僕の世界が変わった日 04
「あーさぶ」
姫宮は制服のブラウスの上にベージュのカーディガンを羽織っただけの格好で、風の冷たい屋上に来ていた。なるべく風の当たらない場所へと移動して、ずび、と鼻水をすする。ポニーテールにした長い髪を邪魔にならないよう胸の方へ持ってきて、その場に腰を下ろした。
蒸し暑いと思っていた最近は、梅雨の影響で雨が続き気温の変化が激しく、今日はなんだか肌寒い。太陽も照り暖かくなってきたと思ったのだが、やはり屋上はまだ寒かった。けれど教室に戻るつもりはさらさらない。
今頃教室には重役出勤をした高瀬が入っていったところだろう。たまたま教室の窓から校門の前に黒塗りの高級車が停車するのを見つけてしまい、避けるように休み時間の間にここへ来たのだ。
昨日の夜に高瀬からひどい言葉をぶつけられ、あまりに悔しすぎて泣いてしまったところを奴にばっちり見られてしまった。そして逃げるようにその場を後にして。そのため高瀬とまともに顔を合わせられない。
『所詮、薄汚い野良猫か』
吐き捨てられた、冷たい言葉。否定したいところだができない悔しさで姫宮はぎゅっと唇をかみ締めた。
幼い頃に両親が離婚した。父親に引き取られた彼女は毎日のように暴力を受け、更には父親が酒乱のため苦しい生活を強いられていた。
やはりというか、当たり前のように姫宮は荒れた。中学時代は姫宮という名を聞くと近づいてくる奴らは瞬殺、皆が逃げ回るほどの不良だった。まあそれは、姫宮にとっても良い思い出ではないから、更正させてくれた杉原と龍崎には本当に感謝している。
姫宮が休まずバイトに明け暮れている理由は、生活費を稼ぐためだ。
姫宮の父親は金遣いが荒すぎる。パチンコもギャンブルも大好きだ。自分が勝つまで、手持ちの金が尽きるまで止めようとせず、ふらふら遊びまわり帰ってこない。そのくせ自分では働かないのだ。
金融会社から多額の金を借りて、返すあてもない今じゃブラックリスト入り。借りることもできないので、父親は金がなくなったら家に戻り、姫宮を殴って、金を出せと怒鳴る。無いと言えば暴力は激しくなり、家具をひっくり返して隠している金を探し、またどこかへ出て行く。素直に出しても、腹に一蹴り喰らうのだが。
そんな父親のおかげで今月も苦しい。この間も突然帰ってきて、タンスに隠していた今月の家賃と借金の利子分をひっつかんで出ていった。蹴りを二発ほど喰らった腹が思い出したように痛む。まあ、今回は顔を殴られなかっただけでもましだ。さすがに顔を腫らしての接客業は無理がある。
金融会社からの返済の催促も最近は激しくなる一方だ。あまりにも返済が滞るようなら身体を売れとまで言われている。無理に拉致られてその手の店へ売り飛ばされないだけまだいいが、このままでは本当に売られそうだ。
そこまで考えて、深く深くため息をついた。
昨日は完璧に高瀬が悪い。どんな理由があったにしろ、姫宮は誘拐犯にされる謂われはないし、高瀬にあそこまでけなされる理由もない。姫宮はただ高瀬の弟たちを助けただけなのだから。昨日のあれは高瀬の勘違いだ。
そこまで考えて、姫宮はきゅうっと胸が痛くなった。勘違いされたということは、姫宮は全く高瀬に信用されていなかったということだろう。
確かに高瀬とは言い合いばかりしている。学校でもバイト先でも。けれど仕事中は高瀬と言い合ったりはしないし、高瀬の指示や注意を大人しく聞いていた。
仕事中は高瀬が姫宮の上司なのだ、そこだけはきっちり線を引いて守ってきたはずだ。高瀬も企業人として解ってくれていると思っていた。なのに、なぜだろう。
「……も、やだ」
考えれば考えるほどわからない。だが、信用されていないと、金を扱うレジなんて任せてもらえないはず。
とりあえず、一つだけわかったのは、姫宮は高瀬に嫌われているという事。そう結論づけると、姫宮は立てた膝の上に腕を組んで顔を伏せた。
「……あたしだって、嫌いよ」
高瀬なんか。
偉そうだし、口が悪いし、態度でかいし、双子の面倒すら見ないし、ワーカーホリックだし、唯我独尊をひた走ってるし。
けれど高瀬がたまに、本当に気まぐれのように優しくしてくれる事がある。
たまたま高瀬がホールに出ていて、客が姫宮を気に入り、こんな従業員がいたら社長も幸せだろうと大げさに褒めたとき、客に礼を言った高瀬が優しく頭をぽんと撫でてくれた。
終業前のミーティングで夏に向けてのデザートについて話し合っていたとき、なんとなく言った姫宮の案が気に入ったのか、ほんの少しだけ冷たい目を和らげて頷いてくれた。
