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海の底の街

作者: ponto
掲載日:2026/10/01

第一章 いつもの朝


目覚ましが鳴った。


午前七時。


湊は布団の中でしばらく目を開けたまま、天井を眺めていた。


朝なのに、空は夜とほとんど変わらない。


遠くにはマンションの明かりが並び、その間を道路が走っている。街灯は一晩中ついたままで、コンビニの看板も明るく光っていた。


海の底に作られた街。


太陽の光が届かないから、街にはたくさんの明かりがある。


湊は制服に着替え、リビングへ向かった。


「おはよう」


「おはよう。今日は早いじゃん」


「いつも七時だよ」


「そうだっけ」


「そうだよ」


テーブルにはトーストと目玉焼き、それから小さなサラダが置いてある。


湊は椅子に座って、テレビをつけた。


『本日の深海市は一日を通して晴れの予報です。気温は――』


この街では、天気予報で「晴れ」と言われても、空が明るくなるわけではない。


「今日、帰り遅くなる?」


「たぶん普通。寄り道するかも」


「また散歩?」


「うん」


「好きだねえ」


「別に」


散歩が好きなのは、特別な理由があるわけじゃない。


駅から家まで、いつも同じ道を通る必要もない。


一本隣の道を歩くだけで、知らない店が見つかることがある。


「じゃあ、行ってきます」


「いってらっしゃい」


湊はイヤホンをつけて歩き始めた。


湊は駅の階段を上った。


「水城、おはよ」


「おはよ」


同じクラスの男子に声をかけられ、湊は軽く手を上げる。


「昨日の課題やった?」


「一応」


「見せて」


「自分でやれよ」


「冷た」


「写すだけなら意味ないだろ」


「それはそう」


それでも湊は、なんとなく外を眺めていた。


しばらくすると、学校の最寄り駅に着いた。


「じゃ、また」


「また」


友達と別れ、湊は一人で学校へ向かった。


「今日部活どうする?」


「今日はない」


「じゃあ遊び行こうぜ」


「今日はいいや」


「また散歩?」


「たぶん」


「よく飽きないな」


「飽きないから」


「まあ、お前っぽいわ」


最後のチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に軽くなった。


「じゃあな」


「また明日」


「うん」


駅へ向かう道を少し歩いたところで、湊は足を止めた。


時計を見なければ、昼なのか夜なのか分からない。


店の明かりはいつも同じようについている。


駅から少し離れたところにある、小さな喫茶店。


湊は扉を開けた。


「いらっしゃい」


「こんにちは」


湊はいつもの窓際の席に座った。


「いつもの?」


「うん」


「了解」


「ありがとう」


湊は窓の外を眺めながら、ゆっくり飲み物を飲んだ。


そして、たぶんまたどこかを歩く。


そんなことを考えながら、湊はいつもの道を帰っていった。



第二章 いつも帰り道


翌朝も、目覚ましは七時に鳴った。


湊は昨日と同じように布団から起き上がり、カーテンを開けた。


「おはよう」


「おはよう。眠そうだね」


「ちょっとだけ」


「昨日遅かった?」


「普通」


毎日同じようなことを繰り返していると、時間が早く過ぎていく。


けれど、同じ一日の中にも少しずつ違うところがある。


そういう小さな違いを見つけるのが、湊は嫌いではなかった。


「水城、今日どうする?」


「帰る」


「また散歩?」


「たぶん」


「ほんと好きだな」


普段は駅へ向かうために、そのまま真っ直ぐ歩いている。


湊は少し考えてから、右へ曲がった。


駅から少し離れるだけで、街の雰囲気は変わる。


湊は歩きながら、店の名前を眺めたり、道路の脇にある古い看板を見たりした。


しばらくすると、小さな公園が見えてきた。


子どもが遊ぶには少し物足りないくらいの公園だった。


「いらっしゃい」


「こんにちは」


湊はいつもの窓際の席へ向かった。


窓の外を見ながら、本を読んでいる女の子。


「いつもの?」


「うん」


飲み物を待ちながら、湊は本を開いた。


しばらくすると、向かいの席から椅子を引く音がした。


女の子は店の前で少し立ち止まり、それから歩き始めた。


外に出ると、少し先にさっきの女の子が歩いていた。


湊はその後ろを歩く形になった。


「あ」


「……同じ学校だよね?」


「うん」


「やっぱり。見たことある気がしてた」


「俺も」


「何年?」


「一年」


「じゃあ同じだ」


「私も一年」


「そうなんだ」


特に話すこともなく、二人は少しの間並んで歩いた。


「この辺、よく来るの?」


「たまに」


「私も。散歩するの好きだから」


「散歩?」


「うん。目的地決めないで歩くの」


「……俺も」


「ほんと?」


「うん」


「じゃあ、同じだね」


「じゃあ、また学校で」


「うん」


「またね、」


「……また」


湊もしばらくその背中を見てから、反対方向へ歩き始めた。


きっと明日も、今日と同じような一日になる。


湊はそう思いながら、家のドアを開けた。



第三章 街を歩く


放課後。


湊は校門を出ると、駅とは反対の道へ歩き始めた。


ただ、今日は少しだけ遠くまで行ってみようと思った。


家から学校までの道も、駅までの道も、よく知っている。


けれど、街の全部を知っているわけではない。


湊は大通りを歩きながら、周りを眺めた。


道路には車が走り、少し離れた高架の上を電車が通っていく。


街の建物には、いろいろな店が入っている。


少し古い建物の二階には、小さな美容室もあった。


ただ一つ違うのは、空だった。


見上げても、青空はない。


朝も昼も夕方も、街の上には暗い青色が広がっている。


その向こう側には、海がある。


街の外側に設置された巨大な観測窓からは、海の中を見ることができる。


湊は子どもの頃から何度も見てきた。


海の底に暮らしているのだから、海を見ること自体は珍しくない。


それでも、街の中から海を見るのは嫌いではなかった。


今日は少し遠回りして、中央街の方へ行ってみることにした。


駅前とは違い、こちらには古い建物が多い。


昔ながらの本屋。


新しい建物の隣に、古い建物がそのまま残っている。


特に欲しいものはなかったが、何冊か手に取って眺める。


その奥には、街の外側へ続く大きなガラス張りの施設があった。


海を見るための展望施設だ。


窓の向こうには、暗い海が広がっている。


街の明かりが海の中にぼんやりと反射していた。


「きれい……」


しばらく何も考えず、海を眺める。


こうして見ると、この街が海の底にあるということを少しだけ実感する。


駅を使って、コンビニに寄って、家へ帰る。


海の底にあることも、いつもの生活の一部だった。


「あ」


昨日、喫茶店で会った女の子が立っていた。


「あの……昨日の」


「うん」


「また会ったね」


「そうだね」


彼女は海の方を見た。


「ここ、よく来るの?」


「いや、今日は初めて」


「私も久しぶり」


何を話せばいいのか、まだよく分からない。


「この辺、よく歩くの?」


「たまに。今日は知らない道を歩いてた」


「私もそういうの好き」


「昨日も言ってたね」


「覚えてたんだ」


「うん」


「じゃあ、やっぱり似てるかもね」


「そうかも」


「そういえば」


「まだ名前知らないよね」


「ああ」


「水城湊」


「水城くんね」


「うん」


「私は雨宮灯」


「雨宮さん」


「灯でいいよ」


「……うん」


けれど、すぐに名前で呼べるわけではなかった。


急に名前で呼ぶのは、なんとなく気恥ずかしい。


「水城くんは、この街のどこが好き?」


「どこだろう」


「ないの?」


「うーん……」


湊は展望施設の方を振り返った。


「こういうところ」


「海?」


「うん」


「私も好き」


二人はしばらく海を眺めた。


「じゃあ、また学校で」


「うん」


「またね、水城くん」


「またね、雨宮さん」


帰り道、湊は今日歩いた街を思い返していた。


住んでいる街なのに、知らない場所がまだたくさんある。


そんなことを考えながら、湊は家へ向かった。


海の底の街は、今日もいつも通り暗かった。


そして、その暗い街の中には、まだ湊の知らない場所がいくつも残っていた。



第四章 知らない道


朝のホームには、いつもと同じように人が並んでいた。


湊は電車を待ちながら、ぼんやりと線路の先を見ていた。


やがて車両がホームへ滑り込み、ドアが開いた。


湊はいつもの車両に乗り込んだ。


朝だというのに、空は暗い。


この街では、明るさだけが一日の基準ではない。


「おはよう、水城」


「おはよう」


校庭の向こうにも、暗い空が広がっている。


しばらくすると、教室の前の扉が開いた。


「おはよう」


雨宮さんは友達と少し話したあと、自分の席へ向かった。


「おはよう、水城くん」


「おはよう、雨宮さん」


でも、昨日まではなかったやり取りだった。


湊は少しだけ不思議な気分になった。


ただ、自分から話しかけることはあまりない。


だから、こうやって自然に挨拶する相手が増えるのは、少し珍しかった。


湊が弁当を食べていると、クラスメイトが話しかけてきた。


「水城ってさ、放課後いつも何してんの?」


「散歩」


「また?」


「また」


「何が楽しいの?」


「歩くのが」


「分からん」


「一人で歩いて何してんの?」


「いろいろ見てる」


「何を見るんだよ」


「店とか、建物とか」


「地味だな」


「そうかも」


そのとき、少し離れたところから声が聞こえた。


「私も散歩好きだけど」


「雨宮も?」


「うん」


「水城と一緒じゃん」


そう言われて、湊は少しだけ雨宮さんを見る。


「昨日も一緒に歩いてたしね」


「そうなの?」


「途中までだけ」


けれど、湊はなんとなく覚えていた。


――そういえば、昨日も一緒に歩いたんだ。


「水城くん」


「今日も散歩?」


「うん。そのつもり」


「じゃあ、少し一緒に歩かない?」


「いいよ」


「やった」


「今日はどっち行く?」


「雨宮さんは?」


「私はこっち」


「この先に市場があるの知ってる?」


「市場?」


「海底市場。行ったことない?」


「ない」


「じゃあ行ってみよう」


学校から少し離れると、住宅街が増えてくる。


さらに進むと、建物の間から大きな看板が見えた。


海底市場。


海藻を使った食品を売る店。


「こんなところあったんだ」


「私もたまに来るだけ」


「知らなかった」


「この街、こういう場所いっぱいあるよ」


「そうなんだ」


「今日のおすすめ、安いよ!」


仕事帰りらしい人が買い物袋を持って歩いている。


湊は一軒の店の前で足を止めた。


「これ何?」


ガラスケースの中に、小さな焼き菓子が並んでいる。


「知らない」


「雨宮さんでも知らないんだ」


「なんでも知ってるわけじゃないよ」


店員に聞いてみると、海藻を練り込んだ焼き菓子らしい。


「食べてみる?」


「うん」


「……普通においしい」


「普通なんだ」


「いや、おいしい」


「ならよかった」


「私は結構好き」


「また来たら買えばいいじゃん」


「じゃあ、また来ようかな」


そう言って、雨宮さんは店の看板を振り返った。


「こっち行ってみる?」


「いいよ」


それでも、何軒かの店は今も営業している。


「こういうところ好き」


「古いところ?」


「うん。昔から残ってる感じがするから」


「俺も嫌いじゃない」


「水城くんって、こういうところ一人でも来そう」


「来るかも」


「やっぱり」


それぞれが気になったものを見つけると立ち止まり、また歩く。


湊一人で歩くときとは少し違う。


自分なら通り過ぎるような店でも、雨宮さんが立ち止まる。


雨宮さんが気づかなかったものを、湊が見つけることもある。


「ねえ、水城くん」


「なに?」


「この辺、まだ知らないところいっぱいあるね」


「うん」


「今度また来ようよ」


「いいよ」


「じゃあ決まり」


しばらく歩いて、二人は大きな交差点まで戻ってきた。


「今日はありがとう」


「こっちこそ」


「楽しかった」


「うん」


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日、雨宮さん」


「またね、水城くん」


この街に住んでいるのに、まだ知らない場所がこんなにある。


家に着く頃には、外はいつも通り暗かった。


「ただいま」


「おかえり」


湊はそんなことを考えながら、自分の部屋へ向かった。


海の底の街には、まだ知らない道がたくさんある。


湊はまだ、その全部を歩いたことがなかった。



第五章 いつもの場所


朝。


水城湊は、いつも通りの時間に目を覚ました。


窓の向こうには、暗い海が広がっている。


遠くを魚の群れが横切り、その向こうでは街の明かりが小さく揺れていた。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


