107日目 限りなく大な可能性
「さあ、次は私の番ね」
「な、何で指をポキポキ鳴らすのかな?」
「ただの気分よ?」
「そ、そうですかぁ……」
冷蔵子さんが柔軟体操のように指を鳴らす。
そんな彼女を目の前にして、イスに縛られた姿で僕は呟いた。
先輩と冷蔵子さんによって行われる『僕を真人間に戻す』試み。
それは遂に佳境に入ろうとしているようだ。
ごくりと息を飲む僕の前で、先輩がハリセンを握り締める。
とうとう本番となるデスゲームを前に、体は熱病にかかったように震え出した。
ドアのぶを引き千切り、公園の銅像を破壊する力。
オモチャの剣で人体を斬り、テニスボールを粉砕する力。
ありとあらゆる物を凌駕する力を秘めながら。
先輩はニコニコのした顔で、ハリセンの感触を確かめていた。
「一回ハリセンでツッコミ入れてみたかったんだよね~」
笑顔の先輩を前にして、僕の額をつつ~っと一筋の汗が流れた。
心臓は激しく脈打ち、まるで全力疾走した後のように息が乱れる。
落ち着くんだ僕。話を整理しよう。
ルールは簡単。
彼女達の繰り出す会話に、恋人になりきって答えれば良いだけ。
そして僕の返事が不真面目だと判断されれば、罰ゲームが実行される。
罰ゲームはハリセンのツッコミ。
強いて問題を挙げれば、そのツッコミが僕の命に関わってくるという事だった。
「ちょっと……良いかな?」
「何よ?」
考える時間を稼ぐために冷蔵子さんに話しかける。
小首を傾げる彼女を前にして、僕は高速で思考を展開させた。
彼女達の考える恋人らしい会話とは何だろうか?
さっきの質問は「普段と違うところ」で、正解は「毛先の形」だった。
なるほど、確かに恋人らしい会話と言えるだろう。
となれば彼女達の細かな違いに気付き、さりげなく褒めるのが答えだ。
返事の理想形としては「あ、髪型変えたんだ?」とか「似合ってるよ」とかだろうか?
勝利への道筋。方程式。それを掴んだ僕は不敵に笑う。
……無理だっ!!
毛先が普段より鋭いとか、気付けという方が無理がある!!
両手に希望を、瞳に決意を込めながら僕は言った。
「……一口に恋人の会話って言ってもさ、細かい設定も必要だと思うんだ」
「そうかしら?」
やはり疑問が消えない様子の冷蔵子さん。
しかしここで退くわけにはいかない。
退けば、死、あるのみ。
瀬戸際に立つ僕は、駆け抜けるように言葉を並び立てた。
「そうに決まってる! 考えてもみなよ? 真面目な会話って言うけどさ、付き合ってすぐと、付き合って一年じゃ関係性も変わると思うよ? だよね? そうだよね? 原点に戻って今すぐ色々と設定を考えるべきだと思うよ。会話ってのは積み重ねだしさ、いきなりはいドン! って事にもならないと思うんだっ!」
ふーむと考え込む仕草を見せた後。
冷蔵子さんは極上の微笑を浮かべた。
そして小鳥の囀りのように軽やかに。
そっと僕へと告げた。
「面倒。」
「えっ……? めん……どう?」
「そうよ。いちいち貴方と下らない設定を考えているより、ちゃっちゃと数をこなした方が早いわ」
トライ・アンド・エラーのその考え方は非常にマズかった。
何故なら、トライするたびに先輩のハリセンが火を吹くからだ。
どちらかと言えば、サーチ・アンド・デスからサーチ部分を除いたような所業である。
つまりデス。忍び寄る死の気配から逃れるように僕は叫んだ。
「いやいやいや、マズイんだって! 数をこなすごとに僕の頭蓋骨がヤバイんだよ!」
「まーたそうやって不真面目な事をいうのね」
冷蔵子さんは呆れたように言った。
僕の言葉に耳を貸す気は無いらしい。
くいっと先輩を指差しながら僕に告げる。
「先輩さんも準備万端なんだから」
彼女が指差す先では、先輩がハリセンの振り方を練習していた。
ハリセンを振っては、腰の捻りや手首の返しを確認している。
よっしゃ、と短く呟いたかと思うと、練習の成果を試すかのようにハリセンを振った。
縦に振り下ろされたハリセンが机に当たる。
その瞬間、バキッ、っと鈍い音が響く。
……水平であるべき机の天板が、何故か斜めに傾いで見えた。
誰も一言も言葉を発さなかった。
恐らく折れたであろう木製の天板を目前にして。
僕と冷蔵子さんは、ただただ先輩の後姿を見守っている。