そんなところが少しだけ気に入っていたのだけれど。
「…………ばか」
ぽつりと言葉を紡いで、姫宮は何かに耐えるようにぎゅっと目を瞑った。
ふと階段を昇る足音が近づいてきた。一人じゃない、複数の騒がしい声が聞こえる。人が落ち込んでいるというのに、騒がしい奴らだ。苛立って姫宮の眉間に皺が寄る。
乱暴に屋上の扉が開かれて、姫宮は睨むように扉へ目を向けた。
「よう、久しぶりだなあ姫宮」
そこには二人の男を引き連れた身長の高い男が立っていて、馴れ馴れしく姫宮に声をかけてきた。
三人とも制服が違う。他校生がどうやって屋上まで入ってきたのだろうか。
奴らは入ってきた時と同じように扉を閉めて、姫宮へ歩み寄る。姫宮の眉間の皺が深くなり、獰猛な瞳がぎらぎら光った。
久しぶりといわれても、男が誰だかわからない。知らない男に馴れ馴れしくされる筋合いはなかった。
「あんた誰」
「冷てえなあ、中学ん時ツルんでた相棒を忘れんなよ。オレだよオレ、今井健二【いまいけんじ】」
中学と聞いて姫宮は頭の中を探ってみる。けれど今井と名乗った男なんて記憶にない。相棒とまで言い切っているが、姫宮の相棒はただ一人だけ。他にも数人ほど信頼できると思った奴もいたけれど、目の前の馬鹿ではない。
どうせ単なるはったりだろう。姫宮はそう決めつけて、ゆっくりと立ち上がった。スカートについた汚れを叩いて落とす。馬鹿と同じ場所に居たくない。
「あんたなんか知らない。なれなれしく話かけんな」
今井に視線を送ることなく今井の横をすり抜ける。けれど腕を捕まれた。
強い力で握りしめられて、ため息をつく。そんなに話がしたいのか。
仕方なく今井に目を向けた。
「んな事言うなって。なあ、またオレらでツルもうぜ。オレとお前が組んだら、ここらの頭潰してこの辺全部オレらの陣地になるんだよ。どうだ?」
改めて今井の顔をじっくり見つめる。お世辞にも格好いいとは言えない、潰れた老け顔にちり毛と天然パーマのリーゼント。こんな特徴的な顔が近くにいれば嫌でも覚える気がするが、やはり姫宮の記憶にはこんなにでかい男はいない。大きくため息をついて腕を振り払う。
「興味ない。うざいんだよオッサン」
凶悪な視線を今井に送り、踵を返す。後ろで取り巻きが、それは言っちゃいけねえ一言だとか、今井さんは老けてねえっすよだとか慌てたようにその場を誤魔化していた。しかし姫宮にはどうでもいい。
今井はチッと舌打ちをしてから、意地悪げに言葉を紡ぐ。
「オレから社長に乗り換えるったあ、お前もやるな。地位も金もあるし。社長とヤってんだろ? あいつサドっぽいけど満足してっか?」
今度は下らない内容で嘲笑う。乗り換えるも何もお前なんか知らないと言っているだろう。どれほど頭が悪いのか。
今の一言はかなり苛立ったけれど、言い返して相手をした方が面倒だろう。姫宮はわざと振り返って、意味ありげに口元を引き上げてみせた。それを見て今井が悔しそうに顔を歪ませる。
変なやつに掴まった、と時間の無駄を後悔しながら屋上の扉へ手を伸ばす。姫宮がドアノブに触れようとしたときに、なぜか扉が開いた。引き戸のため、ぶつからないように避けると、扉から入ってきた人間にぶつかった。
「んぶっ!」
鼻を思いきりぶつけて立ったまま悶える。つんとした痛みが駆け巡り、涙が滲む。座り込みたい衝動に駆られたけれど、そんなみっともないことはできない。じっと痛みが引くまでただ耐えた。
「いってえんだよてめえコラ! …………って、高瀬?」
ようやく痛みが引いてきて、姫宮はぶつかってきた人間に怒りをたっぷり込めて睨みつけた。けれどその目は驚きに見開かれる。そこにいたのは高瀬だった。
「なぜ他校生が学園内にいる? 今すぐ去れ下衆どもが」
しかも、機嫌が最高に悪い。凍るような視線に侮蔑を含ませて投げ、吐き捨てるように言い切ると、高瀬はなぜか姫宮の腕をとって屋上の扉から出ようとする。姫宮が制止しても聞く耳を持たない。
「はは、カレシのお迎えか。あっちいなあ、これからヤんの? そいつ普通じゃ満足できねえみてえだから激しくしてやれよな社長サン」
後ろから下卑た声が響いた。まだ言うかあの馬鹿は。
姫宮が何かを言おうと口を開くが、それよりも早く高瀬が振り返って、これ見よがしに口元を引き上げる。自信が溢れているような表情に、今井の笑い声が止まった。
このままじゃすまさねえからな、と背中に声を投げられる。けれどそれは負け犬の遠吠えだ。高瀬は満足そうに鼻を鳴らして屋上の扉を閉めた。
