108日目 限りなく悲痛な可能性
「提案ですって?」
冷えた青い瞳を向ける冷蔵子さん。
その視線を真正面から受け止めると、風の王はくすりと笑う。
「そう。こういう時、ワタシ達にはお決まりの罰ゲームがある」
お決まりの罰ゲーム?
なんじゃそりゃ、と思う僕を置き去りにして、冷蔵子さんは納得したように返事した。
「ああ、サークル内でそういうのがあるのね?」
「当たり。結構笑える罰ゲームかな」
「ねえねえ、どういう罰ゲーム?」
「今は秘密、かな。見てのお楽しみ」
クスクス笑いながら先輩に答える風の王。
この様子だと、どうやらハリセンが壊れてもゲームは続行するようだった。
しかし――お決まりの罰ゲームってなんだ?
冷蔵子さんは僕と風の王が格闘技サークルに所属していると思っているが、もちろんそれは間違っている。
実際は正大連という謎の団体と戦う組織であり、その活動内容は謎だ。
そもそも僕は所属しているつもりも無い。
だからお決まりも何も、そんなものは存在し得ないのである。
では一体何故、風の王は急にそんな事を言い出したのか?
疑念と共に風の王を見つめていると、ふいに彼女と視線が合った。
何を考えているのか分からない、不可思議な瞳の色。
そして――薄く酷薄な笑みが返って来る。
ゾクリと背筋を凍らせる僕に、風の王はゆっくりと近付いて来た。
声を潜めるようにそっと小さく。
僕の背後に立った彼女は、後ろから抱きつくようにして耳元で囁いた。
「ワタシね、チャンスは逃さない方なんだ」
「……チャンス?」
イスに縛られ自由を奪われた僕。
まるでクモの巣に囚われた獲物のような状態で、風の王の声だけが聞こえる。
嫌な汗が流れる背中。
風の王は、他の二人に聞こえないように言った。
「復讐って、素敵だよね?」
たち込める暗雲。轟く雷鳴。
妖しさに彩られた風の王の声が、僕に不吉なイメージを喚起させる。
復讐……!? 何の事だ!?
ドクドクと脈打つ心臓もそのままに、ひたすら風の王の次の言葉を待った。
僕の左耳に唇を寄せる風の王。
傍目から見れば愛の囁きにも見えるだろうか?
だが実際は、毒針を打ち込む為のスズメバチからの抱擁に近い。
壮絶な悪寒に襲われる僕に、風の王はそっと呟いた。
「あの時。ワタシのお腹を思いっきり蹴ったよね? 痛かったよ。とってもね」
内に秘めた何かを滲ませるその言葉に、僕は顔面を蒼白にする。
先輩と冷蔵子さんに声が届かないようにキョロキョロと辺りを見回した後、顔の見えない風の王に対して小声で返事を返した。
「あ、あれは決闘じゃないか! 君にだって覚悟はあったはずだ!」
「そう、だね。でもね? それとこれとは別、かな?」
「僕はハンデで両手を封印してたし!」
「うん。でもね? ワタシが痛かった事には、変わりが無いから」
どうやら恩赦とか容赦は無さそうだ。
つまり僕を待っている運命は、風の王による罰ゲームという名のリンチ。
いよいよ処刑じみて来たな……。
逃げなければ……!
だがしかし僕を縛るロープはやたら硬く結ばれている。
いっそ全てを冷蔵子さんに説明するか!?
いやいや、それはマズイ!
女の子に膝蹴りを入れたと知られたら、それこそ冷蔵子さんから何をされるか……!
刻一刻と失われていく時間。
それは、僕の命の時間でもある。
誰か、誰か助けて……!
身動きも発言も出来ないまま、僕はジッと祈った。
しかし――果たして祈りは届くのだろうか?
胸の奥底から湧く想いが、知らぬ間に僕の心を占めていく。
祈りが届くのだとしたら、どうして世の中から悲しみが無くならないのか?
