表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
野良猫と拳銃  作者: ゆん
僕の世界が変わった日
5/9

僕の世界が変わった日 05

 授業が終わり学級委員が号令をかけたと同時に、姫宮は鞄を掴んで教室を出た。

 下校時間なので廊下に生徒が溢れているが、姫宮が通ろうとすると自然に道が開けた。まるで旧約聖書に出てくるモーゼのようだ。そういうと神々しく聞こえるが、触らぬ姫宮に祟りなしというのが正直なところだろう。

 そんな生徒たちのことなんて露ほども考えず、姫宮はのんびりと歩いて行く。カフェのバイトは公休をもらっていたので、夜のバイトの時間まで何をしようか。


 ふと姫宮は唇に手をやった。思い出すと頬が熱くなる。

 ここ数日、仕事中も授業中も、何をしていても全く集中できなかった。考えるのは、高瀬とキスしてしまったこと。

 好きだと言われたわけではない。付き合おうなんて言われていない。けれどあのとき姫宮は抗うことなく高瀬を受け入れてしまった。

 あんなに嫌いだった高瀬とキスをしたなんて、自分が何を考えていたのかわからない。もちろん高瀬が何を考えているのかも。

 けれど高瀬は何事もなかったかのように振る舞っていた。姫宮を猫呼ばわりするのは当たり前で、態度も何も変わらずあの俺様な態度で接してくる。

 それを見て、間違えたのだと思った。あのときはお互い雰囲気に流されてしまっただけなのだと。

 でなければ虚しすぎるだろう、姫宮だけ意識してしまうのは。

 あれが初めてのキスだったなんてひどい。なかったことにしようとしても、唇があの優しくて甘いキスを覚えている。

 考えれば考えるほど切なくなって、気を抜くとすぐに思い出してしまう感触を忘れようと、姫宮は乱暴に唇を擦った。


 靴を履き替えて校門へ向かうと、校門にもたれ掛かっている小さな人影に気がついた。居心地が悪そうにきょろきょろと辺りを見回して、俯いている。

 可愛らしい様子に母性本能を擽られたのか、下校中の女子が幾度となく声をかけている。けれどそんな優しさを振り切るように、小さな影は誰かを探していた。

 何となく目をこらして見てみると、そこにはランドセルを背負った那智の姿があった。

「那智?」

 声をかけると、那智はぱっと顔をあげて姫宮の姿を見つけると安心したように笑った。せっかく声をかけてくれた女子に構わず、姫宮に向かって走ってくる。

 勢いのまま那智が抱きついてきた。それをしっかりと抱き止める。

「やっと見つけたぜ……!」

 はあ、と那智は大きく息をついた。ぐりぐり押しつけてくる頭を撫でてやる。

 この間不良に絡まれたばかりの小さな子どもが、見知らぬ高校で人を待つというのはとても不安だっただろう。よしよしと宥めてやりながら、姫宮の腰を抱きこんで離れない那智を覗きこんだ。

「どーしたのよ那智、高瀬に用事?」

「違えよ、お前に用事だぜ姫宮!」

 那智も姫宮を見上げて答えを返す。

 額がくっつきそうなほど近い距離だ。那智の瞳が光の加減で高価な宝石のように煌めく。

 眩しいそれに見つめられて、姫宮は少し目を細めた。那智の瞳も綺麗で好きだけれど、姫宮が気になったのは那智の言葉。

「……あんた小さいくせに年上の女に対してお前とか呼び捨てはないんじゃない?」

「姫宮は姫宮なんだよ!」

 呆れたように紡いだ言葉は那智の笑顔の前に消え去ってしまった。

 まるで初めて覚えた言葉のように姫宮の名前を繰り返し口にする那智。そんな姿を見たら姫宮にはもう何も言うことができない。

「はいはい、いいよ姫宮で。んで、あたしに何の用事?」

 ぶっきらぼうに話を変えた姫宮だが実はただ照れているだけだ。姫宮は純粋に慕われたら拒むことなんてできない性格だ。自覚はしていないけれど。

 そんな姫宮の様子に気づきもせず、那智は思い出したように首を傾げた。

「姫宮、今から暇か?」

 そう尋ねられて姫宮は頭の中を整理する。普段はバイト三昧でほったらかしにしている家の掃除でもしようかと考えていたけれど。

 不安そうに揺れる瞳を見た瞬間、今日は暇なことにした。

「うん、暇っちゃ暇ね」

「んじゃオレん家来いよ!」

「は?」

 不安そうな顔色から一変、ぱあっと輝くような満面の笑みで誘われて、姫宮は首を傾げる。いきなり家に来いよと言われても。訝しげに眉をひそめる姫宮に那智が続ける。

「由紀がお前に会いたがってるんだ。こないだ借りた制服も返さなきゃなんないし。ってわけでオレん家に行くぜ!」

 言うだけ言って那智は抱きついていた体を離した。そのまま手をつないで、ぐいぐいと姫宮を引っ張って歩き出す。姫宮は那智の好きなようにさせながら、困ったように頭を傾けた。