駅までの道を歩きながら、昨日のことを思い出した。


海底市場。


昨日までは一人で歩くことが多かった道を、誰かと歩く。


それだけのことなのに、少し違って感じた。


「おはよう、水城くん」


「おはよう、雨宮さん」


「眠そう」


「そう?」


「ちょっとだけ」


「昨日歩きすぎたかも」


「ああ、それは私も」


市場から商店街へ行き、そこから駅の近くまで戻ってきた。


けれど、普段一人で歩くよりも、ずっと早く時間が過ぎた気がした。


「今日も歩く?」


「たぶん」


「そっか」


雨宮さんはそれだけ言って、自分の席へ戻っていった。


駅へ向かう道の途中で、少しだけ足を止めた。


そう考えたとき、昨日の市場が頭に浮かんだ。


そう思って歩いていると、後ろから声がした。


「水城くん」


「雨宮さん」


「今からカフェ?」


「うん」


「私も」


駅から少し離れたところにある、小さなカフェ。


けれど、木製の扉と小さな窓があって、窓の中から暖かい明かりが漏れている。


湊が扉を開ける。


「いらっしゃい」


「あ、水城くん。今日は二人?」


「うん」


「こんにちは」


「こんにちは。雨宮さんもいつもの?」


「お願いします」


湊にとっては、いつもの席だった。


雨宮さんも、何度かここに来ている。


「今日は何にする?」


「いつもの」


「私も」


しばらくすると、飲み物と小さな焼き菓子が運ばれてきた。


外を歩く人の声が、ガラス越しに小さく聞こえる。


「やっぱりここ落ち着くね」


「うん」


「水城くん、ここ長いの?」


「結構前から」


「私も」


「そうなんだ」


「中学の頃から来てた」


「俺もそのくらい」


「じゃあ、もしかしたら昔からここにいたのかもね」


「そうかも」


それなのに、お互いの存在を知ったのは最近だった。


「この店って、結構古いよね」


「うん」


「昔からあるのかな」


「どうだろう」


今まで何度も来ていたのに、ちゃんと見たことはなかった。


「……あれ」


「写真?」


「うん」


そこには、少し色あせた写真が何枚も並んでいた。


昔の駅。


「これ、今と全然違う」


写真の中には、今では見慣れない建物が並んでいた。


今の中央通りには大きな商業施設が建っている。


けれど写真の中では、低い建物と小さな店が並んでいる。


「これ、いつ頃の写真ですか?」


「ああ、それ?」


「かなり前だね。三十年くらい前かな」


「そんなに前なんだ」


「この辺りも、昔は今と全然違ったからね」


「駅も今とは場所が違ったし、商店街ももっと広かったんだよ」


「駅も?」


「そう。昔の中央駅は、今の駅より少し離れたところにあったんだ」


「へえ……」


確かに、今の駅とは違う建物が写っている。


「じゃあ、この写真の場所って今どこですか?」


「今でいうと、中央区画のあたりかな」


「今は大きな建物が建ってるところ」


「ここ?」


「そうそう」


けれど、そこに昔は別の街があったことなんて考えたこともなかった。


「昔の街って、結構残ってるんですか?」


「建物はだいぶ変わったけどね。道とか、地下の古い設備なんかは残ってるところもあるよ」


「地下の設備?」


「昔の街を作ったときのものだね。使われなくなったものも多いけど」


店員はそう言って、別の写真を見せてくれた。


その奥に、駅の入口のような建物が写っている。


「これが昔の駅?」


「そう」


「今は?」


「もう使われてないよ」


「なくなったんですか?」


「駅そのものはなくなったけど、地下の構造が一部残ってるって話は聞いたことがあるね」


雨宮さんが写真をじっと見つめる。


「なんか、行ってみたくなるね」


「雨宮さん、そういうの好きそう」


「水城くんもでしょ?」


「まあ……」


「気になるなら、昼間に昔の商店街を見て回るといいよ。まだ古い建物が残ってるから」


「行ってみようかな」


「今度、一緒に行く?」


「うん」


席へ戻ると、さっきまでと同じカフェなのに、少しだけ違って見えた。


全部、今まで何気なく見ていたものだった。


それからしばらく、二人は街の昔について話した。


「昔の人って、どんな生活してたんだろうね」


「今とそんなに変わらないんじゃない?」


「でも、今より小さい街だったんでしょ?」


「そうみたい」


「じゃあ、もっと歩きやすかったのかな」


「どうだろう」


「昔の地図とか見てみたい」


「図書館にありそう」


「じゃあ今度行こう」


「うん」


さっき写真で見た昔の街が、今の街のどこにあったのか。


「あの辺かな」


「たぶん」


「でも、今は全然違うね」


「うん」


今の街は、写真の中とはまるで違っていた。


それでも、道の形や交差点の位置には、少しだけ昔の面影が残っている。


「街って面白いね」


「何が?」


「同じ場所なのに、時間が変わると全然違う場所みたいになる」


「……確かに」


「じゃあ、また明日」


「うん」


「昔の街、調べてみようね」


「図書館?」


「そう」


「分かった」


「またね、水城くん」


「またね、雨宮さん」


新しい建物ができて、古い建物がなくなる。


人が入れ替わって、道の景色も変わっていく。


そんな当たり前のことを、湊は今日初めて少しだけ意識した。


「ただいま」


「おかえり」


――昔の街を、もっと見てみたい。


明日は図書館に行ってみよう。


そう決めて、湊はカーテンを閉めた。


窓の向こうでは、今日も海が静かに広がっていた。



第六章 昔の地図


翌朝。


湊はいつもより少し早く目を覚ました。


いつものように、暗い海が窓の向こうに広がっている。


その間を魚の群れがゆっくりと泳いでいる。


湊はしばらく窓の外を眺めていた。


昔の商店街。


昔の駅。


昔の街がどんな場所だったのか。


昔の駅はどこにあったのか。


いつも通っている道なのに、昨日までとは少し違って見えた。


この道も、昔からここにあったのだろうか。


そんなことを考えながら歩いていると、駅の入口が見えてきた。


けれど、その景色にも昔がある。


「おはよう、水城くん」


教室に入ると、雨宮さんがいた。


「おはよう、雨宮さん」


「昨日のこと覚えてる?」


「昔の街?」


「そう」


雨宮さんは自分の鞄から小さなノートを出した。


「昨日、家に帰ってからちょっと調べてみた」


「調べたの?」


「気になったから」


ノートには、昨日カフェで見た写真のことが簡単に書かれていた。


「すごい」


「そこまでじゃないよ」


「それで、昔の地図が図書館にあるらしいの」


「図書館?」


「うん。郷土資料のところ」


「今日行ってみる?」


「行こう」


「楽しそうだね」


「こういうの好きだから」


「知ってた」


「ひどい」


けれど湊は、放課後のことを少しだけ楽しみにしていた。


二人は学校を出て、街の図書館へ向かった。


図書館は駅から少し離れた場所にある。


大きな建物で、正面には広い階段がある。


中へ入ると、静かな空気に変わった。


遠くから聞こえる空調の音。


「郷土資料ってどこかな」


「こっちじゃない?」


昔の街並み。


古地図。


「いっぱいあるね」


「何から見る?」


「地図」


「やっぱり?」


「昨日から気になってたから」


表紙には、この街の昔の名前や年代が書かれている。


「これ、古地図って書いてある」


「見てみよう」


そこには、今とは違う街の地図が載っていた。


「……全然違う」


現在の街には大きな道路がいくつも通っている。


けれど昔の地図には、細い道が複雑に並んでいる。


「中央駅、ここじゃないんだ」


雨宮さんが地図を指差す。


「今より少し西?」


「そうみたい」


湊は現在の地図をスマートフォンで確認する。


昔の駅があった場所を現在の地図に重ねてみる。


「今だと……この辺かな」


「何がある?」


「大きい道路」


「じゃあ、もう何も残ってないのかな」


「たぶん」


昔の駅について書かれた本を見つける。


「これだ」


海底第一駅。


「海底第一駅……」


「昔の駅って、こういう名前なんだね」


「今の中央駅より前にあった駅らしい」


資料を読むと、その駅はかなり長い間使われていたらしい。


街が大きくなるにつれて路線が変更され、新しい中央駅が作られた。


それに伴って、海底第一駅は役目を終えた。


「なるほど」


駅の周りには、たくさんの店が並んでいる。


「ここ、昔は人がいっぱい住んでたんだね」


「うん」


「今は道路か……」


湊は少し不思議な気分になった。


人が暮らしていた場所がなくなり、その上に新しい街が作られている。


けれど、実際に昔の写真を見ると、その変化が少し身近に感じられた。


「ねえ」


「ここ見て」


そこには、昔の路線図が載っていた。


今では使われていない路線も描かれていた。


「この線、今はないんだ」


「うん」


「どこに行く線だったんだろう」


「昔の駅をつないでたんじゃない?」


路線図の端には、いくつかの小さな駅名が並んでいた。


今では聞いたことのない名前ばかりだった。


「こんな駅あったんだ」


「知らなかった」


さらに昔の写真が出てきた。


今と似た場所が、少し違った姿で写っている。


「この市場、今の海底市場じゃない?」


「たぶん」


「昔からあるんだ」


「すごいね」


それでも、街の一部はちゃんと残っている。


昔の街と今の街。


まったく別のものではなく、つながっている。


しばらくして、図書館の閉館時間が近づいてきた。


「そろそろ帰らないと」


「うん」


図書館を出る。


「昔の駅、行ってみたいね」


「海底第一駅?」


「うん」


「今は何もないんじゃない?」


「それでも見てみたい」


昔の写真に写っていた駅。


「じゃあ、今度行ってみよう」


「ほんと?」


「うん」


「約束ね」


「分かった」


ここにも、昔は別の建物があったのだろうか。


今歩いている道路も、昔は違う道だったのだろうか。


そう考えると、街を見るのが少し面白くなった。


「水城くん」


「ん?」


「何考えてるの?」


「昔のこと」


「私も」


湊の中に、新しい場所ができていた。


昔、そこに駅があった場所。


海底第一駅。


今度は、そこへ行ってみよう。


そう思いながら、湊は暗い街の中を歩いていった。



第七章 昔の駅跡


放課後。


教室の時計が四時を少し過ぎたところで、帰りのホームルームが終わった。


湊は鞄に教科書をしまいながら、窓の外を見た。


窓の向こうには、いつものように青黒い海が広がっている。遠くには建物の明かりがいくつも浮かんでいて、その間を小さな魚の群れが通り過ぎていった。


「水城くん」


振り返ると、雨宮さんが立っていた。


「今日、行く?」


「……駅跡?」


「うん」


昨日、図書館で見つけた古い地図。


そこに書かれていた、昔の駅。


海底第一駅。


今では使われていないその駅が、現在の街のどこにあったのか。


二人は昨日のうちに、だいたいの場所を調べていた。


「行ってみようか」


「うん」


学校から駅跡までは、それほど遠くなかった。


普段使っている中央通りをしばらく歩き、途中で一本細い道に入る。


住宅街を抜けると、少しずつ人通りが減っていく。


「この辺だと思う」


雨宮さんがスマートフォンの地図を見る。


「昔の地図だと、もう少し先」


「今の地図には何も書いてないね」


「うん。駅があったことも載ってない」


大きな道路の横に、古い建物がいくつか並んでいる。


その向こうには、周りより少しだけ低くなった空き地があった。


「……ここ?」


「たぶん」


「駅には見えないね」


「全然」


二人は空き地の中へ入った。


舗装された場所の端には、雑草が少し生えている。


古い建物の壁には、昔の店の看板が残っていた。


ただの空き地だった。


「昔はここに駅があったんだよね」


「地図ではそうなってる」


「信じられないな」


現在の街と、昔の地図。


二つを重ね合わせるように頭の中で考えてみる。


図書館で見た地図に描かれていた線。


確かに、この辺りで間違いなさそうだった。


「……あ」


「どうしたの?」


「これじゃない?」


彼女が指差した先に、小さな金属板があった。


『海底第一駅跡』


「……本当にあったんだ」


「うん」


雨宮さんは金属板をしばらく眺めていた。


「なんか、不思議」


「何が?」


「昔はここに駅があって、たくさんの人が使ってたんでしょ」


「そうだね」


「でも今は、誰も駅だったことなんて気にしてない」


湊はもう一度空き地を見る。


ここに駅があったことを知らなければ、ただの空き地にしか見えない。


街には、こういう場所がいくつもあるのかもしれない。


今は何でもない場所でも、昔は誰かにとって大切な場所だった。


「……街って、結構変わるんだね」


「うん」


「だから昔の地図を見るの、ちょっと面白いのかも」


「そうかも」


すると、空き地の端に古い階段があることに気づいた。


コンクリートでできた、幅の狭い階段。


その先には古い扉があった。


「これ……」


扉には、古い注意書きが貼られている。


文字はところどころ剥がれていて、全部を読むことはできない。


『関係者以外――』


「地下?」


「たぶん」