届かない祈り。誰もがそれを抱えて来た。
街角で死んでゆく孤児達。
縛られて石を投げつけられる女。
石牢の中で果てていく命たち。
どこかで見た断片的な映像が、次々と浮かんでは消えて行く。
当たり前のように世界は雪で覆われる。
白い綿毛のような雪の欠片。
それは誰にも届かぬ人々の祈りにも見えた。
幾千、幾万の欠片が大気を彷徨う。
願いは純白に輝いたまま熱を失い、静かに大地に降り積もっていく。
この世界が終わるまで。雪は、永遠に降り続ける。
世界の終り。天使。救いを説く聖者と、彼の掲げる小さな光。
そんな馬鹿げた夢を思い出しながら、笑う。
祈りは届かないかもしれない。それでも僕は幸せを掴んでみせるさ。
皮肉るように笑みを浮かべて、何かに抗うが如く顔を上げる。
そんな僕の目に、先輩と冷蔵子さんが凄い形相でこちらを睨んでいるのが見えた。
一筋の汗が頬を流れた。
何故だ……!? 何故彼女達は睨みつけてくるんだ……!?
まるで風の王の憎悪が乗り移ったかのような先輩と冷蔵子さんの姿に、僕は怯んだ。
「前から思っていたんだけれど、あなた達って妙に仲が良いわね……?」
「耳元で囁いたりして、とっても仲良しさんに見えるねぇ……?」
冷蔵子さんと先輩が次々と疑問の声を上げた。
そんな二人の態度を面白がるように、風の王はクスクスと笑う。
何がなんだか分からない僕は、そっと小声で風の王に言った。
「どうしてだろう? 幸せがどんどん遠ざかってる気がするんだ」
「チャンスを逃しているの、かな?」
「何をごちゃごちゃ言っているのかしら……?」
腕組みして仁王立ちする冷蔵子さんが声を荒げる。
先輩も似たような格好だ。
祈れば祈るほど、ピンチは転がり落ちるように加速していく。
抗えば抗うほどに、何故だろうか幸せは遠ざかっていた。
沈思黙考。瞳を閉じて考える。
逆境に立つ時ほど、余裕を持つべきだ。
そんな事を考えながら、僕は目を見開いて力強く言った。
「禍福は糾える縄の如しって言うけどさ、今の所、僕にあるのは不幸だけだよね?」
「幸福と不幸は表裏一体ということわざね。あらあら、婉曲に幸せを自慢しているのかしら?」
「可愛い女の子に抱きつかれてるんだもんねー。あれ? じゃあ少年にとっての不幸って何かな……?」
何だろう、本当に冷蔵子さんと先輩の言っている事が分からない。
僕を背後から抱きしめる毒虫、いや風の王がどうして幸せに結びつくんだろうか?
「いやいや、どこが幸せなんですか。罰ゲーム実行犯に抱きつかれてるんですよ? それで耳元で恐怖を囁かれて、どう考えても不幸じゃないですか。幸せポイントを下さいよ」
「ほう? 少年は今の状況に幸せを感じていないと?」
「当然ですよ」
したりと答える僕の姿を眺めながら、先輩と冷蔵子さんはヒソヒソと話し合いを始めた。
時折チラッとこちらに視線を送ってくる。何なんだろう本当に?
しばらくすると、二人は手招きするようなジェスチャーを送って来た。
誘導されるようにして風の王が僕の元を離れていく。
僕は動けなかった。何故なら依然として体をイスに縛り付けられているからだ。
身動きが取れないまま、話し合う三人の姿を遠目に眺める。
やがて結論が出たのか、三人は一斉に僕に視線を向けた。
各々が人差し指を掲げると、僕に照準を突きつけながら同時に声を上げる。
「「「罰ゲーム!!!」」」
「ええっ!? まだ何もして無いじゃないですか!! ホワイ!?」
絶叫を上げる僕の前で、先輩と冷蔵子さんと風の王が淡々とした口調で語った。
「少年の態度が気に入らなかったからからかなぁ」
「貴方の態度、どう考えても不真面目としか思えないかしら」
「ワタシはほら、チャンスは逃さないから」
微笑みすら浮かべる三人。
そんな彼女達の姿を目にしながら、僕は思う。
もしかして、彼女達は最初の目的を忘れていないだろうか?
涙で滲んでいく視界。
微笑にも似た何かを浮かべながら近付いてくる風の王の姿を見ながら。
僕は「リハビリって何だろうか?」と哲学的な思想に耽っていた。