高瀬は姫宮の腕を掴んだまま、階段を降りていく。どこへ行くんだと尋ねても無言のまま。
二つほど階を降りたところで近くの空き教室へ入る。ぴしゃりと入り口を閉めてから、ようやく腕が解放された。
離された腕をさすって小さく息をつく。会いたくなかった奴と会ってしまった。どんな顔をしたらいいのかわからない。気まずく顔を背ける姫宮に高瀬が口を開く。
「奴とどういう関係だ」
不遜な態度で腕を組み、冷たい目をして姫宮を睨む高瀬。ちらりと少しだけ高瀬に目をやって、また姫宮はそっぽを向いた。
「何であんたにそんな事言わなきゃなんないの」
昨日の事に触れる前にこれだ。姫宮は呆れてため息をついた。
せめて昨日の事を謝ってから話をすればいいものを。それとも、高瀬にとって昨日の事はもうどうでもいい事なのだろうか。
小さく息をつくと、高瀬が苛立ったように言葉を促す。
「言え。昨日の件に関係する事だ」
高瀬の言葉に姫宮が眉をひそめた。今井が昨日の事に関係しているとはどういう事だろう。仕方なく姫宮は口を開く。
「……さっき初めて見た。あいつは中学からツルんでるとか言ってるけどあたしは知らない」
「本当か?」
間を置く事なく返された言葉に姫宮は声を荒げた。少しも信用されていない。その事実を突きつけられたようだった。
「……っ、本当よ! 何でこんな事で嘘なんかつかなきゃいけないわけ!?」
「そうか」
けれど高瀬はすんなり頷いた。またひどい言葉をぶつけられるのではないかと構えていた姫宮だが、あまりのあっさりした高瀬の態度に拍子抜けする。訝しげな目を向けた姫宮に高瀬はようやく言葉を紡いだ。
「昨日貴様が定時で帰ったあとしばらくしてからか、奴が俺の前に現れた」
話を聞くと、姫宮がカフェを出てしばらくしてから高瀬も仕事を終わらせて帰ろうとしていたらしい。店の前に待たせていた車に乗り込もうとしたとき、今井が高瀬に声をかけたのだという。
その内容とは、姫宮という不良が取り巻きに命じて高瀬の大事な弟二人を屋敷から拐い、身代金を高瀬グループに要求しようとしている、というもの。
高瀬も姫宮とは短いけれど付き合いがあったため最初は話を信じていなかったようだが、タイミングよく屋敷から電話があり双子がいない事を告げられ、更には今井から姫宮の過去と個人情報を聞かされて、姫宮に対する不信感が出てきてしまったのだそうだ。
人には裏と表があるんだぜ、と今井が意味ありげな言葉を残して消え、ちょうどそこへ姫宮が双子を連れて現れたので、驚愕で何も考えられず、ああいう事になってしまったのだという。
姫宮が消えたあと、由紀と那智から本当の事を聞いて、ようやく高瀬は誤解に気づき、姫宮を傷つけてしまった事に気づいたそうだ。
「貴様がそんな下らん事をしでかす筈がないと思っていたが、そう確信するにはあまりにも貴様との付き合いは短すぎてな」
悪かったな、と続けられた言葉に姫宮はぎゅっと拳を握りしめる。
謝るときまでも高瀬はふんぞり返って偉そうだ。
姫宮は高瀬を鋭く睨みつけて、襟元を掴み上げた。
「……あんたは付き合いがあったあたしよりもあの馬鹿の言うこと信用すんのか」
姫宮が傷ついたのは、ひどい言葉をぶつけられたからではない。
いや、確かにそれもあるけれど、付き合いがあったにも関わらず、高瀬が素性も知らない今井の言葉を信じた事だった。過去も個人情報も話していなかったけれど、姫宮という人間を見るのであれば、そんなものはいらないはずだ。
怒りを湛えた瞳の奥に明らかに傷ついた色をとらえて、高瀬は襟元を掴んでいる姫宮の手を外すと、爪で傷ついた手のひらにそっと唇を落とした。
「貴様の言うとおりだ。俺の言い分は全て言い訳にすぎない」
「…………っ」
「だが、これからは貴様の言うことは信用する。貴様は信用に値する人間だ」
高瀬の瞳が柔らかに細まった。冷たい青が暖かい深い色に染まっていく。
高瀬のような人の上に立って歩く人間が、姫宮の過去と個人情報を知ってなお、姫宮を信用すると言ってくれた。それは姫宮にとって最大の言葉で。
強く張りつめていた心が和らいだ。とたん、胸の奥から何かが溢れてくる。
じわりと滲む視界。
こぼれる涙。
俯こうとした姫宮の顔を両手で包んで、高瀬は涙をぬぐった。
「泣くな、姫宮」
初めて呼ばれた名前。
ようやく、認めてもらった。知らず姫宮の口元に柔らかい笑みができる。
はらはらと涙を流しながら、けれど心から溢れる衝動に抗わず微笑んだ姫宮を見て、高瀬はその唇に己の唇を重ねた。