「昔の駅の?」


「分からない」


湊は図書館で見た地図を思い出した。


確かに、古い駅の近くには地下通路のようなものが描かれていた。


「地図にも、ここら辺に何か書いてあった」


「じゃあ、駅の地下なのかな」


「かもしれない」


二人は階段を見下ろした。


扉の向こうがどうなっているのかは分からない。


「今日はやめとく?」


「うん。もう結構時間経ってるし」


「じゃあ、また来よう」


「そうだね」


二人は階段から離れた。


帰り道、雨宮さんは何度か振り返っていた。


古い階段は、街の景色の中に静かに残っていた。


ただの古い階段。


「じゃあ、また明日」


「うん」


「またね、水城くん」


「またね、雨宮さん」


湊は歩きながら、今日見つけたものを思い出していた。


昔の駅。


古い地図。


そして、地下へ続いていた階段。


知らなかった街を一つ知るだけで、いつもの帰り道が少し違って見える。


そんなことを考えながら、湊はいつもの道を歩いて帰った。



第八章 消えた明り


朝。


湊が教室に入ると、窓際の席で雨宮さんが外を見ていた。


「おはよう、水城くん」


「おはよう、雨宮さん」


湊は自分の席に鞄を置き、椅子に座った。


昨日見つけた古い階段のことが、ふと頭に浮かんだ。


海底第一駅跡。


何もない空き地。


その端に残っていた、地下へ続く階段。


「そういえば」


「昨日の階段、結局なんだったんだろうね」


「うん」


「地図にも地下通路みたいなの書いてあったよね」


「書いてあった」


「ちょっと気になる」


「……俺も」


ただ、昨日見つけたものが少し気になっている。


大通りには学校帰りの生徒が多く、店の明かりが道路を照らしている。


地下都市の外には、今日も深い海が広がっている。


大きな窓の向こうを魚が泳ぎ、遠くの建物にはたくさんの明かりが灯っていた。


湊はそんな街を眺めながら歩いていた。


「……え?」


さっきまで明るかった通りが、一瞬で暗くなった。


「停電?」


「え、なに?」


「ちょっと待って、スマホ……」


停電しているのは、この辺りだけらしい。


昨日、二人で訪れた海底第一駅跡の近くだった。


「……この辺だけ?」


停電は長く続かなかった。


一分もしないうちに、街灯が一つ、また一つと点いた。


「すぐ戻ったね」


「なんだったんだろ」


街は、何事もなかったように動き続けていた。


湊の頭には、昨日見た空き地が残っていた。


朝食を食べながら、湊はテレビを見ていた。


画面には、昨日の停電についてのニュースが映っている。


『昨日夕方、旧市街地区の一部で一時的な停電が発生しました』


「昨日のやつね」


「うん」


『停電は数分で復旧し、現在、生活への影響はありません。原因については現在も調査が続けられています』


天気予報に切り替わると、母親はテレビから目を離した。


「最近、こういうの珍しいわね」


「そうだね」


ニュースで表示された停電区域。


昨日、自分がいた場所とほとんど同じだった。


学校へ着くと、教室でも昨日の停電が少し話題になっていた。


「昨日の停電、びっくりしたよな」


「俺んとこ全然消えなかった」


「こっちは一瞬だけだった」


湊が席に座ると、少しして雨宮さんがやってきた。


「水城くん」


「おはよう」


「昨日の停電、ニュース見た?」


「見た」


雨宮さんは鞄を机の横に置いた。


「やっぱり、あの辺だった」


「うん」


「駅跡の近く」


「……偶然かな」


「たぶん」


「だよね」


そう答えたものの、二人とも完全には納得していなかった。


駅跡は、普段なら特に何もない場所だ。


古い空き地。


そして、地下へ続く階段。


でも、その周辺だけが停電した。


「放課後、行ってみる?」


「駅跡?」


「うん。別に何かあるとは思ってないけど」


「……行こうか」


駅跡に近づくにつれて、人通りが少なくなる。


やがて、昨日と同じ空き地が見えてきた。


「変わってないね」


「うん」


空き地には、昨日と同じように小さな金属板が立っている。


『海底第一駅跡』


「停電したの、この辺なんだよね」


「ニュースだとそうだった」


建物も道路も、特に変わったところはない。


「やっぱり何もないね」


「うん」


湊は少し安心したような、少し残念なような気持ちになった。


ふと、昨日の階段が目に入った。


「……あ」


「どうしたの?」


「昨日の階段」


空き地の端。


そこに、地下へ続く階段がある。


古い扉も、そのままだ。


「そういえば、まだ見てなかったね」


「うん」


雨宮さんが階段の前まで歩いていく。


数段下へ続く階段。


その先には、古い扉。


扉には、かすれた文字が残っている。


「……ちょっとだけ、見てみる?」


湊は階段の先を見る。


扉の隙間から、わずかに明かりが漏れている。


「誰かいるのかな」


「分からない」


「今日はやめとく?」


「……うん」


知らない場所に入るなら、もう少し時間があるときの方がいい。


「また来よう」


「うん」


二人は階段から離れた。


「でも、停電と駅跡が関係してたら面白いね」


「どうだろう」


「分からないけど」


「うん」


駅跡は、もう建物の向こうに隠れて見えなくなっていた。


昨日までなら、ただの古い空き地だった。


一度気になってしまうと、街には知らない場所がまだまだあるような気がした。


「じゃあ、また明日」


「うん。またね、水城くん」


「またね、雨宮さん」


二人はそれぞれの帰り道へ向かった。



第九章 地下への階段


放課後。


最後のチャイムが鳴ると、教室の空気が少しずつ緩んでいった。


帰り支度をする生徒たちの声が聞こえる。


湊は鞄に教科書をしまいながら、窓の外を見た。


暗い海の向こうに、たくさんの明かりが浮かんでいる。


けれど今日は、何事もなかったように街が動いている。


「水城くん」


雨宮さんが鞄を持って立っていた。


「今日、行く?」


「うん」


海底第一駅跡までは、昨日と同じ道を歩いた。


「昨日の停電、結局原因分からなかったね」


「まだ調査中みたい」


「駅跡の近くだったから、ちょっと気になったんだけどな」


「俺も」


けれど、停電が本当に駅跡と関係しているのかは分からない。


たまたま近くで起きただけかもしれない。


それでも、一度気になってしまうと確かめてみたくなる。


やがて、古い建物の間から空き地が見えた。


海底第一駅跡。


「着いた」


「うん」


二人は空き地を横切り、古い階段の前まで歩いた。


昨日は階段の上から覗いただけだった。


「行ってみる?」


雨宮さんが階段を見下ろす。


「うん」


コンクリートの階段は少しだけ冷たかった。


上を見れば、空き地と街の明かりが見える。


少し降りただけなのに、地上の音が遠くなった気がした。


「思ったより深いね」


「うん」


雨宮さんも後ろから降りてくる。


階段を降りきると、古い扉があった。


昨日見た扉だ。


「開いた」


「普通に開くんだ」


扉の向こうには、細い通路が続いていた。


古い照明が等間隔に取り付けられていた。


そのいくつかは消えていたが、残っているものはまだ淡い光を灯している。


「電気ついてる」


「まだ使われてるのかな」


「どうだろう」


足音が、通路の中で小さく響く。


しばらく進むと、壁に古い看板が見えてきた。


海底第一駅


「……あった」


「本当に駅だったんだね」


「うん」


図書館で見た古い地図。


昔の写真。


それらが初めて一つにつながった気がした。


「なんか不思議」


「何が?」


「今の駅って、すごく新しく感じるじゃん」


「そうだね」


「でも、ここにも昔はたくさん人がいたんだろうね」


湊は通路の先を見た。


「昔の写真、もっと見てみたくなってきた」


「分かる」


柱には何かの広告が貼られていた跡がある。


「ここ、ホームだったのかな」


「たぶん」


「でも線路がないね」


「撤去されたのかも」


「そっか」


地下は静かだった。


地上では、車が走っている。


なのにここだけ時間が止まったようだった。


「……面白いね」


「うん」


「学校の近くに、こんな場所があったなんて」


海底市場にも行った。


それでも、この場所の存在は知らなかった。


街には、自分が知らない場所がまだたくさんある。


「もう少し見てみよう」


「うん」


通路の先には、いくつかの分かれ道があった。


「こっちは改札」


「こっちは……倉庫?」


「じゃあ、こっちは?」


文字の一部が剥がれていて、よく読めない。


「分からない」


「じゃあ、今日はやめとこうか」


「うん」


帰り際、湊は一度だけ振り返った。


そこにはまだ、知らない場所が残っている。


二人は階段を上った。


地上へ出ると、街の音が一気に戻ってきた。


さっきまでいた地下が、まるで別の場所だったように感じる。


「また来よう」


「うん」


「今度は、あの分かれ道の先も見たい」


「俺も」


二人は空き地を出た。


帰り道、湊はふと後ろを振り返った。


古い駅跡は、建物の陰に隠れてもう見えない。


「じゃあ、また明日」


「うん。またね、水城くん」


「またね、雨宮さん」


二人はそれぞれの帰り道へ向かった。


地下には、まだいくつもの道が残っていた。



第十章 古い案内図


放課後。


湊はいつものカフェの窓際の席に座っていた。


窓の外では、街の明かりが静かに灯っている。


海の向こうは今日も暗い。


けれど、街の中には学校帰りの生徒や仕事帰りの人が行き交っていて、いつもと変わらない一日が続いていた。


「お待たせ」


雨宮さんがトレーを持って立っていた。


「ここ、空いてる?」


「うん」


しばらくして、雨宮さんが鞄から一冊の本を取り出した。


「これ、昨日図書館で見つけた」


「何?」


「昔の海底第一駅の資料」


『海底第一駅周辺の歴史』


「こんなのあったんだ」


「昨日は見つけられなかったんだけど、今日探したらあった」


昔の商店。


そして、地下にあった施設の写真。


「これ」


雨宮さんが一枚の写真を指差した。


そこには、地下の広い通路が写っていた。


「地下商店街?」


「たぶん」


「昨日、こんなのなかったよね」


「昨日見たところは駅だけだったから」


写真の説明には、昔の海底第一駅の地下には商店や倉庫などがあり、駅周辺の施設とつながっていた、と書かれていた。


「結構大きかったんだ」


「うん」


今では何もない空き地。


その下に、昔はこんな場所があった。


「昨日の地下も、もっと先まで続いてるのかな」


「たぶん」


「行ってみる?」


「……行こうか」


二人が海底第一駅跡へ着いたのは、それからしばらくしてからだった。


古い階段を下りる。


昨日と同じように、扉を開ける。


地下へ入ると、地上の音が少しずつ遠くなっていく。


「やっぱり静かだね」


「うん」


昨日歩いた通路を進む。


二人は昨日とは違い、右側の通路へ進んだ。


そこには、古いシャッターがいくつも並んでいた。


「ここかな」


「写真の場所?」


「たぶん」


シャッターには、昔の店名が残っている。


「本当に商店街だったんだ」


「うん」


何の店だったのか分からないものもある。


「ここで買い物してたのかな」


「昔の人たちが?」


「うん」


湊は閉じたシャッターを眺めた。


それでも、ここには昔、たくさんの人がいたのだろう。


「街って面白いね」


「今あるものだけ見てると、昔のことなんて分からない」


「確かに」


表面はかなり汚れていたが、まだ文字が読める。


「これ、地図?」


「そうみたい」


古い地下施設の案内図だった。


「昨日見たところより、ずっと広い」


「うん」


雨宮さんが地図を眺める。


「でも、これ……」


「何?」


彼女が地図の下の方を指差した。


第五層


「第五層?」


「うん」


「地下に、そんなのあったのかな」


「分からない」


「第五層としか書いてない」


「本当だ」


「なんで?」


「分からない」


第五層の周辺には細い線が伸びている。


けれど、途中で汚れがひどくなっていて、その先がどうなっているのか分からない。


「ここまでしか読めないね」


「うん」


雨宮さんが地図を撮影する。


「今度、図書館でもう少し調べてみようかな」


「いいね」


「第五層って、何だったんだろう」


第五層。


「昔の施設の区画とかじゃない?」


「そうかも」


二人はそれ以上考えず、来た道を戻ることにした。


地上へ出ると、街の音が戻ってきた。


地下とはまるで違う。


雨宮さんが空を見上げるように、海の方を見た。


「また一つ知らない場所見つけたね」


「うん」


「第五層も気になるけど」


「そういう場所の名前なのかもね」


「今日はもう帰ろう」


「そうだね」


帰り道、湊はさっき見た案内図を思い出していた。


第五層。


けれど、今すぐ答えを知る必要もなかった。


知らない場所を見つけて、少しずつ調べていく。


「じゃあ、また明日」


「うん。またね、雨宮さん」


湊の机の上には、昼間に撮った写真が残っていた。


第五層。


それだけが、なぜか頭から離れなかった。



第十一章 第五層


朝、目が覚める。


