Happy End Lost
生まれた時から、自分は欠けているのだと理解していた。
◆
一体何を通らせる予定があるのかさえ不明なほど広く長い廊下を、リリージャンは靴底でカーペットごと踏み潰しながら進んでいく。
等間隔で飾られた花瓶。屋敷の区画ごとに壁を彩る絵画。繊細な細工が施された扉。どれもが上品な佇まいだ。楚々とした顔付きで屋敷の中を装飾している。だがそれも、国内で三家しかない公爵家の一角であるのだから、ある意味当然のことと言えた。
不意に、進行方向前方に二つの影が立ち並ぶ。
「あら……?」
扉から姿を見せたのは侍女を従えた一人の女だ。深緑のドレスに身を包んだ女が、リリージャンを見つめている。
ついてないな。リリージャンは素直にそう思った。
「……ご機嫌よう、姉上」
「ええ、ご機嫌ようリリージャン」
栗色の髪、青い双眸。女はリリージャンの姉だ。フロメリア・スミシュカ。ホッジズ公爵家の長子にして長女である。
「今日はついているわね」ころころと笑ってフロメリアが続ける。「まさか朝一番に貴方と会えるだなんて」
「……そうですか」
ああ、本当にない。まさか朝からお前に会うなんて。
リリージャンは奥歯を擦り合わせた。間違っても、考えていることが形にならないように苦心する。
低い声で応えながら、しかしリリージャンは歩みを止めなかった。速度を落とす素振りも見せずに足を動かす。その速さは、決して女性を伴って歩くための速度ではなかった。どちらかと言えば、相手を振り払うための速度である。
「もう、リリージャン。それでは早すぎるわ。一緒に歩く人のことを考えないと駄目よ」
年長者らしく叱るフロメリアの声に、リリージャンの表情が冷えていく。眼差しはすでに凍えており、温度がまるで感じられない。目には疎ましい気持ちが滲んでいた。
「……姉上。おそらく我々の目的地は異なりますよ」
「え?」
「私は食堂へは向かいません」
リリージャンは歩くスピードを落とした。フロメリアと十分距離が空いていることを横目で確認する。二人の間には、たとえフロメリアが転倒してもリリージャンの手が届かないほどの距離が開いていた。
「私は花をプレゼントしに行きます。なので、別行動がよろしいかと」
リリージャンが優しく微笑んだ。花を贈る相手を脳裏に思い描き、まなじりが柔和になる。
その一方で、フロメリアの表情は硬直した。傍にいた侍女も、あからさまに表には出さなかったが肩が強張っている。
「……リリージャン、あなた……」
その先が言葉になることはなかった。リリージャンとフロメリアの間に沈黙が横たわる。奇妙な静けさが辺りに漂った。
「そう言えば姉上。王太子殿下とのご関係はいかがですか?」
「え……?」
突然の方向転換について行けないフロメリアを置き去りに、リリージャンはわざとらしいほど明るい声を出した。
「王太子殿下との成婚まで、もう半年もありません。妃教育やお仕事など、色々とお忙しいのでは?」
「あ、その……」フロメリアはぎこちない顔で微笑んだ。「そうね。やらなくてはいけないことが色々あって、いくら時間があっても足りなく感じるわ」
「そうですか」
素知らぬ顔で答える一方で、我ながら白々しいものだとリリージャンは思った。
――世間では、フロメリアは夢見の姫と呼ばれている。
なんでも、幼少のみぎりに様々な予言を授かったらしい。神の言葉を代弁しているのだと謳っては、国の危機を回避し続けたのだと言う。
だがそれも、あと少しの話だ。
「では、やはり別行動にいたしましょう。今の姉上には、時間がいくらあっても足りないでしょうから」
「で、でもっ」
「姉上」リリージャンは被せるように言った。「私はこれでも、殿下と姉上の婚姻を応援しているのです。だって、昔からの夢でしょう?」
生まれてすぐの赤子を殺すくらいには。
