僕の世界が変わった日 01
「っあームカつくムカつくムカつく」
薄い雲が幾筋も浮ぶ青い空、眩しい朝日。
爽やかな朝の風景にもかかわらず、ほどよく整っている眉を深く深く寄せ、目を凶悪にぎらつかせてぶつぶつと文句を言い募るのは、本日より停学解禁になった姫宮真琴【ひめみやまこと】という名の少女だった。
入学早々、喧嘩を売ってきた馬鹿な男子生徒たちに制裁を加えたところ、教師に見つかり停学をくらってしまった。中学時代に悪い意味で名を馳せていた姫宮だが、不良を辞めた今になっても興味本位からか喧嘩を売ってくる馬鹿がいるので苛立ちが募っていたという、なんともタイミングの悪い時に喧嘩を売られてしまったからだ。
普通なら男子生徒たちが停学を受けるのだろうが、残念ながら姫宮によって全員全治二ヶ月程度の大怪我を負ってしまったので、姫宮が停学を受けるはめになった。更生のきっかけになった友人たちに散々怒られたため、喧嘩するときは学校の外でしようと改めて思う。
念願ではないが久しぶりの登校日、なのに姫宮は苛立ちを抑えきれない。もとから抑えるつもりもないけれど。
チッと舌打ちをしたら近くを歩いていた生徒数人が大袈裟にびくついて離れていった。それさえも姫宮の気分を降下させる。
「あーひめちゃんだあ、ひめちゃあん!」
校門の目の前で、後ろからのほほんとした声に引きとめられた。目をぎらつかせたまま振り返ると、そこにはふわふわのウェーブがかった淡い茶色の髪を揺らしながら姫宮へ走ってくる少女がいた。後ろからゆっくりとした足取りで、黒髪の少女が続く。
二人の姿を見て、姫宮の目が和らいだ。苛立ちが嘘のように消えていく。二人は更生のきっかけとなった姫宮の友人だ。
「ひめちゃんだあぁ、久しぶりぃ~!」
「うん久しぶり!」
ぽふっと姫宮に抱きついてきたのは杉原葵【すぎはらあおい】。姫宮が、肩よりも短く切りそろえられているふわふわの髪を優しく撫でてやると、杉原はふんわりと笑った。その笑顔が本当に嬉しそうで、姫宮もつられて笑った。
「久しぶりだな姫。少しくらい連絡してくれてもよかったんじゃないか?」
ようやく追いついてきたのは龍崎瑞基【りゅうざきみずき】。姫宮が最後に見たときよりも長くなった黒髪を耳にかけながら、安心したように笑う。
「またどうせバイトだろう? お前が大人しく家にいるはずないからな」
「あーあ、やっぱ瑞基には敵わないわね。まあ、お陰様で稼がせてもらったけどさー」
姫宮がふざけて笑うと龍崎は軽く肩をすくめた。ほどほどにな、と言われて苦笑いを返す。バイトをしなければいけない理由がある、だからほどほどにはできないけれど、龍崎の気遣いが嬉しかった。
そう考えたとき、また姫宮の眉間に皺が寄る。嫌なことを思い出した。
「ひめちゃんどーしたのお?」
抱きついているためいち早く姫宮の雰囲気が変わったことに気づいた杉原は、じっと顔をのぞきこむ。はああ、と大きなため息をこぼして、姫宮は重い口を開いた。
「実はさー……」
停学中にこれ幸いとあちらこちらでバイトに勤しんでいた姫宮は、停学が明けたあとのために昼間のバイトを辞め、夕方から夜までのバイトを探していた。ちょうど学校の近くにある可愛らしいカフェがバイトの募集をしていたので交渉してみると、よほど人手が足りていなかったのか、面接に行ったらその日のうちに仕事をさせてもらえた。
その日は夕方ということもあり、客足は伸びるばかり。ろくな説明を受ける時間はなかったけれど、ある程度のことは他の接客業と同じだったので、姫宮は自分の好きなように動いた。
他のスタッフを参考のためにちらちら横目で見ながら、注文を受け、厨房へ料理を頼み、料理を運ぶ。さすがにレジまではさせてもらえなかったけれど、上出来だったと思う。オーダーの聞き間違いで何度か失敗はしたけれど。
「やー、助かったわあ姫宮ちゃん! 見かけによらず経験豊富なのねえ」