カーテンの向こうは、今日も暗かった。


窓の外には、いつもの街が広がっている。道路沿いの街灯が並び、少し離れた建物の窓には明かりがついている。


「……もうこんな時間か」


「おはよう」


「おはよう。今日は早いね」


「そう?」


「いつもよりちょっとだけね」


湊は椅子に座り、朝食を食べ始めた。


昨日の停電についても少し触れられていたが、詳しい原因はまだ調査中らしい。


湊はそれを聞きながら、ふと昨日見つけたものを思い出した。


――第五層。


あの古い地下の案内図に書かれていた言葉。


結局、あれが何を意味しているのかは分からない。


「……第五層、か」


「何か言った?」


「いや、何でもない」


湊はそう答えて、テレビへ視線を戻した。


席に座ってしばらくすると、雨宮さんが教室に入ってきた。


「おはよう、水城くん」


「おはよう、雨宮さん」


「昨日のこと、覚えてる?」


「第五層?」


「そう」


雨宮さんは席の横まで来ると、小さな声で言った。


「昨日帰ってから、ちょっと気になって調べてみたんだけど」


「何か分かった?」


「それが、全然」


雨宮さんは少し困ったように笑った。


「普通の地下施設についての資料は出てくるんだけど、第五層っていう言葉がほとんど出てこないの」


「やっぱり?」


「うん。だから今日、図書館行ってみない?」


「図書館?」


「昔の資料とか、新聞とか置いてあるでしょ」


確かに、ネットで調べるよりも昔の資料を探した方が何か見つかるかもしれない。


「……行ってみようか」


「じゃあ決まり」


雨宮さんはそう言って、自分の席へ戻っていった。


二人は学校から少し離れた市立図書館へ向かった。


図書館は駅から少し離れた場所にある。


大きな建物ではないが、地下都市の歴史に関する資料が多く置かれていることで知られていた。


「こういうところ来るの久しぶり」


「俺も」


二人は受付で地域史の資料について聞き、古い新聞や地図が置かれている棚へ向かった。


棚には、年代ごとに分けられた資料が並んでいる。


「海底第一駅……」


雨宮さんが背表紙を指で追っていく。


「これじゃない?」


「たぶん」


昔の街の地図。


今よりもずっと昔の街が、そこには残っていた。


「この辺、今と全然違うね」


雨宮さんが古い地図を広げる。


「駅の位置も違うし、道も結構違う」


「昔はこの辺に商店街があったみたい」


「今の市場と少し似てるね」


「うん」


海底第一駅についての記事もいくつか見つかった。


昔は現在の駅よりも大きな駅だったらしい。


駅の周辺には地下商店街があり、さらにその下にも施設が広がっていた。


「結構大きかったんだな」


「今残ってるのって、ほんの一部なんだね」


すると、一枚の古い新聞記事が目に入った。


『海底第一駅周辺地下施設、一部閉鎖へ』


「これ……」


「施設の老朽化と利用者の減少を理由に、一部の地下施設を閉鎖……」


「第五層については?」


「書いてない」


けれど、第五層という言葉はどこにもなかった。


「変だね」


「うん」


「昨日見た地図には、確かに第五層って書いてあったのに」


「昔の資料にもないのかな」


「あ」


「これ、見て」


広い通路。


そして、その奥に地下へ続く階段が写っていた。


「昨日の階段に似てる」


「……うん」


写真を拡大するように、二人は顔を近づける。


階段の横には古い案内板があった。


第五層


「やっぱり……」


「昔からあったんだ」


「みたいだね」


ただ、それ以上のことは何も分からなかった。


写真の端には、別の案内板も写っている。


しかし、そこは影になっていて文字が読めない。


「この先、何があったんだろう」


「分からない」


「行ってみる?」


古い階段。


その先に続く暗い通路。


昨日、実際に歩いた地下の道。


「……今度なら」


「うん」


「もう少し奥まで行ってみてもいいかも」


「じゃあ、また行こう」


「うん」


図書館を出ると、二人は駅とは反対方向へ歩いた。


それでも、昨日までとは少しだけ見え方が違っていた。


「ねえ、水城くん」


「ん?」


「私たち、結構いろんなところ行ってるよね」


「そうかも」


「最初はただ歩いてただけなのに」


「今も歩いてるだけじゃない?」


「確かに」


「じゃあ、また明日」


「うん。またね、雨宮さん」


「またね、水城くん」


家に帰る途中、ふと図書館で見た写真を思い出す。


地下へ続く階段。


――第五層。


あの階段は、今も残っている。


そして、昨日より少しだけ強く思った。


――あの階段の先に、何があるんだろう。



第十二章 第五層へ


放課後の教室。


窓の外は、いつもと変わらない暗さだった。


湊は机の上に置いたノートを閉じた。


昨日、図書館で見つけた古い写真が頭に残っていた。


海底第一駅。


その地下へ続く階段。


――第五層。


「水城くん」


雨宮さんが、鞄を肩にかけて立っていた。


「昨日のことなんだけど」


「第五層?」


「うん」


「今日、行ってみる?」


「やっぱり気になってる?」


「……うん」


「私も」


二人は学校を出て、海底第一駅へ向かった。


駅跡に着く。


以前と同じように、道路の脇に小さな案内板が立っている。


その先にある階段を下りる。


古い照明が、一定の間隔で天井についている。


ところどころ明かりが弱くなっているが、歩くには十分だった。


「前に来たときより、長く感じる」


「前は途中までしか行かなかったからじゃない?」


「それもあるか」


しばらくすると、以前見た古い駅の案内板が現れた。


その先には、いくつかの通路が分かれている。


「こっち……」


雨宮さんが一枚の古い案内図を取り出した。


「第五層に行くなら、たぶんこっち」


湊も地図を見る。


「昨日の写真と同じだ」


「じゃあ、行ってみよう」


二人は地図に書かれた通路を進んだ。


しばらく歩くと、階段があった。


「これかな」


「たぶん」


階段の横には、古い案内板があった。


第五層


「……あった」


湊は階段の下を見る。


「結構深いね」


「うん」


二人は階段を下り始めた。


靴音だけが、静かな階段に響く。


途中には、昔の広告が貼られていた。


昔の飲み物の広告。


「これ、いつのだろう」


「かなり昔じゃない?」


「写真に載ってた駅と同じ時代かな」


「たぶん」


階段は思っていたより長かった。


けれど、しばらくすると終わりが見えてきた。


「着くよ」


そこには、地下街があった。


「……」


シャッターには昔の広告が残っている。


通路の中央には、古いベンチが置かれていた。


「思ったより……普通だね」


「うん」


「もっと何かすごい場所かと思ってた」


「俺も」


その隣には、今では使われていない公衆電話。


壁には昔の駅の案内図。


どれも、長い時間ここに残っていたものだった。


「昔はここにも人がいたんだろうね」


「そうだね」


この場所にも、昔は店員がいて。


今と同じような日常があったのかもしれない。


「なんか不思議」


「何が?」


「昔の街を歩いてるみたい」


「昔の街だからね」


「そうだけど」


「そういう意味じゃなくて」


地下街は思ったより広かった。


途中には小さな広場のような場所もあった。


昔の案内板が立っている。


その奥には、駅のホームらしき場所も残っていた。


「ここ、本当に駅だったんだ」


「今の駅より小さいね」


「昔はここが中心だったのかな」


「たぶん」


その先は暗くなっていて、どこまで続いているのか分からない。


「そろそろ戻る?」


「うん。今日はこのくらいにしよう」


「……あれ?」


「どうした?」


「いや」


彼女が、通路の奥を指差す。


「あそこ、まだ道がある」


地下街の一番奥。


そこには、今まで見ていた場所とは違う細い通路が続いていた。


その先には、一枚の扉があった。


扉の上には、


「……行ってみる?」


「今日はやめとこう」


「うん」


今日は第五層に来られただけで十分だった。


地上へ戻る。


さっきまでいた地下の古い街とは、まるで別の場所のようだった。


「なんか、思ってたより普通だったね」


「うん」


「第五層って名前だけ聞くと、もっとすごいところかと思ってた」


「俺も」


「じゃあ、また明日」


「うん。またね、雨宮さん」


「またね、水城くん」


今日見た第五層を思い返す。


古い地下街。


昔の駅。


そして、一番奥にあった立入禁止の扉。


――あの先には、何があるんだろう。


まだ、それだけだった。



第十三章 その先へ


次の日の朝。


湊は制服に着替えながら、昨日の第五層のことを考えていた。


古い地下街。


昔の駅。


そして、その一番奥にあった扉。


あの扉の先には、まだ何かが続いていた。


扉の向こうには何があるのだろう。


第五層という名前が付いているくらいだから、その先にはきっと次の階層がある。


湊は、なんとなくそう思っていた。


教室に入ると、雨宮さんがこちらに気づいた。


「おはよう、水城くん」


「おはよう、雨宮さん」


席に座ると、雨宮さんが少し身を乗り出した。


「昨日のことなんだけど」


「うん」


「やっぱり気になる」


「俺も」


「だよね」


「第五層の次って、どうなってるんだろうね」


「普通に考えたら、第六層じゃない?」


「やっぱりそう思う?」


「うん」


「じゃあ、第六層があるのかな」


「分からない」


昨日と同じように、放課後は図書館へ行くことになった。


二人は市立図書館へ向かった。


海底第一駅。


地下施設。


駅跡周辺の歴史。


「第五層は結構出てくるね」


「うん」


「でも、その先は……」


そこにも第五層までしか書かれていなかった。


「第六層って書いてある資料、ないね」


「うん」


「じゃあ、ないのかな」


「でも、昨日見た道はあった」


「第五層の奥に、まだ通路が続いてた」


「そうなんだよね」


しばらくして、雨宮さんが古いファイルを見つけた。


「これ、駅の改修工事の資料みたい」


「見てみよう」


地下施設の写真。


その中に、地下通路を写した写真があった。


「これ……」


写真の奥に、第五層で見たものとよく似た案内板が写っている。


写真自体も古く、端の部分が切れていた。


「この先に何か書いてあったのかな」


「分からないね」


「結局、何も分からない」


「うん」


雨宮さんは少し残念そうに写真を戻した。


「でも、逆に気になる」


「俺も」


図書館を出る。


「どうする?」


「明日、また第五層に行こう」


「扉のところ?」


「うん」


「開ける?」


「いや」


「勝手に開けるのはやめよう」


「じゃあ、どうする?」


「周りを調べる」


「周り?」


「昨日、扉しか見てなかったから」


「別の道があるかもしれない」


「なるほど」


「昔の人が使ってた別の入口とか?」


「そう」


「それなら探してみよう」


第五層の先へ行く。


ただし、無理に扉を開けるのではない。


まずは、そこへ行くための別の道がないか探す。


家に帰った湊は、机の上に昨日の写真を置いた。


古い地下通路。


もし第五層の次があるなら。


でも、資料には一度もその名前が出てこない。


もしかすると、昔から使われていなかった場所なのかもしれない。


そもそも、階層という考え方自体が違うのか。


そこまで考えて、湊は首を振った。


「……考えすぎか」


明日になれば、少しは分かるかもしれない。


明日はもう一度、第五層へ行く。


今度は、昨日見なかった場所まで。


その先へ進むための道を探しに。



第十四章 古い通路


次の日の放課後。


湊は雨宮さんと一緒に、いつもの道を歩いていた。


「昨日の写真、持ってきた?」


「うん」


図書館で見つけた、古い地下通路の写真。


第五層の奥に続いているように見える道。


結局、写真から分かったことは少なかった。


「昨日言ってたけど」


「今日は扉を開けないんだよね」


「うん」


「周りを調べる」


「そう」


「じゃあ、結構時間かかりそう」


「たぶん」


「でも、こういうの嫌いじゃない」


「俺も」


古い駅跡へ着く。


地上から地下へ続く階段を下りる。


何度か来た場所だから、もう最初ほどの緊張はなかった。


いつもと同じ第五層の景色が続いている。


しばらく歩くと、昨日まで何度も見ていた地下街に出た。


昔の駅の名残。


やがて、昨日見つけた扉が見えてきた。


「ここだね」


「うん」


立入禁止の文字が書かれた扉。


「やっぱり開けない?」


「開けない」


「昨日も言ったけど、勝手に入るのはちょっと……」


「そうだね」


「じゃあ、周り」


「うん」


二人は扉の周囲を調べ始めた。


壁際には古いポスターが何枚か残っていた。


その横には、昔の店の案内板。


さらに奥には、使われなくなった小さな倉庫がある。


「ここ、昨日見たっけ?」


「たぶん見てない」


扉には鍵がかかっていた。


しかし、扉そのものは完全には閉まっていない。


「開いてる?」


「少しだけ」


湊がゆっくり扉を押す。


「何もないね」


「うん」


雨宮さんは棚の奥を覗き込んだ。


すると、壁の一部分だけ、他とは少し違って見えた。