リリージャンは一つも声に出さなかった。しかし何かを感じ取ったのか、フロメリアの表情が凍り付く。セメントで塗り固められたのかと思うほど、不自然な笑顔がぶら下がった。
「り、リリージャン……っ」
「さあ、姉上。急いで妃教育やお勤めに励まないと。今の体たらくでは、成婚が遠のいてしまいますよ」
ついにフロメリアが絶句した。幽鬼のような顔がリリージャンの方へと向けられる。しかし、リリージャンにはまるで関係がないことだった。
酷いことなど何もしていないとでも言うように、リリージャンはまるい微笑みを浮かべる。
「頑張ってください、姉上。貴女がウエディングドレスを着る瞬間を、私はとても楽しみにしているのですから」
◆
簡単な話だ。
リリージャンは生家であるホッジズ公爵家の全てが憎い。ただ、それだけの話である。
「さっきのは刺激しすぎじゃない?」
空気に溶けそうなほど淡い声が、リリージャンを優しく窘める。不機嫌を敷き詰めたような面持ちでリリージャンは首を傾けた。
「どこが?」ついでのようにリリージャンが唇を尖らせる。「俺はいつもあれくらい腹底を刺激されているし、侮辱されているって思ってるけど?」
「でも、すごい顔していた」
「ハッ」
リリージャンは鼻で笑った。淡い声を一蹴する。先ほどフロメリアが進んでいった方向とは真逆の方へ足を動かし始めた。再び靴底でカーペットを踏みつけていく。
「……相手はこの国一番と名高い美姫だよ?」
「関係ないね」
フロメリア・スミシュカは、蝶よ花よと育てられたホッジズ公爵家の姫だ。国内に三家しかない公爵家の一角を担う家門の娘であり、直系唯一の女児である。その上、神から予言を授かれるただ一人だ。
高貴な生まれ。替えの効かない能力。特別な存在。夢見の姫と世間を賑わせては、褒めそやされて暮らしてきたのだ。フロメリアが望んで手に入らなかったものなど、今までほとんどなかったに違いない。たった一言で王太子殿下の婚約者の座に収まったことこそが、その証左だ。
恍惚の笑みを浮かべるフロメリアの姿が、リリージャンの脳裏に蘇る。醜い女の姿だった。
「……俺からしたら、あの女が綺麗な顔していた瞬間なんか一秒もないよ」
リリージャンはうんざりとした様子を隠さなかった。舌打ちはなんとか飲み込んだものの、宝石のように青い目には嫌悪の色が混ざっている。
その隣で、淡い声が空気に転がった。
「私の兄弟は容赦がないなあ」
リリージャンは吐き捨てた。「当然だろ」
脳裏で笑うフロメリアの姿が幼くなる。憎しみの眼差しをさらす幼女にまで姿を変えたところで、リリージャンは低い声を引きずり出した。
「あの女は、きみを殺したんだから」
ついにリリージャンが足を止める。そのまま体を半回転させた。幻影のように半透明姿の、リリージャンと瓜二つの少女と向かい合う。少女は仕方がなさそうに微笑んだ。
「……今、生きてるよ」
「でも人間じゃない」間断なくリリージャンが続ける。「きみは……リリーヴェルは今、妖精だろ」
フロメリアが予言を授かれると言われる所以は、異種族が良き隣人として暮らしているところから始まる。
妖精、人魚、獣人。滅多にお目にかかれないが、聖獣だって存在する世の中だ。いわゆる奇跡を呼び起こす人間が稀に誕生しても、何ら不思議ではない。むしろ過去に実在したからこそ、フロメリアの存在は受け入れられているのだ。
「そんな私はやだ?」
「好きだよ」リリージャンは言葉を重ねた。「きみはこの大陸で一番可愛い、一人しかいない俺の兄弟だもの」
リリーヴェルはぽかんとした。一拍の間を置いて、真っ白い頬に赤みが差す。
「私の兄弟は、恥ずかしいこと言うなあ……」
一方で、おかしなところは何もないと言う顔でリリージャンが答える。
「はあ? どこが? 伝えられるときに伝えているだけじゃないか」
