僕の世界が変わった日 06
「こいつがあの、姫宮か? 伝説とか言われて調子乗ってんじゃね?」
「ははっ、こうなったら伝説の姫宮サマもただのサンドバッグだな」
好き勝手を言いながら男が二人、無造作に床に寝かせられている姫宮を蹴り飛ばした。靴の底が頬をとらえて、口内を切った。
もう幾度となく姫宮は男たちに暴行を受けている。姫宮が女だということなど関係なしだ。
踏みにじられた腹部がじくじくと痛む。口内も傷だらけで、しばらくは喋るだけでも痛むだろう。
姫宮は一方的な暴力からぎりっと歯を噛み締めてただ耐えた。声も出さずにされるがままな姫宮を見て、男たちは嘲笑う。
気を失っている間に姫宮は狭く暗い部屋に今井の取り巻き二人と閉じ込められていた。両手は背中で拘束され、両足も一つにくくりつけられている。何か薬を飲まされたのだろう、全身が痺れて言うことを聞かない。
そんな状態でも受ける衝撃を最小限に抑えようと、蹴られる瞬間に腹部に力を入れてみるが、力が入らず大きな衝撃が姫宮を襲った。激しく咳き込んで、姫宮の瞳に生理的な涙が滲む。
やられるだけなのは性に合わず、せめてもの意趣返しに姫宮が鋭く二人を睨む。いつもなら獰猛な光が宿るはずの瞳は、今は涙が滲んで妖しく見えた。
痛みに耐えて少し赤みがかった頬に、涙で潤んだ漆黒の瞳、床に散り鈍く光る金の髪。それを見て、姫宮を嘲笑っていた男たちの顔から笑いが消えた。
「今井サンは見張っとけっつってたけど、ちょっとぐらいはいいよな」
「だな。こいつが妙にエロいのが悪い」
男たちはぺろりと己の唇を舐めた。それは野生の動物が今にも獲物を喰らおうとする様によく似ていた。ただ、男たちから醸し出る雰囲気が明らかに変化する。
姫宮は本能的に危険だと感じたけれど、動かない体ではどうすることもできない。
「触んな変態!」
姫宮の震える制止の声には耳を貸さず、男の手が姫宮のシャツにかかり、力任せに引き裂いた。下着で覆われた二つの乳房が露になる。
ひゅう、と興奮と嘲りを込めた口笛を吹かれて姫宮はかっと顔を赤く染めた。――屈辱だ。
ぎり、と歯を食い縛りながら男たちを睨みつける。その視線をものともせず、男の手が今度は太ももに触れた、その瞬間。
しっかりと閉じられていたはずの扉が開かれた。光が差し込み、眩しさに目を細める。
「……何やってんだてめえら」
ドスのきいた低い声が部屋に響く。思わず扉へすがるように目を向けた姫宮は、すぐに眉間に皺を寄せた。
独特のリーゼントが目の前で揺れている。姫宮に馬乗りになっていた男たちが慌てて離れた。
「いっ、今井サン!」
「違うんスよ、これはこいつが、」
今井は弁解する男たちに近寄ったかと思うと、問答無用で殴り倒した。勢いのまま、男二人が床に倒れ込む。
口と鼻孔を切ったのだろう、ぼたぼたと血を流しながら怯えたように見上げる男たちを、今井は煩わしげに見つめ、顎を扉に向けてしゃくってみせた。
「くだらねえ事してんじゃねえよ」
とたん弾かれたように二人が走り出す。その背中に今井は、今から誰も入ってくんじゃねえ、入ってきたら殺すと怒鳴り、力任せに扉を閉めた。
おもむろに着ていた学ランを脱ぐ。そしてぽかんと一部始終を見ていた姫宮に歩み寄り、手と足を拘束していた縄を外した。
姫宮は立ち上がり、手足が動くかくるくる回して確かめる。縄が食い込んでいたのだろう、跡になったところが少し痛むだけで、別状はないようだ。
姫宮はほっと息をついて、今井を訝しげに睨みつけた。拘束を外した理由がわからない。けれど今井は脱いだ学ランを姫宮に投げてよこした。
「悪いな、それ着てろ」
そのままじゃ居られねえだろ、そう続けられて、姫宮は自分の状況を思い出した。頬を染め、今井に背を向けて遠慮なく学ランを身につける。
ボタンをきちんと止めて振り返ると、今井は神妙な顔つきで近くにあった椅子に腰を下ろしていた。姫宮もその場にどっかりと胡座を組んで舌打ちをする。
「あんたのチームはゲスばっかだ」