「湊くん」


「ん?」


「ここ」


壁の下のほうに、小さな鉄の扉があった。


「こんなのあったんだ」


「倉庫の中に扉って変じゃない?」


「確かに」


鉄の扉には、古い文字が書かれていた。


「……管理……?」


「管理用の通路かな」


「たぶん」


扉を押してみる。


その先には、細い通路が続いていた。


「……通路だ」


「昨日の写真と似てる」


写真に写っていた古い通路。


「こっちのほうが、写真の場所かもしれないね」


「じゃあ、この通路が第五層の奥につながってる?」


「分からない」


「でも、行ってみる?」


「うん」


二人はゆっくりと通路を進んだ。


通路は思ったより長かった。


数分歩いても、景色はほとんど変わらない。


ところどころに小さな扉。


昔の設備を点検するための場所なのだろう。


「こういうところって、昔は普通に使ってたのかな」


「たぶん」


「今は誰も使ってなさそう」


「うん」


歩いていると、壁に小さな紙が貼られているのを見つけた。


「何か書いてある」


「読める?」


「……『設備点検の際は……』」


「普通の注意書きだね」


「そうだね」


ただ、ずっと使われていなかった場所を歩いている。


やがて通路の先に、もう一つ扉が現れた。


「ここで終わり?」


雨宮さんが扉の前に立つ。


扉の横には、小さな表示板があった。


「何か書いてある?」


「……施設番号かな」


「階層の名前は?」


「書いてない」


古い数字と記号のようなものが並んでいる。


「この先に何があるんだろう」


「開けてみる?」


湊は扉を見る。


「……今日はやめとこう」


「そっか」


「ここまで来ただけでも結構時間かかったし」


「じゃあ、また来る?」


「うん」


雨宮さんは扉を見ながら頷いた。


「次は、この扉が何なのか調べてからにしよう」


「そうしよう」


第五層の地下街に戻る。


さっきまで歩いていた場所なのに、少しだけ違って見えた。


いつもの地下街の裏側に、知らない通路があった。


そして、その先にはさらに古い扉があった。


「第六層って、本当にあるのかな」


「分からない」


「でも……」


「うん?」


「少なくとも、この先に何かあったのは確かだと思う」


「じゃあ、調べよう」


「うん」


二人は地下街を後にした。


家に帰った湊は、今日撮った写真をスマートフォンで確認していた。


小さな鉄の扉。


古い管理通路。


最後に見つけた大きな扉。


どれも、長い間使われていなかったように見える。


湊は昨日の写真と今日の写真を並べてみた。


古い地下通路の写真。


今日見つけた通路。


「……つながってるのかな」


もしそうなら、昔の人たちはこの通路を使っていたことになる。


第五層のさらに奥には、本当に次の階層があるのだろうか。


湊はスマートフォンを机に置いた。


でも、昨日までより一歩だけ先に進んだ気がした。


明日は、今日見つけた扉について調べよう。


湊はそう決めて、ノートを閉じた。



第十五章 古い施設図


次の日の放課後。


湊と雨宮さんは、昨日と同じように図書館へ向かっていた。


「昨日の扉、やっぱり気になるね」


「うん」


湊は鞄の中に入れたスマートフォンを確認する。


その奥にあった小さな扉。


そして、その先に続いていた通路。


最後に見つけた、大きな鉄の扉。


「今日は、あの扉について調べよう」


「うん。何の扉なのか分かれば、先に進んでいい場所なのかも分かるし」


二人は図書館の自動ドアをくぐった。


昨日まで見ていた資料を、もう一度探す。


海底第一駅。


旧地下街。


地下施設。


けれど、なかなか昨日の扉につながる情報は見つからなかった。


「施設番号で検索しても出てこないね」


雨宮さんがパソコンの画面を見ながら言った。


「番号自体が古すぎるのかも」


「じゃあ、別の探し方しよう」


そこには、今ではほとんど使われていないような分厚い資料が並んでいる。


地下設備の記録。


昔の都市整備計画。


「これ、見て」


しばらくして、雨宮さんが一冊のファイルを取り出した。


「『海底第一駅改修工事記録』?」


「昨日の施設図とか載ってるかも」


ページをめくると、駅の写真や工事中の様子が次々に出てくる。


「これ……」


そこには、地下施設の平面図が載っていた。


「第五層の図面?」


「たぶん」


現在の地下街とは少し違う。


昔は店の数も多く、通路の形も違っている。


「……ここ」


図面の端に、小さな四角形が描かれている。


その横には、昨日見たものと同じ施設番号が書かれていた。


「これ、昨日の扉じゃない?」


「たぶん同じだと思う」


湊はスマートフォンに入っている写真を見せる。


扉の位置。


「じゃあ、あの扉は昔からあったんだ」


「うん」


「でも、何のための扉なんだろう」


「設備用かな」


「たぶん」


「保守用通路」


「やっぱり、管理するための道だったんだ」


「そうみたい」


「じゃあ、あの通路も昔は普通に使われてたのかな」


「そうかもしれない」


けれど、昔はこの地下施設を管理するために、人が何度も歩いていた。


そう考えると、昨日歩いた場所も少し違って見える。


「こっちにも同じ場所がある」


「本当だ」


古い図面では、第五層の奥から一本の細い通路が伸びている。


現在の図面には、その通路が描かれていない。


「途中でなくなってる」


「でも、昨日はあったよね」


「うん」


けれど、実際には通路が残っている。


「じゃあ、使われなくなったあとも、そのまま残ってたんだ」


「たぶん」


雨宮さんは図面を指で追っていく。


細い通路は、地下街のさらに奥へ伸びている。


その先には、小さな部屋のようなものが描かれていた。


「この先は?」


「……分からない」


通路の先で、図面が途切れていた。


「破れてる」


「かなり古いからね」


そこから先の情報は、何も残っていない。


昔の駅員向けの資料。


しかし、どれを見ても「第六層」という名前は出てこなかった。


「結局、第六層は分からないね」


「うん」


「でも、昨日の通路が昔からあったことは分かった」


「それだけでも結構大きいと思う」


「じゃあ、あの先は何なんだろう」


第五層。


その先に伸びる通路。


まるで、その先だけが意図的に隠されているようにも見えた。


もちろん、ただ古くて破れただけなのだろう。


「明日、もう一回行ってみようか」


「第五層?」


「うん」


「扉のところまで?」


「そう」


「今度はちゃんと準備して行こう」


「準備?」


「ライトとか、メモするものとか」


「ああ」


「あと、昨日みたいに何も考えずに歩くのはやめよう」


「確かに」


図書館を出る。


いつもの街は、今日も静かに明かりを灯している。


暗い空の下。


湊は歩きながら、図書館でもらった古い図面のコピーを見る。


第五層の奥から伸びる、一本の細い線。


どこにつながっているのかは分からない。


「水城くん」


「ん?」


「明日、楽しみだね」


「……うん」


第五層の次に、第六層があるのか。


それとも、まったく別の場所につながっているのか。


ただ一つ分かっているのは――


あの地下には、まだ誰も知らない場所が残っているということだった。



第十六章 その先の道


次の日の放課後。


湊は教室を出る前に、昨日コピーした古い施設図を鞄から取り出した。


紙には、第五層の地下街と、その奥へ伸びる細い通路が描かれている。


通路の先は、途中で途切れていた。


「水城くん」


「準備できた?」


「うん」


「じゃあ行こう」


古い駅跡へ向かう。


いつもの地下への階段。


けれど今日は、少しだけ気持ちが違った。


今まで二人が歩いてきたのは、誰でも入れる場所だった。


古い駅跡も、第五層の地下街も、昔は人が普通に使っていた場所だ。


地図から消えた通路。


少なくとも、今の街でそこを歩いている人を二人は知らなかった。


「昨日の図面、持ってる?」


「持ってる」


「あとライトも」


「私も持ってきた」


雨宮さんが小さなライトを見せる。


「準備ばっちりだね」


「昨日よりは」


地下へ降りる。


古い通路を進み、第五層へ向かう。


やがて、古い地下街が見えてきた。


昔の自動販売機。


「ここだね」


「うん」


扉を開ける。


空になった棚。


小さな鉄の扉。


「昨日のままだ」


湊は施設図を広げる。


「この通路が、ここにつながってるはず」


「じゃあ行こう」


「うん」


湊が鉄の扉を押した。


細い通路に入る。


後ろの倉庫からの明かりが、少しずつ遠くなる。


ところどころにある小さな扉。


「この先だよね」


「うん」


湊は施設図を見る。


「もう少し」


しばらくすると、昨日の大きな鉄扉が見えてきた。


「着いた」


扉には、昨日と同じ古い施設番号がある。


「ここから先は……」


「やっぱり分からないね」


「うん」


雨宮さんは扉に手を置いた。


「でも、この扉の向こうにも通路があるんだよね」


「たぶん」


「開けてみよう」


「うん」


湊が扉に手をかける。


古い金属の音が、静かな通路に響いた。


扉がゆっくり開く。


その先には、さらに通路が続いていた。


「……続いてる」


これまでの通路とは少し違った。


人が暮らした場所というより、施設の奥にある作業用の通路のようだった。


「第五層の地下街とは全然違うね」


「うん」


しばらく歩くと、壁に小さな表示があった。


「何かある」


「読めない」


「こっちも」


けれど、途中で剥がれていて意味が分からない。


「第……」


「今、何か見えた?」


「うん。でも、その後がない」


しかし、それが何を意味しているのかは分からない。


「第六層……とか?」


「分からないよ」


「だよね」


通路は思っていたより長かった。


扉を開けてみると、中には古い棚や作業台が残っている。


「本当に誰も使ってないんだね」


「うん」


「こういう場所、街のすぐ下にあったんだ」


「ずっと知らなかった」


地上にはいつもの街がある。


そのすぐ下に、こんな場所が残っている。


でも、それ以上に怖いとは思わなかった。


通路の先に、もう一つ扉がある。


しかし、ここも文字はほとんど読めない。


「どうする?」


湊は扉を見る。


でも、今日はここまでにしたほうがいい。


「今日は戻ろう」


「うん」


「また来よう」


「そうしよう」


大きな鉄扉を抜ける。


地下街へ出る。


見慣れた第五層の景色が戻ってくる。


それまで歩いていた場所が、急に明るく感じられた。


「なんか、戻ってくると安心するね」


「分かる」


二人は地下街を歩く。


「でも、あの先」


「うん」


「まだ続いてたね」


「うん」


「地図に載ってないところまで」


今日初めて、第五層のさらに先へ入った。


古い通路。


地上へ戻る。


「明日も行く?」


「……うん」


「じゃあ、また明日」


「うん」


湊は歩きながら、今日見た案内板を思い出していた。


汚れていて、ほとんど読めなかった文字。


ただ、昨日まで知らなかった道を一つ見つけた。


その道は、まだ先へ続いている。


湊はそう思いながら、いつもの帰り道を歩いていった。



第十七章 古い階段


次の日の放課後。


湊は教室で、昨日撮った写真をスマートフォンに表示していた。


隣では、雨宮さんも同じ写真を見ている。


「やっぱり読めないね」


「うん」


昨日、第五層のさらに奥で見つけた案内板。


けれど、汚れや傷が多く、何が書かれているのかまでは分からない。


「拡大してみてもダメか」


「うん。『第』っていう字っぽいのは見えるけど」


「その後が分からないね」


「今日、もう一回行ってみる?」


「うん」


「昨日の続き」


「そうしよう」


古い駅跡。


地下へ続く階段。


第五層。


細い管理通路を進む。


大きな鉄扉を抜ける。


「昨日はこの辺までだったよね」


「うん」


通路の先にある小さな扉まで進む。


「開けてみよう」


湊が扉に手をかける。


扉の向こうには、小さな部屋があった。


空になった箱。


「階段?」


そこから、階段が下へ続いていた。


「こんなの、図面にあった?」


湊が施設図を見る。


「……ない」


図面には、この部屋までしか描かれていなかった。


「じゃあ、この先は……」


「昔の図面には載ってなかったってことかな」


「たぶん」


二人は階段の前に立った。


ライトを向けると、何段か先まで見える。


「行ってみる?」


「うん」


二人はゆっくり階段を下り始めた。


階段は長かった。


ただ古いコンクリートの壁が続いている。


「結構深いね」


「うん」


「こんな階段、よく残ってたね」


「使われなくなったから、そのままなんだろうね」


しばらくして、壁に小さな案内板が現れた。


「また案内板」


「……『第』」


「やっぱり階層?」


「たぶん」


その後ろには、数字らしいものが残っている。


けれど、汚れがひどくて形がはっきりしない。


「六……?」


「分からない」


「なんか、六には見えない気もする」


「でも、他の数字にも見えない」


「うん」


