僕の世界が変わった日 02
「姫宮ちゃん五番テーブルにこれ持ってって! それと一番テーブルのオーダーもね!」
「はーい、店長」
忙しいカフェで姫宮はしっかりと働いていた。仕事に慣れ、レジも任せてもらえるようになった。
勉強はめっきりだが仕事の覚えは早い姫宮に堀井は頬を緩ませる。明るくてざっくばらんな姫宮は常連客に受け入れてもらうのも早かった。空いている時間帯にはよく話しかけてもらっている。看板娘にしようか、などと堀井が考えていることなんて姫宮は全く気づかず、今日も一生懸命バイトに励んでいた。
カフェが閉店して後片付けを終えた姫宮は、休む間もなくもう一つのバイト先であるコンビニへ向かわなくてはならない。ロッカールームへ入って、カフェの制服である黒のエプロンと薄いピンクのカッターシャツ、グレイのプリーツスカートを手早く着替える。
今日はいつもより早く後片付けが終わったので、着替えたらコンビニの休憩室でおにぎりでも食べよう。そう決めて学校の制服である紺色のジャケットを羽織った。
教科書なんてほとんど入っていない薄っぺらな鞄を掴んで事務所へ挨拶に行く。
「お疲れ様でしたー、先アガりまーす」
軽く挨拶をすると、事務所に備えつけている応接用のソファに座っていた二人の男が顔を上げた。
正確には、姫宮の声に反応して顔を上げたのは店長である堀井だけ。もう一人はコーヒーを飲みながら書類に目を通していた。姫宮に視線をやることすらしない。
「お疲れさま姫宮ちゃん。ゆっくり、」
「用が無いならさっさと帰れ」
更には堀井の労いを遮って、この言葉。傍若無人な態度に姫宮の口元がひきつった。
ここ数日ですぐに高瀬の性格を知った姫宮だが、疲れている時に売られた喧嘩をかわす余裕は無い。すうっと目を細めて低い声で言葉を紡いだ。
「てめえが帰れっつーの、なんでここにいんのよ他の店へ去れこのハゲが」
「俺は禿げてなぞおらんと言っている。ここは俺の店だ、俺がいつ来て何をしようが貴様には関係のない事だろう。わかったら立ち去れ、負け犬のようにしっぽを丸めてな」
「あーら天下の高瀬グループの社長サマが人間にしっぽが生えてるっつーメルヘンな事言い出すたあ知らなかったわあ」
「物の喩えという言葉すら貴様の頭に入っていないとは驚きを通り越して感嘆する。今すぐにでも脳外科の病院へ行ってくるがいい。ついでに悪い頭を治してもらえ」
不穏な空気に挟まれて、堀井が笑顔を引きつらせながら冷や汗を滴らせる。
たぶん彼は彼なりに、姫宮が社長に向かって敬語を話さないことや、あろうことか文句を言い返していることを気にしているのだろう。
そこまで迷惑をかけたつもりはないけれど、堀井が可哀想なので今回も姫宮が折れてやることにした。
「うっさいな。あんたなんかに構ってる時間が惜しいわ。じゃ、お疲れっした」
高瀬が何かを言ってくる前に事務所の扉を閉める。そうでなければ不毛な言い合いは続いていただろう。仕事と高瀬の相手に疲れて大きなため息をついたあと、姫宮はカフェから出た。
暗い夜道を歩きながら、うん、と背筋を伸ばす。込み上げる欠伸に我慢しないで口を開けた。体が重い。さすがに、学校に通いながらのバイト生活はきつかった。
停学が開けてからの一日の睡眠時間を数えてみると、三時間にも満たない事に気づく。
それはそうだ、学校が終わればすぐ二十二時までカフェのバイト、その後には明け方五時までコンビニのバイトだ。それが終わったら家に帰って登校時間まで眠る。
学校に行ったら行ったで授業なんて聞かず爆睡だ。不足すぎる睡眠時間を学校で眠る事で補っていた。
元々睡眠時間は短い方だし、逆に長く眠ると体調を崩すくらいだが、さすがに辛い。けれど慣れるまでは調子が悪くなるのは仕方ないかなと姫宮は考える。彼女にはバイトを減らすという選択肢はない。
「あーあ。たまには……一日中ごろごろしてみたいな」
真っ暗な空を見上げてぽつりと呟いた。けして叶うはずもない、小さな望みを。