「それはいいけど……高瀬が怒るんじゃないの、あたしが勝手に行ったら」

 なぜここに野良猫がいる、なんて鼻を鳴らしながら姫宮をけなす高瀬の姿が簡単に想像できる。高瀬はきっと部外者が自分の領域に入ることを嫌うだろう。

 けれど那智は振り返って、ちちちと指を立てて笑った。

「今、兄様は会社に行ってるから大丈夫なんだよ!」

 ほら早く、と引っ張られて姫宮は苦く笑う。那智は姫宮のことも高瀬のことも、そして由紀のことも考えながら動いているのだろう。頭がいいというか世話焼きというか。

 高瀬の弟だと思えないほどの気遣いに、やれやれと肩の力を抜いた。高瀬がいないのなら、少しだけ顔を出してもいいかな。

「仕方ないな、お茶くらいは出してくれるんでしょうね?」

「お前ん家貧乏だからケーキも用意してやるぜ!」

「そりゃあ楽しみだわ」

 姫宮の家の事情を知っているけれど、あえて気にしないよう那智がからかって笑う。悪戯っ子のようにぱちりとウインクをされて、姫宮も気にすることなく笑った。


「よかったの、逢坂さん先に帰らせちゃって?」

 ふんふんと機嫌良く鼻唄を歌いながら隣を歩く那智に尋ねてみた。

 那智は校門を出たところで高級車を停めて待っていたボディーガードの男性――逢坂【あいさか】に向かって一言、帰れと言い切ったのだ。姫宮と二人で歩いて帰るから、と。

 いきなりの無情の宣告に逢坂は慌てて、つい先日不良に絡まれた事を忘れているのかと反論した。歩いて帰る事はいいがせめてボディーガードである自分を連れて行ってくれと。けれど那智はがんとして考えを譲らず、渋る逢坂を先に帰らせたのだ。

 逢坂を黙らせた魔法の言葉は、オレの命令が聞けないのか、だった。その言葉を聞いたとたん逢坂はぐっと言葉につまり、泣く泣く帰らされたのだ。

「何だよ姫宮、オレと二人は嫌なのかよ」

「いーえ、めっそーもない」

 拗ねるように唇を尖らせた那智に、すぐさま否定の言葉を返した。すると那智は当たり前だと言いつつ、照れたように笑う。恥ずかしそうに、けれど緩む口元を止められない那智を見て、姫宮もつられて微笑んだ。

 初めて会ったときはほとんど笑ってくれなかった那智が、姫宮の手を繋ぎながら心の底から笑ってくれている。その事実を自覚して、姫宮は込み上げてくる笑みを抑えることなく解放した。


 高瀬家までの道のりを歩きながら、那智はたくさんの話をしてくれた。

 算数の授業のときに由紀が当てられて正しい答えを言えたのだとか、昼休みに友達とサッカーをして那智のチームが勝ったのだとか、音楽の時間にピアノを習い弾いてみたけれどどうも上手く弾けなかったのだとか。そして姫宮が驚愕する事実も。

 実は那智は高瀬グループの専務職に就いているというのだ。双子の兄である由紀は副社長だと。

 驚きに目を見開いている姫宮に、那智は苦笑しながら教えてくれた。

 高瀬グループの先代社長は高瀬の義父で、本当の両親を失った兄弟を施設から引き取り、自分の跡を継げるよう三人に死ぬ気で勉強をさせ、高瀬が己よりも数段優れた企業家であることに気づいたとたん、高瀬に社長の座を譲ったのだと。

 義父の血を吐くような特訓のおかげで仕事に差し支えはなかったけれど、若くして社長に就いた高瀬を認めない部下も多かったらしい。そこで高瀬は自分に反抗する社員の首をすべて切り、己が君臨するに相応しい会社を作りあげたのだという。

 その一環として、誰よりも信頼できる二人の弟を幼いながらも幹部職に就けたのだと。

 労働基準法があるから書面での正式な決定ではないし、二人はまだ小学生なので出来ることは限られているのだが、それでも実際の二人の立場は副社長と専務なのだそうだ。

 那智の話を聞いて、ようやく高瀬の俺様な態度の理由がわかった。部下に舐められないために、ああいう態度をとるしかなかったのだろう。高瀬の過去は悲惨だと思うが、それ以上に不器用な男だと思う。