先輩も無言だった。
何も言わないまま、半ばまで折れた天板に手をかける。
そのままググっと持ち上げて、角度を水平に戻した。
どうやら机は綺麗に割れていたのだろう。
割れ目を合わせただけで、割れた部分はくっ付いたようだ。
外観だけは元に戻ったように見えるそれを見下ろしながら、先輩はポツリと呟いた。
「私は何もしてないよ? でもね、きっと次に使われた時くらいに、この机の耐久性は寿命を迎えると思うんだ」
「先輩、今さっき机を折りましたよね」
「ふふ。私には少年が何を言っているのか分からないな……?」
机を破壊した事実を、完全に隠蔽しようとしてるな……。
すっとぼけようとする先輩に、僕は淡々とした口調で言った。
「接着剤でくっつけて時間を稼ぎましょうよ。あの時のように」
「おお! それなら次の次の次くらいまで寿命が延びそうだね!」
「あなた達、普段から何をやっているのよ?」
胡乱な目を向けてくる冷蔵庫さん。
そんな彼女を尻目に、僕と先輩は手慣れた会話を続けた。
「少年、接着剤はどこー?」
「ポケットの中に持ってるんですけど……手が出せません」
「全くもう、手がかかるんだから!」
「僕を縛ったのって先輩達ですよね!?」
さすがに理不尽すぎるよ!?
僕と先輩がギャアギャアやり合っていると、部屋のドアが開けられた。
「こんにちわ、かな? ってあれ? 君、なんで縛られてるの?」
そこに立っていたのは風の王と名乗る少女だった。
本名はまだ知らないが、僕の部下らしい。
フランクな上下関係だなぁ……しみじみとそう思う。
「やっほー、こんにちわー。っで、誰?」
「彼のサークル仲間らしいわ。ほら、王とか呼び合っているっていう」
「王!? うぷぷ、王族サークルなんだ……!」
冷蔵子さんから風の王についての説明を受けた先輩は、身を屈めて笑いを堪えた。
震える口先から、搾り出すように言う。
「あ、あなたは何王さんなの……?」
ぷるぷると体を震わせながら訊く先輩に、風の王はキリリとした表情で返事を返す。
「ワタシは風の王。初めまして、かな? どうぞよろしく」
その態度はまさに威風堂々としたものだった。
恥も照れも無く風の王を自称する彼女に、先輩の体の震えがピタリと止まる。
ギギギと首を動かして冷蔵子さんを見ると、ごにょごにょと呟き出す。
「ねえ? もしかしてツッコんじゃいけない人なのかなぁ?」
「その可能性は大ね」
思索に耽る二人を無視するように、風の王は僕へと近付いて来た。
いつもと同じ小悪魔めいた微笑を浮かべながら。
イスに縛られた僕を見下ろすと、悠然とした口調で言った。
「キミ、そういう趣味?」
「うん。」
「……………………」
「あっ!? ジョークだよ!? マジに受け取らないでよっ!!」
心底嫌そうな顔をする風の王に、僕は慌てて叫んだ。
手早く今の流れを説明する。
話を聞き終えた彼女は、心底呆れ果てた目で僕を見た。
だがそんな態度に怯む僕では無い。
最近の経験により、冷たい視線で見られる事に慣れつつあるのだ。
何だか知らないけど……涙が出そうだった。
「あーあ、ハリセンも壊れちゃったよ」
「あら、本当ね。これはもう使い物にならないわ」
先輩と冷蔵子さんの声。
どうやら先輩の一撃にハリセンは耐えられなかったようだ。
今だ!
荒天の中、一瞬見せた晴れ間のようなチャンスに。
僕はこのふざけたデスゲームを終わらせる為に声を張り上げた。
「それなら終りにしましょうよ! ほらっ、ハリセン壊れちゃったみたいだし!」
僕の言葉を聞いた二人は、うーむと考え込む。
いける! ここで押し切れば生還だ!
人生何度目かのピンチが今、切り抜けられようとしていた。
恐怖とスリルの間を駆け抜けるように。
早打つ鼓動は、まるで勝利へのカウントダウンだった。
ジワリと流れる汗を手に。
デスゲームの終りを、息を潜めてただジッと待つ。
そんな僕の耳に、風の王の声が響いた。
「あ、はーい! ワタシに提案があります、かな?」
何故だろうか?
その時、僕は確かに見た。
たち込める暗雲。轟く雷鳴。
そして、不吉な妖しさに彩られた風の王の横顔。
ごくりと息を飲む僕の前で。
何かが――とても良くない何かが、始まろうとしていた。