結局、何の数字なのかは分からなかった。


「昔の表示なら、たぶん第六層とかじゃない?」


「そうかも」


第五層のさらに下。


それなら、この表示もきっとそのどちらかなのだろう。


「写真撮っとこう」


「うん」


雨宮さんがスマートフォンを取り出した。


シャッター音が、静かな階段に響いた。


階段の途中で、湊が足を止めた。


「……ん?」


「どうしたの?」


壁の隅に、小さな水滴が見えた。


古い地下だから、どこかから水が染み出しているのだろう。


水滴が床に落ちる。


すると、その水が――


ほんの少しだけ、階段を上る方向へ流れた。


「……」


細い水の筋が、ほんの数センチだけ上へ向かっている。


「今……」


「うん」


「水、上に流れなかった?」


けれど、水はもう止まっていた。


残っているのは、小さな水滴だけ。


「……床が傾いてるんじゃない?」


「そうかな」


「たぶん」


湊自身も、少しだけ気になった。


でも、古い階段だ。


「行こう」


「うん」


二人は再び階段を下りた。


階段の終わりが見えてきた。


「これは読めそう?」


「……『第』は見える」


「その後は?」


「分からない」


表示板の中央部分は、何かが擦れたように傷ついている。


「写真撮ろう」


「うん」


雨宮さんが何枚か写真を撮った。


そして、二人は表示板の前から少し離れた。


「結局、ここが何層なのか分からないね」


「うん」


「第六層だと思う?」


「普通ならそうだと思う」


「だよね」


ただ、第五層のさらに下に、知らない場所がある。


少し先まで進むと、通路が見えてきた。


階段よりも広い。


左右にはいくつか扉が並んでいる。


けれど、どれも古く、何に使われていたのか分からない。


「今日はここまでにしようか」


「うん」


ここから先は、まだ調べることが多そうだった。


「明日、写真を確認しよう」


「図書館でも調べてみよう」


「うん」


階段を上る。


さっき見つけた水滴の場所を通る。


「さっきの水、本当に何だったんだろう」


「分からない」


「やっぱり床が傾いてたのかな」


「たぶん」


今は、それよりも階層の表示のほうが気になっていた。


地上へ戻る。


「また明日ね、水城くん」


「うん。またね、雨宮さん」


歩きながら、今日見た階段を思い出す。


長い階段。


そして、ほんの少しだけ上へ流れた水。


古い地下施設なのだから。


湊はそう考えて、いつもの道を歩いていった。


今日撮った写真の中に、二人がまだ気づいていないものが一つだけ残っていた。


そこには、汚れの隙間から――


かすかに、一本の縦線が見えていた。



第十八章 地下の街


次の日の放課後。


湊と雨宮さんは、昨日と同じ場所に来ていた。


古い階段。


その先に続く、知らない地下。


「昨日は、ここまでだったよね」


雨宮さんが階段の下を見る。


「うん」


昨日は、階段を下りたところにある通路を少しだけ見て戻った。


「写真も持ってきた?」


「うん」


湊はスマートフォンを取り出した。


「やっぱり分からないね」


「うん」


「まあ、今日は探索しよう」


「そうしよう」


二人は階段を下り始めた。


階段を下りる。


しばらくすると、階段が終わった。


その先には、昨日見た通路が続いている。


少し進むと、通路の幅が広くなった。


「……広いね」


「うん」


すると、通路の先に明かりが見えた。


もちろん電気が点いているわけではない。


「……街?」


目の前には、地下に作られた小さな街が広がっていた。


今まで見てきた第五層の地下街より、ずっと古い。


「こんなところに……」


「地下街があるとは思わなかった」


「俺も」


最初に見つけたのは、小さなパン屋だった。


看板には、昔の文字で店名が書かれている。


ショーケースは空っぽ。


「昔はここでパン売ってたのかな」


「たぶん」


「どんな店だったんだろうね」


「普通のパン屋じゃない?」


「それじゃ想像つかないよ」


入口の上にはメニューの看板が残っている。


「これ、今の値段と全然違う」


「昔だからじゃない?」


「分かってるけど」


「なんか面白いね」


二人はしばらく昔のメニューを眺めた。


「これ、何だろう」


「俺も分からない」


「図書館で調べてみようかな」


「そこまで?」


「気になるじゃん」


「まあ、確かに」


ポスターを貼っていたと思われる場所には、何もない。


「映画館まであるんだ」


「結構大きいね」


「昔は人がいっぱい来てたのかな」


「そうかも」


雨宮さんは入口から中を覗き込んだ。


「今の街にも映画館あるけど、ここより大きいよね」


「うん」


「でも、こっちのほうがちょっと好きかも」


「なんで?」


「昔っぽいから」


ここにも昔は人がいて。


地下街の中央には、小さな広場があった。


「何時で止まってる?」


「……三時二十分」


「結構昔から止まってそう」


「動かせないかな」


「やめたほうがいいと思う」


「だよね」


地下街は静かだった。


聞こえるのは、遠くから響く機械の音だけ。


「ここ、昔は結構人がいたんだろうね」


「うん」


「今は誰も来ないけど」


「こういう場所、まだ他にもあるのかな」


「あるかも」


湊は地下街を見渡した。


今の街からは、完全に忘れられているような場所。


それでも、ここには昔の生活が残っている。


地下街の端まで行くと、古い案内板があった。


「これ、地図かな」


壁には地下街の簡単な案内図が描かれている。


そして、地下街の奥に続く通路。


「こっちにも道がある」


「まだ続いてるね」


「うん」


案内図の一番奥には、古い階層表示があった。


しかし、表面が汚れていて数字は読めない。


「またこれだ」


「『第』っていう字だけは見える」


「その後は?」


「分からない」


「第五層の次だから……」


「やっぱり第六層なのかな」


「たぶん」


今は、それよりも地下街のほうが気になっていた。


やがて建物が途切れ、古い駅のような場所に出た。


「ホーム?」


「ここ、駅だったのかな」


「たぶん」


近くの壁には、古い写真が何枚か飾られていた。


その中には、この場所を走っていたらしい電車の写真もある。


「電車だ」


「昔のやつだね」


「この街にも電車が走ってたんだ」


「今の電車とは違うね」


乗っている人たちは、今の街の人たちと変わらない。


「昔の人も、ここで電車を待ってたんだね」


「うん」


「なんか不思議」


「何が?」


「こういう場所が、今は誰も使ってないってこと」


「そうだね」


ホームの奥に、階段があった。


「……また階段」


「まだ下があるみたい」


階段は暗くて、下まで見えない。


「今日はここまでにする?」


「うん」


「明日?」


「明日」


「じゃあ、決まり」


二人は階段を下りずに、その場を離れた。


地下街を戻る。


そして、長い通路。


来たときと同じ場所なのに、帰り道は少し短く感じた。


地上へ戻る。


「今日、結構歩いたね」


「うん」


「でも、まだ全部見てない」


「そうだね」


「明日はあの階段」


「うん」


「じゃあ、また明日」


「うん。またね、雨宮さん」


地下には、まだ誰にも知られていない場所が残っている。


その先に何があるのか。


今はまだ、二人にも分からなかった



第十九章 最初の街


次の日の放課後。


湊と雨宮さんは、昨日見つけた階段の前に立っていた。


「昨日はここまでだったね」


雨宮さんが階段の下を見る。


「うん」


そして、その奥に続いていた階段。


二人は今日も、その先を調べることにした。


「行こうか」


「うん」


二人は階段を下り始めた。


階段を下りると、昨日見た古い駅の続きが広がっていた。


壁には昔の広告。


駅として使われていた頃の名残が、まだあちこちに残っていた。


「こっちにも部屋がある」


ホームの端に、小さな扉がある。


扉には、


「管理室」


「入ってみる?」


「うん」


湊が扉を押す。


少し重かったが、鍵はかかっていなかった。


「昔の駅員さんが使ってた部屋かな」


「たぶん」


「これは?」


雨宮さんが棚の下から一枚の大きな紙を取り出した。


「設計図?」


「たぶん」


紙には、街の地図のようなものが描かれていた。


いくつもの線が細かく書き込まれている。


「これ、結構広いね」


「でも……」


「今の街と似てない?」


「……ほんとだ」


けれど、大まかな配置は今の街によく似ている。


「こっちが今の中央駅のあたりかな」


「たぶん」


「でも、今よりずっと小さい」


「うん」


設計図には、今では大きな建物が建っている場所に、小さな建物が描かれている。


今の街ができる前の、まだ小さな街のようだった。


「最初の頃の街なのかな」


「そうかも」


雨宮さんは設計図を端から端まで眺めた。


「これ、結構古そうだね」


「うん」


長い間、どこかに保管されていたものらしい。


そのとき、湊は図面の端に描かれた建物に目が止まった。


「……これ」


「どうしたの?」


「この建物」


小さな四角形の横に、店の名前らしい文字が書かれている。


今ではもう存在しない店なのかもしれない。


「喫茶店の近くじゃない?」


「たぶん」


その周辺の道と、図面に描かれた道の形がよく似ている。


「そういえば」


雨宮さんがスマートフォンを取り出した。


「喫茶店に昔の写真あったよね」


「ああ」


以前、二人で喫茶店に行ったときに見た写真。


昔の中央通り。


昔の街並み。


「あった」


画面に、喫茶店の壁に飾られていた昔の写真が映る。


二人は設計図と写真を見比べた。


「……同じだ」


「道路の形も」


「建物の位置も似てる」


「じゃあ、この設計図って……」


「昔の街の設計図なんだね」


「今の街ができ始めた頃のやつかも」


「たぶん」


二人はもう一度、設計図を見る。


そこに描かれている街は、今よりずっと小さい。


昔の写真に写っていた場所もある。


昔の人たちが歩いていた道もある。


「なんか面白いね」


「昔はこんな感じだったんだ」


「うん」


二人は設計図をしばらく眺めた。


けれど、それ以上に分かることはなかった。


設計図には街の形が描かれているだけ。


「これ、写真撮っておこうか」


「うん」


雨宮さんが設計図の全体を撮影する。


「これで、また図書館で調べられるね」


「そうだね」


二人は設計図を元の場所に戻した。


管理室を出る。


ホームを歩いていると、雨宮さんがふと足を止めた。


「ねえ」


「ん?」


「さっきの設計図、街の端まで描いてあったよね」


「うん」


「でも、今の街ってもっと広いじゃん」


「そうだね」


「じゃあ、ここから街がどんどん広がっていったのかな」


「たぶん」


「今の街になるまで、いろいろ変わったんだと思う」


「そっか」


雨宮さんはそれ以上は言わなかった。


そこには、今まで気づかなかった細い通路があった。


「ここ、まだ先に行ける」


通路はホームの裏側へ続いている。


「昨日の階段とは別の道だね」


「うん」


奥には、さらに古い扉が見える。


「今日はどうする?」


「今日は戻ろう」


「じゃあ、明日ここ?」


「うん」


「分かった」


二人は通路を後にした。


階段を上り、第五層へ戻る。


見慣れた地下街が広がっている。


少し前までは、ここも知らない場所だった。


「昔の街の設計図、面白かったね」


「うん」


「喫茶店の写真と本当に同じだったし」


「そうだね」


「今度、もう一回写真見せてもらおうかな」


「いいね」


二人は地下街を歩いた。


地上へ戻る。


「じゃあ、また明日」


「うん。またね、雨宮さん」


湊は歩きながら、今日見た設計図を思い出していた。


今より小さかった、昔の街。


街は、昔から少しずつ変わってきたのだろう。


湊はそう思いながら、いつもの帰り道を歩いていった。



第二十章 さらに下へ


次の日の放課後。


湊と雨宮さんは、昨日見つけた古い通路の前に立っていた。


「昨日の続きだね」


「うん」


ホームの端にある細い通路。


その先には、昨日まで見たことのない扉がある。


「開くかな」


「やってみよう」


扉に手をかける。


少し重かったが、ゆっくり押すと開いた。


その先には、細い通路が続いていた。


二人は通路を進んだ。


コンクリートの壁が途切れ、その奥に古い階段が現れる。


「また階段」


「まだ下に行けるみたい」


階段は、今まで見つけたものより長かった。


「結構深そう」


「うん」


足音が長い階段に響く。


古い照明が、ところどころ残っているだけだった。


「今、どのくらい下りたんだろう」


「分からない」


「第五層から始まったんだよね」


「うん」


「じゃあ……」


「もう八層くらいまで来てたりして」


「八層?」


「だって、結構下りたよ」


「確かに」


「普通にありそう」


「でしょ?」


「でも、そんなに地下があるなら、昔はかなり大きな施設だったんだろうね」


「そうだね」


二人はそんな話をしながら、さらに階段を下りていった。


しばらくすると、階段が終わった。


「着いた」


