105日目 瞬間、涙、堪えて
「おっす! ん? 何してんのー?」
いつもの部屋に、先輩が威勢よく入ってくる。
ちょうど僕と冷蔵子さんは作戦会議中だった。
いつもとは違う僕らの様子が気になったのだろうか?
先輩はこちらに近付いて来た。
そんな先輩に、僕は事実を淡々とした口調で言う。
「作戦会議中なんですよ」
「作戦? 何の?」
「史上最大のドッキリ作戦です」
「何それ? 面白そう」
興味を引かれた様子の先輩。
それに水を差す様に冷蔵子さんが口を開く。
「ドッキリじゃないわ。彼の更生プログラムよ。ついに真人間への一歩が踏み出されるんだわ」
「真人間?」
「ほら、彼って真面目に生きて無いじゃない? そろそろ本気でリハビリが必要なのよ」
凄い言われ様だが、致し方なかった。
何故なら冷蔵子さんをそう仕向けたのは僕自身だったからだ。
自縄自縛に陥る僕に気付かないまま、先輩と冷蔵子さんの会話が続く。
「少年って最近、本当にバカみたいだしねー。リハビリかぁ。とうとうそうなっちゃうんだね」
「変な人と付き合ってるみたいなのよ。仲間内で王なんて呼び方を使ってるの」
「王!? うぷぷ、高校生にもなって王! 少年は何を目指してんの!?」
「本当、バカよね……」
凄い言われ様だ。もう耐えられそうに無い。
情感たっぷりにバカにされて、僕の心は打ち砕かれる。
何もかもを忘れて泣きたかった。
そして一発大阪さんを殴ろう。
泣きながら大阪さんと殴り合う自分の姿を想像しながら。
僕は涙が零れないように上を見上げた。
「それでさ、リハビリって何をすんの?」
にゃははと笑いながら訊いてくる先輩。
打ち砕かれたハートを抱えながら。
僕は悲しみに引き攣る横隔膜を意識しながら答えた。
「こ、恋人ごっこですよ。真面目なトークって言ったらそれですよね?」
「ふーん、恋人ごっこねぇ……はぁ!?」
急に先輩は驚いたように声を上げた。
それと同時に、右手を下から掬い上げるように、左手を上から下に下ろすようにして両手で大きな円を作ったポーズで固まった。
久しぶりに見る奇妙なポーズを前にして、僕は一応尋ねておく。
「……先輩、何やってるんですか?」
「驚いてんの。いやいや、オカシイよっ!? なんでリハビリが恋人ごっこなの? それはとてもオカシイと私は思います!」
おかしいのは先輩だ、と思わず言いかけた僕を冷蔵子さんが手で制した。
視線を冷蔵子さんに向けると、彼女は何やらアイコンタクトを送ってくる。
そうか、僕に気を使ってくれているのか。直感的にそれを察した。
冷蔵子さんは、僕が幼児期のトラウマを抱えていると信じきっている。
(嘘の)トラウマの事を先輩に伏せておいてくれる、そういう意味の合図なのだろう。
そんな彼女の優しさに少しだけ良心が痛んだ。
「真面目な会話ならさ! 先生とすればいいんじゃないかなぁ!?」
ズビシ、と僕に指を突きつける先輩。
冷蔵子さんは先輩から僕を庇うようにして言った。
「それは、無理よ!!」
「なぬ!? なにゆえに!?」
「その理由は簡単よ! 彼は先生からすっごく嫌われているんですもの!!」
えっマジかよ。泣きそうだよ。
冷蔵子さんの口から出た事実に僕は再び打ちのめされていた。
「授業中に先生をキレされただけじゃなく、その後に書いた反省文で火に油を注いだのよ! もはや先生は、目も合わせようとしないわ!」
うわ、薄々そうじゃ無いかと思ってたけど、やっぱり先生から無視されてたのか。
あえて目を逸らしていた事に気付かされ、どんどん心の耐久値が減っていく。
「お、怒らせた先生は一人だけだよね!? 他の先生だっているじゃん!!」
なおも食い下がる先輩。
しかし冷蔵子さんは、より一層深刻な表情になった。
「確かに、彼が怒らせた先生は一人よ。……でもそれが、あの深紅の古文女だとしたら?」
「げげぇ!?」
先輩が女性にあるまじき声で悲鳴を上げる。
ガタガタと震だす先輩。
怯える肩を両手で抱くようにして、呟く。
「あ、あの真っ赤なミニスカ教師!? あの人はマズイ……マズイよぉ……」
何がそんなにマズイんですか、先輩?
僕は何も分から無いんです。分かりたく無いんです。
溢れそうになる涙を堪えるように、上を向く。
天井には心を慰めるような効果は無く。
ただジッと泣くのを我慢するしか無かった。
「もはやどの教師も、彼を腫れ物のようにしか扱わないわ! 先生と話すこと自体が彼にとっては困難な状況よ!」
「ぐぬぬ……! 少年、君はどうしてそんなに過酷な道を歩むの……!?」
どうしてだろうか?
分からない。分からないまま時は流れていく。
先輩は両手の拳を握り締めながら考え込んだ。
そして早押しクイズの回答者のように手を挙げる。
「はい! はい! 師匠と弟子の関係はどうかなっ! 真剣で真面目な会話の練習になると思います!」
「思いっきりふざけてるじゃない」
「先輩、それは僕も不真面目だと思います」
「即決!? 光の速さで否定された!?」
ガビーンという表情でショックを受ける先輩。
しかし素早く立ち直りながら叫んだ。
「じゃあ先輩と後輩の関係! これこそ上下関係を示す、真面目な会話だよっ!」
胸を張って宣言する先輩。
しかし冷蔵子さんは動じる事無く淡々と答えた。
「それで、あなた達がしてる会話って真面目かしら? 『まにまに』だけで話したり、架空の人物ジョニーと一緒に海を目指す会話が?」
僕と先輩を指して冷蔵子さんは冷たく指摘した。
その声はまるで南極点に吹く風。
どこまでも冷え渡り、吐息すら凍りつくようだ。
確かに冷蔵子さんに言われる通りだ。
ノリと勢いだけで会話を積み重ねる僕と先輩。
その姿勢はさながらラテン系。
ジャズミュージックのように即興で変化していく会話。
そんな自由な言葉の応酬は、まあ真面目とは言えないだろう。
静かに僕は納得した。
そうそう、ジャズと言えば名曲が沢山ある。
洋楽を聴いたりするので、ジャズの曲も何曲かは聴いているのだ。
大抵が曲名を知らないままなんだけど、その中で一つだけ覚えているタイトルがあった。
あれはそう、確かレイ・チャールズの――。
「じゃあ私もやるよ!」
僕の思考は先輩の掛け声で中断された。
キョロキョロとしながら視線を向けると、先輩と冷蔵子さんが対峙するようにして向かい合っていた。
「やるって何をかしら?」
「恋人ごっこの相手役! そう、かつて少年の体を整体をした私なら、心の整体も可能なはず……!」
ゴリラ並みの握力を誇る指。
それをパキパキ鳴らしながら先輩は言った。
しかし体の整体と心の整体を同じ様に考えてもいいのだろうか?
しばし考えた後、僕は言った。
「先輩、それって心と体は同質って意味ですか? 中々哲学的なセリフですね」
「少年は黙ってて!」
「貴方は黙ってて!」
「……すみません」
先輩と冷蔵子さんから同時に叱られ。
僕は悄然としながら謝るしかなかった。
何故僕は怒られたのだろうか?
分からない。分からないまま時は流れていく。
僕は涙が零れないように上を見上げた。