 過去の話をして雰囲気が暗くなったことに気づいた那智は、また今日あった出来事を話し出した。

 何気ない、けれど一瞬一瞬がとても大切な出来事を、姫宮に話してくれる。

 ふと会話の合間に那智が呟いた。

「そーいや、オレこんな話すんの久しぶりだ」

 それを聞いて姫宮の胸が小さく痛んだ。姫宮も両親が離婚する前までは母親に今日あった出来事を毎日報告していたのを思い出す。

 きっと那智も昔は母親か高瀬に、何でもないけれど素敵な出来事を聞いてもらっていたのだろう。久しぶりというからには、もうだいぶ長い間こうして自分が体感した話を聞いてもらっていなかったのだと思う。

 そんな辛い過去を気にすることなく姫宮に話をする那智を見て、今は自分のできることをしてやろうと決めた。


 那智の話を聞いていると、遠くからエンジンの音が聞こえてきた。バイクが通るのだろうかと、道路側を歩いていた那智を壁際へ歩かせる。

 危ないから場所を入れ替わったのだが、那智からは子ども扱いするなと冗談まじりに怒られた。笑って言葉を返していると、ふと違和感に気づく。バイクは近づいているのだが、複数のエンジン音が聞こえるのだ。

 なんだか嫌な予感がしてゆっくりと振り返る。するとこちらに五台のバイクが向かってくるのが見えた。先頭を走る男に見覚えがあって、姫宮は顔色を変えて那智を背中に隠す。

 那智は不思議そうにしていたが、バイクが二人を囲むように停車すると表情を蒼白にした。先日の深夜に起こった出来事が那智の頭の中で甦ったのだろう。恐怖再来だ。

「ようハニー、迎えに来たぜ」

 ぶんぶん煩いエンジン音を響かせた、ひょろ長い身長にちり毛と天然パーマのリーゼント。制服の学ランのボタンをだらしなくすべて外して、中には趣味の悪い真っ赤なシャツを着込んだ今井がにやりと笑った。それを見て、取り巻きたちもにやにや笑いだす。

 姫宮は震えている那智の手をしっかりと握りしめて、今井を睨みつけた。

「あんたにデート誘われた覚えはないんだけど」

「オレは思い立つとすぐ行動するタイプでね。ちょっと面貸せよ」

 くいっと顎をしゃくられて姫宮は大きなため息をつく。ひどいデートの誘い文句だ。女を口説く術も知らないらしい。

 普段の姫宮ならば、口説き文句を考えてから声をかけろと一蹴するところだが、今回ばかりは勝手が違った。

「……この子に何もしないって約束できたらね」

 ちらりと那智を見て言葉を紡ぐと、今井はあっさりと首を縦にふった。

「いいぜ、オレは子どもにゃ優しいんだ」

 両手をあげて何もしないというアピールをした今井を疑わしげに見つめる。取り巻きの一人が今井サン、と信じられないというような声を出したが、今井はそれを無視した。

 とても疑わしいけれど、この状況では那智をこの場から逃がすことの方が先決だ。

 姫宮は、再び訪れた恐怖に震えながらも耐える那智の手を離した。そのまま那智と目線を合わすようにしゃがみこむ。ひくりと那智が喉を鳴らした。

「……ひめ、」

「那智。ごめんね、遊びに行けなくなっちゃった。次の休みは絶対遊びに行くから、由紀に謝っといてくれる?」

 姫宮は那智の両肩に手を添えて、那智の顔を覗きこんだ。けれど那智は泣き出しそうに顔を歪ませて首を振る。いくら不良が怖くても、姫宮を一人残して逃げるわけにはいかないからと。

 涙がこみあげ、けれど揺るがない青の瞳に向かって、姫宮は強気に笑ってみせた。自分ならば大丈夫だから。

「あたしは大丈夫、強いからさ。だから那智はすぐ家に帰りな、ダッシュでよ。いいわね」

 姫宮は断ることができない口調で言い切った。迷うように青の瞳が揺れた瞬間、姫宮はほら、と那智の肩を押した。促されて、ついに那智は走り出す。

 振り返ることのない小さな背中。その姿が見えなくなるまで見送って、姫宮は今井に視線をうつした。約束どおり取り巻きを黙らせ、何もする様子のない今井を見て、口元を引き上げる。

「ふうん、約束を守るっつーのは本当のようね」

 姫宮はふんと鼻で笑った。この手の奴は絶対に約束を破るだろうと予想していただけに、正直驚いた。けれど今井は何が面白いのか、にやにや笑う。

「あんなガキ捕まえても面白くねえよ。目の前にこんなご馳走があるんだからな」

 その言葉が耳に入ったと同時に、姫宮の頭に衝撃が走った。がつ、という鈍い音を聞いて姫宮の意識が薄れていく。

 ぐらり傾いていく景色のなかに、背後にいた男が鉄パイプを握りしめてにやにや笑っているのが見えた。最初から、標的は姫宮一人だったのだ。

 ちくしょう、そう呟いたのを最後に、姫宮の視界が黒く染まった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