目の前には、少し広い通路があった。


床には、ところどころタイルが残っている。


「ここ、今までより綺麗じゃない?」


「うん」


これまで歩いてきた場所よりも、建物がしっかり残っている。


通路の先には、いくつかの店が並んでいた。


「……また街?」


「みたいだね」


今まで見てきた地下街とは少し違う。


店は少ないが、ここには人が暮らしていた跡がかなり残っていた。


「ここ、本当に昔は人が住んでたんだね」


「うん」


雨宮さんが古い住宅を見上げる。


今の街にもあるものとほとんど変わらない。


「なんか、普通の街みたい」


「そうだね」


ずっと地下を歩いているはずなのに、ここだけは不思議なくらい普通だった。


その横には、今では使われていない公衆電話。


壁には、昔の店の看板。


「こういう場所、まだ残ってたんだ」


「うん」


「ここまで来ると、第五層からかなり離れた感じするね」


「うん」


「本当に八層くらいあるかも」


「だったら、今まで誰も知らなかったのも分かる気がする」


「ここ、昔の案内所かな」


表示板には、いくつか文字が残っていた。


「第……層」


「また階層表示」


「うん」


数字の部分には汚れが付いていて、ほとんど見えない。


「何て書いてあるんだろう」


「分からないね」


雨宮さんがライトを角度を変えて当てる。


「……二?」


「え?」


確かに、汚れの隙間から一本の線が見える。


「二……に見えるね」


「でも……」


「ここって、もっと下だよね?」


「うん」


「だったら二って変じゃない?」


「……確かに」


けれど、汚れがひどくて確信は持てない。


「たぶん、別の数字だよ」


「そうだよね」


「八層くらい来てるもんね」


「うん」


「そろそろ街の端なのかな」


「たぶん」


けれど、その壁の一部は崩れていて、その向こうには暗い空間が続いている。


「今日はここまでにしようか」


「うん」


「……やっぱり二に見える」


「私も」


「でも、そんなわけないよね」


「うん」


「だって、こんなに下まで来たんだから」


「そうだよね」


階段を上る。


しばらくすると、第五層へ戻る道が見えてくる。


「今日は結構進んだね」


「うん」


「明日は、あの先を見てみよう」


「そうしよう」


二人は地上へ戻った。


「じゃあ、また明日」


「……うん。また明日、灯」


「……今、名前で呼んだ?」


「え」


「……呼んだ」


「ふふ」


「じゃあ、私も」


「また明日、湊」


「……うん」


湊は歩きながら、今日見た表示板を思い出していた。


けれど、きっと見間違いだ。


そう思いながら、いつもの街を歩いていった。



第二十一章 街の終わり


翌日の放課後。


湊と灯は、いつものように学校を出ると、海底第一駅へ向かった。


第五層から始まった探索は、気づけばかなり深いところまで来ていた。


「昨日のところから、もう一回行ってみようか」


「うん」


二人は駅跡の地下へ入り、これまで何度も通った道を進んでいく。


第五層の古い商店街。


そこから続く保守用通路。


古い階段。


そして、昨日見つけた地下の街。


何度も歩いているはずなのに、下へ進むほど見慣れない景色になっていく。


しばらく歩くと、昨日見つけた古い街に出た。


昨日は気づかなかった場所を見ながら、二人はゆっくりと歩く。


「この街、昔はちゃんと人が住んでたんだよね」


灯が、古い住宅を見ながら言った。


「たぶん」


「なんか不思議だね。こんなところに街があったって」


湊は返事をしながら、周囲を見渡した。


昨日見つけた設計図。


昔の写真。


少しずつ、昔の街の姿が繋がってきているような気がした。


「……湊」


「ん?」


「これ」


灯が指差した先に、古い金属製の案内板があった。


表面には汚れが付着していたが、文字は昨日よりもはっきり見える。


「……第二層」


「第二層?」


「……ここ?」


確かに、昨日からずっとこの辺りを歩いている。


「でも……」


「うん」


「第五層より下に来てるよね」


「……そうだよね」


第二層


「普通なら、六層とかじゃない?」


「……たぶん」


「じゃあ、昔は番号が違ったのかな」


「そうかも」


湊も、それ以上は考えなかった。


昔の施設なら、途中で番号が変わったとしても不思議ではない。


少なくとも、今の二人にはそれくらいしか思いつかなかった。


「まあ……今は進もう」


「うん」


その先へ進むにつれて、街の様子は少しずつ変わっていった。


舗装された道も、ところどころ途切れている。


店の看板もなくなり、街灯も少なくなっていった。


代わりに増えてきたのは、むき出しになったコンクリートだった。


壁の一部が崩れ、その奥から灰色の岩肌が見えている。


「ここまで来ると、もう街って感じしないね」


「うん」


コンクリートの向こう側に見える岩は、これまで見てきた地下施設の壁とは明らかに違っていた。


そこから染み出した水。


しばらくすると、道の中央に小さな水たまりがあった。


湊は何気なくその横を通り過ぎようとした。


「……あれ?」


「どうした?」


「水、動いてない?」


湊も水たまりを見る。


水たまりの端から、細い水の筋が伸びている。


「床、傾いてるんじゃない?」


「そうかな」


確かに床は古く、ところどころ崩れていた。


水が流れていてもおかしくはない。


水は、床の低そうな方向ではなく、反対側へゆっくりと広がっていた。


「……変なところに流れてる気がする」


「?」


「いや、なんでもない」


湊自身、何が変なのか説明できなかった。


灯も少しだけ水を見つめていたが、


「古い場所だしね」


「うん」


さらに奥へ行くと、建物は完全になくなった。


そして、その道も少しずつ細くなっていく。


コンクリートの壁はところどころ途切れ、自然の岩肌へと変わっていた。


「……ここ、本当に街の中なのかな」


目の前には、街灯のない暗い通路が続いている。


ただ、岩の間に人が通れそうな道だけが残っていた。


「……まだ行けそう」


「行ってみる?」


「今日は、ここまでにしよう」


「珍しいね、湊が止めるの」


「……さすがに、準備した方がいいと思う」


「確かに」


「じゃあ、明日また来よう」


「うん」


遠くには、かすかに古い街の明かりが見えている。


その明かりを背にして、二人はゆっくりと歩き出した。


街の終わりには、まだ誰も知らない道が続いていた。



第二十二章 水の音


翌日の放課後。


湊と灯は、昨日見つけた岩の道へ向かった。


海底第一駅から地下へ入り、これまで歩いてきた道を進む。


第五層。


保守用通路。


そして、さらに下へ続いていた階段。


何度も通った場所を抜けると、昨日の最後に見つけた洞窟の入口が見えてきた。


「ここだね」


岩の壁が続いていて、その間を人一人が通れるくらいの細い道が伸びている。


「行こうか」


「うん」


二人は洞窟へ入った。


コツ、コツ、と靴音が響いては、少し遅れて戻ってくる。


しばらく進むと、人工物の気配が完全になくなった。


「本当に、ここまで来ると何もないね」


「うん」


岩の表面は湿っていて、小さな水滴がいくつも浮かんでいる。


その一つが、ライトの光を受けてきらりと光った。


水滴が落ちる。


その音が、洞窟の奥へ消えていく。


「……聞こえる?」


遠くから、水の音が聞こえていた。


けれど進むにつれて、だんだん大きくなっていく。


それに混じって、低く響くような音もする。


「滝かな」


「こんなところに?」


「行ってみよう」


「……」


そこには、巨大な空間が広がっていた。


壁には淡い光を放つ植物がところどころ生えていて、その光が岩肌をぼんやりと照らしている。


洞窟の中央には、大きな水の流れがあった。


滝だった。


湊は、しばらくそれを滝だと認識できなかった。


水が落ちていない。


水は――


岩の底から水が湧き上がり、そのまま細い流れとなって空中へ伸びている。


途中で無数の水滴に分かれ、霧のようになって広がっていく。


「……すご」


水滴が光を反射している。


一つ一つが小さな光の粒になって、暗い空間の中をゆっくり漂っていた。


その奥には、淡い青色の光が広がっている。


洞窟なのに、まるで遠くに空があるようだった。


「……綺麗」


「うん」


ここが地下だということ。


そんなことが、一瞬だけどうでもよくなった。


滝から離れたところに小さな水たまりがある。


そこにも水が流れ込んでいる。


けれど、その水も不思議なくらい静かだった。


「触ってみる?」


「……うん」


水は冷たかった。


手を離すと、水滴が指先から落ちる。


その水滴は一度だけ小さく跳ねてから、ゆっくりと上へ向かっていった。


灯も気づいていたのかもしれない。


それでも二人とも、しばらく黙っていた。


やがて灯が、滝の向こうを指差した。


「ねえ」


「ん?」


「向こうにも道がある」


見ると、滝の奥に岩の間を通る細い道があった。


その先は暗く、どこまで続いているのか分からない。


「……まだ先があるんだ」


「行ってみる?」


「今日はここまでにしよう」


「珍しい」


「明日も来られるし」


「そうだね」


二人はもう一度だけ、滝を振り返った。


上へ向かって流れる水。


空中に漂う光。


その光景は、しばらく頭から離れそうになかった。


「……また明日」


「うん。また明日、灯」


「うん、湊」


洞窟には、再び水の音だけが残った。


静かに。


どこか遠くへ向かうように。



第二十三章 流れの先


翌日。


放課後になると、湊と灯は昨日の洞窟へ向かった。


第二層の街を抜け、建物が途切れた先へ進む。


昨日と同じ岩の道をしばらく歩くと、やがてあの音が聞こえてきた。


――水の音。


少し先に、昨日の大きな洞窟がある。


水面に揺れる青白い反射。


そして、洞窟の奥から空へ向かうように流れていた、あの滝。


ただ、今日はその滝を眺めているだけではなかった。


「……昨日、あの奥に道があったよね」


灯が滝の向こうを見る。


「うん」


二人はゆっくりと滝へ近づいた。


水は地面から上へ向かって流れ続けている。


その脇を通り抜けると、滝の裏側に細い岩の道が見えた。


「行けそう」


「……うん」


そこから先は、昨日までの洞窟よりも狭かった。


足元には薄く水が流れている。


そして、その水の流れが妙だった。


「……ねえ」


「水、こっちに流れてない?」


二人が進んでいる道は、緩やかに下へ向かっている。


普通なら、水も同じように下へ流れるはずだった。


水は逆だった。


坂を下っているはずなのに、足元の水は坂を上っている。


「……昨日の滝だけじゃなかったんだ」


「うん」


しばらく二人で水を見つめた。


水は何事もなかったように、坂を上っていく。


湊は近くに落ちていた小さな石を、水の上に置いた。


石は一度、水の流れに押されて少し動いた。


「……やっぱり」


「変だね」


「うん」


水だけが上へ進んでいること。


洞窟は少しずつ深くなっていく。


後ろを振り返ると、滝の光が小さくなっていた。


「結構、深いね」


「うん」


「昨日よりずっと下に来てる気がする」


「実際、来てるんじゃない?」


「そうだよね」


しばらく歩いていると、今度は壁際に小さな水たまりを見つけた。


灯がその横を通り過ぎようとしたときだった。


一滴の水が、ぽつりと落ちた。


普通なら、そのまま水たまりに広がる。


けれどその水滴は、


「……今の」


「見た?」


「見た」


湊も水たまりを見る。


もう一度水滴が落ちる。


今度は普通に水面へ落ちた。


「……跳ねただけかな」


「たぶん」


さっきの水滴が浮いたように見えたのは、気のせいだったのだろうか。


歩いているうちに、湊は妙な感覚を覚えた。


疲れているはずなのに、いつもより歩きやすい。


灯も同じように感じたのか、何度か足元を見ている。


「……なんか変じゃない?」


「うん」


「でも、さっきより歩きやすい」


「俺も思った」


「……気のせいかもね」


「そうかも」


しばらくすると、道の先から水の音が聞こえてきた。


滝とは違う。


もっと大きな水の流れ。


二人が進むと、岩の隙間から細い川が現れた。


川は洞窟の奥から手前へではなく、


二人が来た方向へ向かって、坂を上っている。


その先には、さらに下へ続く道があった。


「……まだ下がある」


「うん」


「行こうか」


二人は川を横目に、さらに下へ向かって歩き出した。


その横を流れる水だけが、


二人とは反対の方向へ、


静かに上っていった。



第二十四章 さらに下へ


湊と灯は、細い岩の道を歩き続けていた。


足元には、昨日から続いている水の流れがある。


相変わらず、水は二人が進んでいる方向とは反対へ流れている。


それを横目に見ながら、二人は歩いていた。


やがて、道の傾斜が少しずつ緩やかになってきた。


「……坂、終わるのかな」


「たぶん」


確かに、さっきまで下っていた道が、だんだん平らになっている。


「……平らになったね」


「うん」


けれど、そこには長い岩の道が続いているだけだった。


「結構下ってきたはずなのに、変な感じ」


「そうだね」