「いえ、失敗ばかりですみません。すぐに慣れますんで」
二十二時の閉店時間を迎えて、ようやく一息。くねくね体を躍らせながら嬉しそうに声をかけてきたのは店長の堀井、話し方はアレだが性別は男だ。
褒められるのは嬉しいけれど今日の姫宮は確かに失敗も多かった。少しだけ落ち込んだ姫宮を見て、堀井は笑いながら首をふる。
「バイト初日にしては上出来よお。もちろん、明日からは今日の接客よりもっともっと上手くお願いしたいけどね」
ぱちんと気味の悪いウインクをもらって、姫宮は小さく笑う。気持ち悪いがいい人そうだ。
掃除が終わったら上がっていいから、と告げて去っていった堀井の言葉に姫宮は頷く。
次の日からはカフェのバイトが終わるとすぐに深夜のコンビニのバイトを入れている。掃除をして退勤できる時間と、コンビニまでの移動時間を調べてみなければ。
そんなことを考えていると、突然高らかな靴音が近づいてきた。堀井が慌てたように戻ってくる。
「社長がお見えになったわ! 早くみんな整列して!」
状況がよくわからないまま堀井に呼ばれて整列をする。カウンターを正面にして横一列。姫宮はスタッフの一番最後に並んだ。斜め前にいる堀井の顔を見ると、堀井は緊張した面持ちで口を真一文字に結んでいる。
そんなに社長は怖いのだろうか。浮かんだ疑問は、社長が出てきた瞬間に解消された。
かつかつと靴音を響かせながら店内へ入ってきたのは、若い男。栗色の髪を無造作に後ろへ撫でつけて、長い前髪の奥に見える深い青の瞳は冷たく光る。背が高く、きっちりとグレーのスーツを着こなした男は、俗にいう男前だった。
これが社長。意外と若い。年は姫宮よりも二つほど上のようだとなんとなく思った。
社長はぐるりと店内を見渡し、眉をひそめた。顔色を伺っていた堀井の体がびくりと跳ねる。
「……閉店してから十五分か。貴様ら掃除もせずに何をやっていた」
「も、申し訳ありません社長! 今日は忙しかったものですから、みんなで少し休憩を……」
堀井の必死の言葉に、男は冷たく鼻で笑う。
「ふん。休憩を挟んで終業時間を延ばし、給料を少しでも増やそうとでも考えているのではないのか?」
嘲るように笑われて、堀井が口を閉じる。堀井はただ、スタッフを気遣っての事だったのに。それがわかっているからこそ、姫宮は黙っていることが出来なかった。
「ちょっとあんた、いくらなんでも言いすぎよ」
驚いたように視線が集まる中、姫宮はわざと大きなため息をついて男を見据えた。
「今日は本当に忙しかったの。普段の営業は知らないけど、人手が少ない中で休憩もなしに走り回って疲れてるスタッフに対して、閉店してからも休憩挟まずにすぐ作業ってひどすぎんじゃない? 労働基準法に違反してんじゃないの? それとも、これがこの店の――高瀬グループのやり方ってわけ?」
姫宮の言葉を男は黙って聞いていた。言い終わって、姫宮は内心ため息をつく。
あーあ、言っちゃった。ここの店楽しかったのに、首切られるだろうな。でも、後悔はしていない。
このカフェを経営している高瀬グループの社長――高瀬はかつかつと姫宮の前へ歩いてきた。目の前に立たれて、上目で睨みつける。すると高瀬は姫宮の顎に指をかけて無理やり上を向かせた。
「新しく入ったバイトか」
「どーも、姫宮っす。よろしく」
「ふん……顔はまあまあか。威勢はいいようだ、せいぜい尽くせよ野良猫」
無理やり下を向こうと力を入れるが、びくともしない。高瀬は平然と姫宮を上に向かせたまま品定めするように見つめる。屈辱的な行為に苛立って言葉が棒読みになるのは仕方が無いだろう。
しかし最後に言われた単語に姫宮はぴしりと固まった。
その反応に小さく口元を引き上げた高瀬は姫宮から手を離し、踵を返す。成り行きを見守っていた堀井が慌てて高瀬の後に続いた。入ってきた時と同じように靴音を高らかに響かせて出て行く高瀬。とたん、姫宮はスタッフに囲まれる。