あんたを含めてね、そう言って今井を睨みつける姫宮。今井はくつくつと笑いだす。
「ゲスね……否定はしねえがな」
「ゲスよ。小さな子どもをかつあげしたり、あたしの個人情報を勝手にバイト先に持ってったり」
「あんたにフツーの世界なんて似合わねえよ」
今井は深い意味を込めたような言葉を放った。自嘲ぎみに口元を歪ませる。それを見て、姫宮は小さく息をついた。
「ったく。忘れてたからってここまでする事ないんじゃないの、ハチ?」
呆れたようにそっぽを向いた姫宮に、今井は驚いて椅子から立ち上がった。拍子に椅子が倒れたけれど今井は気づいていない。ただ呆然と目を見開いたまま、信じられないと言うように姫宮を見つめる。
その視線を受けて姫宮は決まりが悪そうにがしがしと頭をかいた。
「ハチでしょあんた。でかくなってるし口調も変わってるしでわかんなかったけど、さっき思い出したわ。気づいてほしいんなら自分から名乗りなさいよね」
ぶつぶつ文句を言いながら今井に視線を向けると、今井はくしゃりと顔を歪ませた。力が抜けたように椅子に全身を預ける。
「はは……もう、忘れてんだと思ったんだよ」
「忘れてないっつーの」
弱々しく笑う今井に姫宮は大きなため息をついた。
今井は姫宮が荒れていた中学時代、姫宮に惚れたと言って、いつの間にか側にいた男だった事をようやく思い出した。その頃の今井は姫宮よりも背が低く、口調も少し子どもっぽくて、まるで犬のように姫宮の後ろをついてまわっていたため、目の前にいる今井を見てぴんとこなかったのだ。
それに中学時代の今井は、ハチと呼ばれていた。忠犬ハチ公のように姫宮にただただ忠実だった彼の名前なんて、ほとんど呼んだことがない。だから名前を言われてもわからなかった。
初めからハチだと言えば気づいたものを。姫宮はじと目で今井を見やる。気づかれるよう努力をしなかったくせして、なぜ姫宮はあんな屈辱を受けなければならないのか。
「……忘れてなんか、ないわよバカ」
不貞腐れた子どものように口を尖らせる。今井は困ったように笑った。
「あんたが来るのがもうちょっと遅かったら、あたしゴーカンされてたしね」
まだ体が痺れている。そんな事を悟らせるほど姫宮は馬鹿ではないけれど、とりあえず嫌味だけは言わないと気が済まなかった。姫宮の嫌味に今井は苦笑する。
少し陰のある今井の笑みに目敏く気づいて、姫宮は真剣に言葉を紡いだ。
「ハチ。あんたこのチーム、ちゃんとまとめてないでしょう」
「……っ、なんで、そう思う?」
一瞬言葉をつまらせた今井は、けれど余裕をみせるように軽く口元を引き上げてみせた。そんな今井の演技を一蹴する。
「あんたがちゃんと頭張ってれば好き勝手する奴は出てこない」
姫宮に暴行を加えたあの二人だけでなく、きっとコンビニの前で那智たちをかつあげしていた男たちも、今井を自分たちの頭だと認めていない。でないと頭を張る今井の指示を忠実に守るはずだ。中学時代の今井のように。
今井の名を騙るだけ騙り、あとは知らないふりをするような奴らは、力でねじ伏せないと言うことを聞かないというのに、今井はそれに気づいていない。今井は姫宮の姿しか見ていないから、チームのまとめかたなんてわからないのだろう。姫宮はチームなんて面倒で作ることすらしなかったから。
「あんたが何か目的を持ってこのチームを作ったんなら何も言わない。でもね、勝手にあんたの強さが目的で集まった奴らの溜まり場になってるだけだってんなら」
姫宮は言葉を切って、今井と目を合わせる。今井の瞳は迷うように揺らいでいた。
「今からあたしがぶっツブす」
ぐっと拳を握ると、だいぶ痺れがとれてきたのがわかった。立ち上がって屈伸してみると多少痺れは残っているが、今から暴れるのに支障はなさそうだ。
今井の座る椅子の後ろに木刀を見つけて取りに行く。さすがに大勢を相手に丸腰はきつい。
木刀を手にとって握る感触を確かめると、姫宮の手に馴染んだ。