二人は少し休んでから、また歩き始めた。


足元を流れていた水が、少しだけ速くなった。


さっきまで坂を上っていた水が、


「……あれ?」


灯が水を見る。


「さっきと流れ、変わった?」


「……道が平らになったからじゃない?」


「そうかも」


水は地面に沿って流れている。


そして、坂がないにもかかわらず、石は自然に一方向へ転がっていった。


「……普通だ」


「何が?」


「いや……なんでもない」


さっきまで石は、水と同じように妙な方向へ動いていた。


水も。


湊はなぜか、少しだけ違和感を覚えていた。


しばらく歩くと、灯がふと立ち止まる。


「……ねえ」


「ん?」


「私たち、ちゃんと下に進んでるよね?」


「……たぶん」


「たぶん?」


「ほら、道が続いてるから」


「それもそうか」


湊のポケットから、小さな硬貨が落ちた。


水も。


何もかもが、当たり前のように地面へ向かっている。


さっきまで上へ流れていた水も、


「地面」の向きだった。


重力そのものが反対を向いていることを。


二人が「下」だと思って歩いている方向は、


もう以前の世界でいう「下」ではないことを。


そして洞窟の先には、


まだ見たことのない世界が続いていた。



第二十五章 洞窟の奥へ


湊と灯は、何も言わずに歩いていた。


足元には、細い水の流れがある。


さっきまで水は二人の進む方向とは反対へ流れていたが、今では進む方向に流れている。


けれど、いつの間にかそれも普通のことになっていた。


さっきまでなら立ち止まっていたかもしれない。


けれど今は、二人とも特に気にしていなかった。


水は水。


ただ、いつもよりずっと深い場所にいる。


「……まだ続いてるね」


「うん」


洞窟は、少しずつ広くなっていた。


壁は湿っていて、ところどころに古い金属製の管が埋まっている。


街の地下にあったものと似ている。


けれど、今まで見てきた設備よりずっと古い。


「昔の施設なのかな」


「たぶん」


錆びた金属の板が、岩の中から少しだけ突き出していた。


「……何か書いてある」


灯がスマートフォンのライトを向けた。


「……連……絡……」


「連絡?」


「たぶん」


すると、壁に埋め込まれた大きな扉が現れた。


扉というより、古い通路の入口だった。


その上に、小さな金属製のプレートが取り付けられている。


「これ……読める」


錆びたプレートには、かろうじて文字が残っていた。


――地上連絡路。


「……地上?」


「うん」


地上。


図書館の歴史資料。


昔の文章。


そういうところで、何度か見たことがある。


「地上って……何なんだろう」


「上の方、じゃない?」


「でも、ここから上に行く道じゃないよね」


地上連絡路。


その先へ続いているのは、さらに奥へ向かう道だった。


「……変だね」


「うん」


地上。


現在の街で「地上」という言葉を使うことはほとんどない。


少なくとも、湊たちの日常では聞かない言葉だった。


街の上には海がある。


地上と言われても、


「昔の人が使ってた言葉なのかな」


「そうかも」


「じゃあ、この道も昔のもの?」


「たぶん」


二人は扉の向こうを覗いた。


中には、古い通路が続いていた。


「……行ってみる?」


けれど、ここまで来て引き返す理由もなかった。


「うん」


二人は通路へ入った。


壁には、ところどころ古い文字が残っていた。


しばらく歩くと、通路の床に線が引かれているのが見えた。


「これ、道案内かな」


「かもね」


すると、先ほどまで薄暗かった通路が、少しずつ明るくなってきた。


「……明るくなってる」


「うん」


その先には、さらに大きな空間があるようだった。


今までの洞窟とは違う。


「地上……って、本当に何なんだろうね」


「さあ」


「でも、行けば分かるかもしれない」


地上連絡路。


今まで二人が知っていた「世界」というものを、


少しずつ変えていくことを。



第二十六章 地上連絡路


古いプレートに書かれていた言葉を、湊は何度も頭の中で繰り返していた。


二人は、そのまま通路の奥へ進んでいた。


ほとんどは壊れていたが、いくつかはまだ弱い光を灯していた。


「こんなところにも電気が通ってるんだね」


「昔の設備なのかな」


「たぶん」


通路は思ったより長かった。


しばらく歩いていると、壁に小さな案内板が現れた。


「また何かある」


案内板には、いくつかの文字と矢印が残っていた。


――地上連絡路


「やっぱり、ここが地上につながってるんだ」


「でも……」


「地上って、下にあるのかな」


「分かんない」


「昔は今と違ったのかもね」


「そうかも」


通路は少しずつ傾いていった。


緩やかな坂を下っていくと、人工的だった壁が途切れた。


コンクリートの代わりに、岩肌が現れる。


「……洞窟に戻ったね」


「うん」


けれど、完全な自然の洞窟ではなかった。


岩の壁には、ところどころ古い金属の部品が埋まっている。


誰かがここを通っていた跡だけが残っていた。


「湊、これ」


その上に広がる大きな青。


そして、その青の中に浮かぶ白いもの。


「……何だろう、これ」


「分からない」


青い場所の中に、いくつも浮かんでいる。


「海の中に、白いものが浮いてるのかな」


「そんな海、見たことないよ」


「だよね」


二人には、それが何なのか分からなかった。


ただ、今まで見てきた海とは違う。


「昔の人が描いた想像の景色かも」


「そうかもしれないね」


けれど、その一番下に数字が残っていた。


「……これ」


第一層。


「……第一層」


「じゃあ……」


「第五層から来て、第二層まで行って……」


「その先が、第一層」


「……本当に、第一層なんだ」


これまで、深くなるほど数字が大きくなると思っていた。


だから第五層の先には、第六層があると思っていた。


二人は、その一番小さな数字の場所にいる。


「……ここが、一番下なのかな」


「たぶん」


「でも、まだ先がある」


「うん」


第一層。


さらに奥へ進むと、洞窟が急に広くなった。


冷たい空気が、二人の頬を通り抜けていく。


「……風?」


「うん」


今までの地下では感じたことのない風だった。


けれど、それが何なのかはまだ分からない。


第一層。


湊はふと、さっきの壁画を思い出した。


青い場所。


そんな気がした。


二人は何も言わずに、光の方へ進んでいった。



第二十七章 海の底の世界


光の見える方へ、僕たちは歩き続けた。


第一層の最深部。


そう書かれた場所を越えてから、もうしばらく経っている。


洞窟の中は静かだった。


水の音も、さっきまでより遠い。


「……ねえ、湊」


「ん?」


「道、ちょっと変じゃない?」


今まで歩いてきた道は、ほとんど平らだった。


「……上ってる?」


「たぶん」


第一層まで、ずっと下へ下へと進んできた。


今までなら、それだけで引き返していたかもしれない。


「地上連絡路って書いてあったし」


「うん」


「もしかしたら……」


そこから、白っぽい光が差し込んでいた。


「本当に、地上につながってるのかも」


洞窟の壁は少しずつ低くなっていった。


「……風?」


「うん」


でも、今まで地下で感じていた冷たさとは違う。


どこから来ているのか分からない風が、坂道を下って僕たちの方へ流れてきていた。


「行こう」


「うん」


歩くたびに、洞窟の景色が変わっていった。


岩ばかりだった壁に、少しずつ土が混じり始める。


足元も硬い岩から、柔らかな地面へ変わっていく。


道の端から、小さな緑色のものが伸びている。


「……これ」


「植物……かな?」


「たぶん」


海底都市にも植物はあった。


光は、もう懐中電灯がいらないほど明るくなっていた。


しばらくすると、前方に大きな穴が見えてきた。


洞窟の出口だ。


その向こうには、白い光が広がっている。


「……出口」


土と草の混じった、見たことのない地面。


「……ここが?」


「地上……?」


海底都市では、こんな風は吹かなかった。


目の前いっぱいに、青が広がっていた。


どこまでも続く青。


海の色とは違う。


僕たちが知っている海は、もっと暗く、深く、遠い。


その青の中には、白いものが浮かんでいた。


昔の壁画で見た、あの白い形。


「……何、あれ」


「……分からない」


僕たちは、ただ空を見上げていた。


――空。


僕たちがずっと「海の底」だと思っていた世界の、その先に。


僕たちがずっと「上」だと思っていたものは、


草が揺れた。


そして僕たちは、誰も知らない世界の中に立っていた。



第二十八章 いつもの場所


僕たちは、地上に出た。


それから、しばらく動かなかった。


どれも、今までの街では知らなかったものだった。


でも、僕は足元よりも、その先を見ていた。


そこには、青があった。


「……」


海底都市で見上げていたものとは、まるで違う。


僕たちが知っている海は、暗かった。


街のずっと上に広がっていて、遠くを見るほど青黒くなっていた。


街の明かりが、その向こうにぼんやりと見えることもあった。


それが、僕たちにとっての「上」だった。


「……青いね」


「うん」


「海……なのかな」


「分からない」


「でも、海の底にいる感じはしない」


「……そっか」


灯は空を見上げたまま、少し笑った。


その笑い方は、学校にいるときとも、地下を歩いているときとも少し違った。


「なんか……好きかも」


「ここ?」


「うん」


ただ、草があって、風が吹いていて、ずっと上に青いものが広がっている。


「静かだし」


「うん」


「街とは全然違うけど」


「うん」


「……落ち着く」


ここには、僕がいつも歩いていた道もない。


「俺も、好きかも」


そう言うと、灯がこっちを見た。


「ほんと?」


「うん」


「湊も?」


「うん」


「じゃあ、ここ好きな場所にしようよ」


「好きな場所?」


「うん」


「……いいね」


「でしょ?」


灯はまた空を見上げた。


青の中を、白いものがゆっくり動いていた。


ここが本当に何と呼ばれている場所なのかも知らない。


僕たちがずっと暮らしてきた海の底の世界とは、まったく違う場所だった。


それなのに、不思議と懐かしいような気がした。


「ねえ、湊」


「ん?」


「また来ようよ」


「……うん」


「今度はもっとゆっくり見たい」


「学校終わってから?」


「そう」


「結構遠いよ」


「でも来たい」


「じゃあ、また来よう」


「うん」


この場所が、この先何度も訪れる場所になることを。


ここへ来て、同じ景色を眺めるようになることを。


でも僕たちは、その場所をもう好きになり始めていた。


青の中を、白いものがゆっくりと流れていく。


そして、僕はこの場所を、


「いつもの場所」だと思った。



終章 海の底の世界


あれから、少し時間が経った。


僕たちは、何度もあの場所へ行った。


たまには何も言わずに、そのまま地下へ向かうこともあった。


第五層を通って。


古い通路を抜けて。


第二層を越えて。


第一層まで下りる。


最初の頃は、それだけでも大冒険だった。


「今日、どこ座る?」


「いつものところ」


「やっぱり?」


「うん」


地上に出る。


座ると、目の前には青が広がる。


最初に見たときは、あまりにも広くて、何も言えなかった。


もう、ここは「知らない場所」ではない。


「今日もいるね」


灯が空を見上げる。


「うん」


白いものが、青の中をゆっくり動いている。


どうして空が青いのかも分からない。


僕たちが知っているのは、ここから見る景色だけだった。


「ねえ、湊」


「ん?」


「地上のこと、誰かに話したことある?」


「ない」


「私も」


「なんか、言わなくてもいい気がする」


「うん」


ここは、僕たち二人だけが知っている場所だった。


ただ青いものが広がっていて、風が吹いている。


僕は空を見上げた。


どうして僕たちは地下にいるのか。


どうして世界は、こんなふうになっているのか。


世界には、自分たちが知らない場所がある。


「……そろそろ帰ろっか」


「うん」


青い景色が、そこにある。


「また来ようね」


「うん」


青い景色が、少しずつ遠くなる。


やがて、暗い海底の街が見えてくる。


ここは、間違いなく海の底だ。


海の底に街があって。


その上に海があって。


海の底だと思っていた場所の、さらに下へ進んだ先に。


青い場所があった。


どこまでも広がる、知らない世界があった。


最後に見つけたのは、ずっと上にあったものだった。


でも、もうそれを確かめようとは思わなかった。


暗い海の底で、小さな光がいくつも灯っている。


それは、昔と何も変わらない。


あの青い場所も好きだった。


「ねえ、湊」


「明日も行く?」


「……うん」


「たぶん」


海の底の街へ。


そのずっと下にあると思っていた場所は、


それでも僕たちは、明日もきっとそこへ行く。


海の底の街で暮らしながら。


海の底ではない場所を、二人だけの「いつもの場所」として。


――また明日。


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