「大丈夫、姫宮さん!」
「社長怖かったねーカッコいいけど。姫宮さんもよくあんなこと言えたわね」
「姫宮さん?」
声をかけても一向に反応しない姫宮。肩を叩かれてようやく発した言葉は。
「…………だ……」
「え?」
「誰が野良猫だあのバカ社長!!」
「っつーわけよ! もーほんっとムカつくと思わない!?」
腹が立ちすぎて昨日はなかなか眠れなかった。戻ってきた堀井から解雇にならずに済んだと聞かされて少し疑問に思ったが、安心したのは事実。
けれど、せっかくの停学明けだ、姫宮としてもこんな気分で登校したくなかった。二人に話したらまた苛立ちが甦ってきて、どうしようもない怒りにぎりっと歯を噛み締める。
「あっは、ひめちゃん大変だねえ~いい子いい子!」
よしよしと杉原は背伸びをして姫宮の頭を撫でる。可愛らしいしぐさと笑顔にたまらなくなって、姫宮は目の前の体を抱きしめた。杉原は嬉しそうに笑っている。
隣に目をやると、龍崎は何かを思い出すように宙を見つめていた。杉原と目を合わせて二人で首を傾げる。すると龍崎はぽんと手を叩いた。
「ああ、思い出した。奴は、」
龍崎の声を遮るように、後ろからどよめきが起こった。不良と恐れられている姫宮の停学が解けている事でざわついているのだろうか、と三人で振り返ると、予想に反してそこには一台の車が止まっていた。
黒塗りの高級車だ。車の助手席からいかにもボディーガードというような黒いスーツを着た屈強そうな男が降りてきて、後席のドアを開ける。そこから出てきたのは、姫宮の苛立ちの原因である高瀬だった。
「あーーー!!!」
その姿を目にした瞬間、姫宮が叫ぶ。抱きついていた杉原は驚いて龍崎の隣へ避難した。
姫宮の甲高い声につられて高瀬が三人へ目をうつす。訝しげにひそめられていた眉は、姫宮の姿をとらえると面白いものでも見つけたかのようにぴくりと跳ねた。
「何だ貴様か、野良猫」
「っ、誰が野良猫だバカ社長が! 昨日は言い逃げしやがって、何でこんなとこいんのよ!?」
昨日から続く怒りが更に高まり、今にも高瀬に掴みかかる勢いで姫宮は喚き散らす。いきなり現れた敵の出現の謎を解くべく問いつめると、高瀬は不遜な態度で腕を組んだ。
「馬鹿な野良猫だな、頭を使うことを知らんようだ。ここにいるのは俺がここの生徒だからだろう」
「誰がバカな野良猫だこのハゲ! つーかあんた高校卒業してんじゃないの!?」
「誰から何を聞いたか知らんが想像でわめくな。俺は十六だ。禿げてなぞおらん」
「じゅうろくっ!? あたしと同い年なの、その顔で!?」
「喧しい。にゃあにゃあわめくことしか知らんのか」
「うっさい、人を野良猫扱いすんなっつーの!!」
「ふん、魚でも恵んでやろうか薄汚い野良猫が」
「もーキレた完璧キレた、ぶち殺す!!」
我慢強い方ではない姫宮がついに高瀬へ走り出す。けれど姫宮の行動を予測していた親友二人に両腕が捕まって高瀬をぶち殺す事は叶わなかった。さすがの姫宮といえど、親友の手を乱暴に振り払う事なんてできない。
情けなく眉をハの字にたらし哀願するが、離してもらえない。龍崎に首を振られ、杉原に我慢だよと頭を撫でられてしまえば、従うしかなかった。
「……っ、今日のところは二人に免じて引き下がってやる。次に野良猫呼ばわりしたときはホントにぶち殺すからね!」
悔しさが滲み出ている姫宮の言葉を高瀬はあっけなく鼻で笑った。できるものならなハハハハ、と高らかに笑った高瀬は勝者きどりで校舎へと歩いていく。ぎりぎりと歯ぎしりしながら後ろ姿を見送る姫宮は、言うなれば負け犬のそれだ。
本当にいつかぶち殺す、ただ殺すだけじゃ面白くない、いつか必ず高瀬を屈辱のどん底に突き落としてやると姫宮は決意を新たにした。
姫宮はまだ気づいていない。教室に行けば隣の席にはなぜか高瀬が座っているという事も、バイトで嫌でも毎日顔を合わせるという事も。それに気づくのは、あとちょっと。