それはリリージャンにとって揺るぎない真実だった。生まれて幾ばくもなく半身を失い、苦しみの底で再会したからリリージャンだからこそ、理解している現実である。
リリージャンは手を差し出した。手のひらをリリーヴェルに向け、細い指先が触れてくるのを待つ。
「ほら、手を繋ごうよ」
もう二度と、離ればなれにならないように。
「……私はきみが心配だよ、兄弟」
「俺は何も心配してないよ、兄弟」
リリーヴェルの指先が手のひらに落ちる。半透明の指を包み込み、すり抜けないように力を込めた。にこりと笑う。
「きみが……俺のたった一人の兄弟が傍にいて、手を繋いでるんだ。何があっても大丈夫に決まってる」
どこか照れたような笑顔だった。眉尻を下げたまま、リリージャンは頬を赤らめている。夢見心地の青い目がきらめいた。
足音に踏みつけられるほど小さな声でリリーヴェルが呟く。
「……だから、心配なのに」
リリージャン・スミシュカ。ホッジズ公爵家の嫡子であり、フロメリアの弟であり、そして未来の公爵だ。
けれど、リリージャンは生家であるホッジズ公爵家の全てが憎かった。リリージャンの双子として生まれたリリーヴェルを殺したフロメリアが、特に。
だから苦しめたい。
だから不幸にしたい。
だから罪人に貶めたい。
リリージャンにとっては、ただそれだけの話だった。
◆
物心がついた頃には、リリージャンはフロメリアが異常だと悟っていた。
その一方で、実の妹を殺すよう指示しておきながら、平然としていられるはずがないとも思っていた。実父に向かって妹を殺せと言い放ち、それでいてなお、後ろを振り返らずに生きていけるはずがないと。
しかしそれは、ただの儚い幻想だったのだ。
乙女ゲーム、攻略対象、個別ルート、攻略法。全てフロメリアが口にした意味のわからない単語だ。一人きりだと思い込んでは何度も呟いていた。
当然、リリージャンは不気味がった。幾度となく不可解な場面に遭遇し、やがて理解した言葉があった。それが、ヒロインと悪役令嬢である。
――この世界のヒロインは、わたくしの妹。でも、もう大丈夫。わたくしが悪役令嬢になることはないわ。
フロメリアは心から安堵したようだった。幸せを掴んでいる面持ちを隠しもしなかった。
――だってヒロインはもう、この世界に存在しないもの。
「ぅ、……っ」
心臓を握り潰された。フロメリアに背を向けながらリリージャンは思った。
「……リリージャン?」
背中からリリージャンに向かって声が飛ぶ。フロメリアのものだ。音がしそうなほどの勢いで振り向いたリリージャンを、不思議そうな顔でフロメリアが見つめている。
青い目だった。リリージャンと、いや、リリーヴェルと同じ、宝石のような青い目だ。
「――ぁ、」
唐突に目眩がした。赤黒い感情が瞼の裏を焦がしていく。チカチカと点滅する疑惑と不実、現実を前に、リリージャンはじりじりと後ずさる。防衛本能だった。
「リリージャン⁉」
背後から飛んでくる声を撥ね除けるように、リリージャンは走り出した。フロメリアに背を向けて、がむしゃらに足を動かし続けた。
嘘だ。
足を捌く。廊下を駆け抜ける。息が切れるのも構わず走り続ける。
嘘だ。
リリージャンは一心不乱だった。瞬く間に屋敷を抜け出し、庭へ飛び出す。
嘘だ。
呼吸の間隔が狭まっていく。無理やり走っているせいで肋骨が痛む。頬が弾く風が痛いくらいだった。視界が歪む。しかし、リリージャンは止まれなかった。
走る。走る。走る。
庭を抜けて屋敷の裏へ進んでいく。人の気配を振り切っていく。他の誰もいない場所までリリージャンは走り続けた。
フロメリアはリリージャンの姉だ。そしてリリーヴェルの姉でもある。いくら予言を授かれるのだとしても、血の繋がった家族である。だから、だから。
――嘘だ。
本当に?