「……あんたが、いきなりいなくなるから悪いんだろ……!」
暴れる準備を整えた姫宮に今井は振り絞るように叫んだ。
いつも今井の前を凛と歩き続けた姫宮は、中学三年の夏を境に突然更生した。今井や慕う人間に何も言わず、姫宮は裏の世界から身をひいた。
今井がどれだけ声をかけても、戻ってくれと懇願しても、姫宮は首を横に振り、普通の世界へと戻ってしまった。そのときの衝撃を今井は忘れることができない。
姫宮に憧れて入った世界から、その姫宮が消えてしまった。何の理由も話さずに。
「オレが好きだっつってもはぐらかすばっかでよ……!」
もう戻らない、そう決めたのだと言った姫宮に、今井は自分の気持ちを告げた。どこに行っても、今井の気持ちは変わらないのだと。
けれど姫宮はそれにも首を振った。あんたは視界が狭すぎると言って。なおも言い募る今井に、強くなったら考えてやると譲歩してくれた。
だからその言葉を胸に、胸を張って姫宮を迎えに行けるように強くなったのだ。言葉通り、血の滲む努力をして強くなり、慕う者はどんな奴でも受け入れ、己のチームを作り上げた。
けれど姫宮は今井の努力までも認めなかった。何が悪いのかがわからない。どうして受け入れてもらえないのか。今井は伝わらない思いに苦しくなり、項垂れた。
姫宮はため息をついて項垂れる今井に近づき、その頭を軽く小突く。ゆるゆると顔をあげた今井を覗きこみながら、笑った。
「あたし、あんたは視界が狭すぎるって言ったよね。その意味、わかる?」
「……わかんねえよ、ちくしょう」
「ったく、ホントバカなんだから」
姫宮は困ったように笑いながら今井を見つめた。一年ぶりに見た姫宮の笑顔に今井は少し顔を赤らめる。
姫宮が裏の世界から身をひいたのは、親友である杉原が姫宮の名を騙る男たちに強姦されかかったからだった。
杉原が友達になろうなんて生ぬるい言葉をかけてきてから始まった付き合い。あらゆる意味で皆から一歩引かれた存在だった姫宮は最初こそ杉原をうっとおしく思っていたが、だんだんと杉原に懐柔されていった。
喧嘩で傷ついた姫宮に丁寧な手当をしてくれたり、学校で恐れられていた姫宮に一人だけ声をかけてずっと側にいたり。杉原の笑顔を見ると安心するようにまで解されてしまった。龍崎は、杉原の意に沿うように、何も言わずただ側にいた。
けれど姫宮を疎ましく思う奴らからすれば、杉原は格好の餌食なわけで。杉原は姫宮が助けを求めていると騙され、複数の男たちに襲われたのだ。
気づいた姫宮が乱入して未遂で済んだものの、あのときの杉原の絶望したような瞳が未だ忘れられない。
自分の大切な人間に、もう二度とあんな思いをさせないため。姫宮は裏の世界から身をひいたのだ。
今井が姫宮を慕っていたのは気づいていた。けれど大きくなりすぎた姫宮の名が、きっと今井を傷つける。そう思い、姫宮は今井を引き離した。
今井は姫宮が認める、いい奴だ。だから姫宮が普通の世界に戻ったのをきっかけに、今井にも更生をしてほしかった。
「だから視界が狭すぎるって言ってんの」
今井には更生を手助けしてくれる家族がいるだろう。姫宮もできる限り協力するつもりだ。
間違えた道を進んだ事に気づき項垂れる今井。彼を後押ししたのは姫宮だろう。あのとき一緒に更生しようとはっきり告げていればよかったのに。
だから今、姫宮の手でこのチームを潰すのだ。今井の未練だけで作られた、愚かなチームを。姫宮にはその責任がある。
薄暗い部屋に沈黙が落ちた。今井はただ項垂れている。何を思っているかはわからない。けれど姫宮は止まる気はなかった。
ひゅん、と木刀を一振りして感覚を確かめる。姫宮の瞳には獰猛な野生動物の光が宿っていた。
けれどいきなりの乱入者によって雰囲気がぶち壊される。少し前から扉の向こうが騒がしいとは思っていたけれど。
いきなり扉が蹴破るように開かれて、姫宮が驚いて振り返ると。
「飼い猫を返してもらおうか」
小型の銃を片手に黒のスーツを着た高瀬がそこにいた。