭り騒ぎのような喧騒は、しばらく終わりそうに無い。
視線を賢者くんに戻しながら僕は言った。
「訊いてもいいかな?」
「うん?」
「長ソバくんが男泣きしながらさ、ゴンさんに反論した理由って、何だと思う?」
純粋に分からない。果たして賢者くんにはその理由が分かるというのだろうか。
疑問を抱える僕に対し、賢者くんはやはり微笑を浮かべたまま答えた。
「オレにも全部が分かるわけじゃないよ。でも――、」
「でも?」
「そこまで必死になれる想いがあるって事じゃないかな? その気持ちは分かるんだ」
ふーむ。なるほど、よく分からん。
キャバ嬢、天使、号泣。頭の中を駆け巡る単語が示すのは、カオスな世界だった。
賢者くんから視線を逸らすと、僕は冷蔵子さんに疑問をぶつける事にする。
「必死な想いか……。君はどう思う?」
「知らないわよバーカ」
ぷいっと顔を背ける冷蔵子さん。
あれ? 僕がバカにされる流れだったっけ?
さっぱり分からないまま、僕はただ小首を傾げる事しか出来なかった。