「ま、無理に決まってるけど」
諦めるように小さく笑う。よし、と気合いを入れて両手を握りしめた。
大丈夫、まだ頑張れる。
すっと前を向き、今からのバイトに気持ちを切り替えた。
ようやくコンビニに差し掛かるところで、姫宮は顔をしかめた。
馬鹿みたいな複数の笑い声と子どもの泣き声が聞こえる。バイト先であるコンビニの駐車場で、頭の悪そうな輩が何かを取り囲むように輪になっていた。
「離せよ! オレ達にこんなことして、ただじゃすまないぜ!?」
「ぎゃははは、ただじゃすまねえってガキがどーしてくれんだよ」
「おめーら金持ちだったら金出せよ、ほら。そしたら離してやるぜ?」
「う、うえ、怖いよなちぃ」
飛び交う言葉を聞きながら、姫宮は呆れてため息をついた。
もう本当、馬鹿が多い。小さな子どもを複数で囲んで脅してからかって。何が面白いのか。
持っていた薄い鞄を思いきり投げつける。輪になっていた輩の一人に当たって、全員が姫宮を見た。
「ってーな、何しやがる女ぁ!」
「あんだてめえ、やんのかコラ」
「あーだめだこいつ骨折れてるわ。金出せや」
呆れるような低俗の言葉を口にする男たちに、姫宮はにっこりと笑った。
「あっは、ごめんなさーい。この子達あたしの弟なんですー、面倒見ててくれたみたいでー、ありがとうございましたー!」
見る者を癒すような可愛らしい話し方をする杉原を真似て、きゃはっと明るく振る舞いつつ、姫宮はすばやく輪の中心にいた子ども二人の腕をとって背中に隠す。二人は何が起きたのかわからない様子で大きな瞳をぱちぱち瞬く。
涙を流す子どもの方に姫宮は制服のジャケットを脱いで着させてやった。泣かない強い子どもの方には優しく頭を撫でてやる。
「怖かったね。もう大丈夫よ」
もう一度二人の頭をがしがしと豪快に撫でて、姫宮は馬鹿共を見据えた。馬鹿共はゆらりと立ち上がって姫宮を睨みつけている。
「そいつらは金蔓だ、返せ女ぁ!」
姫宮の嘘に気づいた男たちは騒がしく吠えたてる。どうして気づいたのかは知らないが、よっぽどの馬鹿ではないようだ。唇を引き上げると、苛立った男一人が姫宮に殴りかかってきた。
「にやにやしてんじゃねえ、よっ!」
ぶん、と顔を目がけて飛んできた腕を余裕でかわし、反動でつんのめった男の腹部を蹴りあげた。ぐうと呻く男の足を払って地面に倒す。したたかに体を叩きつけた男が苦しんで仰向けになったところを、鳩尾を思いきり踏みつけた。男は声を発する間もなく、動かなくなる。その一部始終、しめて五秒もかかっていない。
「次は誰よ?」
姫宮はわざと挑発するように笑ってみせる。コンビニから漏れる光を受けて、腰よりも少し長い金の髪はさらさらと輝いた。反対に、闇に溶け込むような漆黒の瞳は獲物を求めるようにぎらぎら光る。
ふと思い出したように、男が叫んだ。
「お……おい、こいつ…………姫宮真琴だ!」
男の言葉で、馬鹿共は一瞬にして青ざめる。溢れていた士気が一気に散ってしまった。
中学時代暴れまくっていた姫宮は普通の人間だけではなく不良にまで有名だった。
姫宮に逢ったら目を合わせるな、口を開くな、一礼して逃げろ。自分の力に自信のないものには当たり前だったその言葉の意味が、本人を前にしてようやくわかった。
目が合った奴から噛み殺さんとばかりに牙をむく獰猛な野生の猛獣。それが相手では為す術がないのだ。
急に大人しくなった輩を見て姫宮が舌打ちをする。せっかくストレス発散できると思ったのに。その舌打ちにさえびくりと体を跳ねさせる馬鹿共に姫宮は口を開いた。
「次はない。いいね」
その言葉に、はいすんませんっした、と揃った野太い声が返ってくる。重なり合う声の気持ち悪さに顔をしかめながら、姫宮は顎をしゃくった。
「さっさと失せろバカ」
とたん蜂の子を散らすように、大慌てで逃げていく男たち。我先にと必死で逃げている情けない様子に、やっぱりぶちのめしとけばよかったと後悔した姫宮だった。