リリージャンの足が止まる。その場に倒れ込んだ。頽れる。
「あ、ぁああ……っ」
家族だ。フロメリアはリリージャンの姉であり、リリーヴェルの姉でもある。血の繋がった、両親を同じくする家族のはずだ。
だから、聞き間違いであってほしかった。疑う余地もなく信じさせてほしかった。芽生えた疑心を確固たる事実で否定してほしかった。
けれど。
「リリーヴェル……っ」
――間違いであるのなら、あの憎しみに満ちた眼差しは何だった?
「きみ、大丈夫?」
リリージャン目を見開いた。俯いていた顔を勢いよく持ち上げる。周囲を木々が囲い込んだ人気のない丘の上。リリージャンは夢を見ているのではと錯覚を起こした。声を呑む。
「ぁ……」
新雪のようにうつくしい白。
宝石のようにきれいな青。
光りを束ねて煌めく金。
「……リ、リーヴェル……?」
はたして、視界の先にいたのはリリージャンと瓜二つの少女だった。違うところがあるとすれば、それは淡い光りを帯びた金色の長い髪だけだろう。
リリージャンと瓜二つの少女が首を傾げる。
「きみ、だあれ?」
その瞬間、リリージャンを襲ったのは激情だった。
「お、れ……は……っ」
新雪のようにうつくしい白。宝石のようにきれいな青。光りを束ねて煌めく金。それでいて、リリージャンと瓜二つの全く異なるただ一人。
――俺の半身。
リリージャンは下唇を噛んだ。血が出る寸前で力を緩める。そのまま数回、深呼吸を繰り返した。目尻に力を込めて少女に向き合う。
少女は、今にも血を流しそうだったリリージャンを心配そうに見つめていた。
「信じてもらえないだろうけど……俺はきみの……あなたの、弟で、兄で……家族だった」
「ぇ……」
「生まれてすぐ……奪われて、しまったけれど……」
あの日を、忘れることはないだろう。リリージャンは思い返す。姉を、妹を、半身を奪われた、あの日の出来事を。
「きみの……あなたの生まれは、雪解けの日。春を迎えたばかりの頃」
その日、ホッジズ公爵家は緊張感に包まれていた。
厳しい顔をしたフロメリア。悲愴に沈む公爵。泣いて懇願する公爵夫人。それぞれの主人を思い俯く従者に侍女、執事たち。
全員が、数日前に生まれた双子を見つめていた。その瞼が開かれる瞬間を見守っていた。そして宝石のようにきれいな青を見た瞬間、ホッジズ公爵家は震撼した。
「……俺の姉は、妹は……俺たちの姉によって、厄災を招くと予言された存在だった」
リリージャンが覚えている最初の記憶は、フロメリアが憎しみの眼差しでリリージャンの隣りを指さしている姿だ。
――これは禍罪の子。決して生かしておいてはいけません。
――お願いします、公爵様。この子は何も、何もしていません。ただわたくしたちが望み、そうして生まれてきてくれただけです。どうか、どうか。
――公爵様、ご決断を。この国を、未来を守るのは、貴き生まれの役目です。
断じる声。懇願する声。促す声。子どものものから老人の声まで、あらゆる声が公爵の元に迫った。英断を、未来を、正しい選択を。正義で武装した言葉を前に、公爵の心は擦り切れていった。抵抗できる猶予はどこにもなかった。
結局。公爵は雨が吹きすさぶ中、赤子を一人抱えて屋敷を飛び出した。戻ってきた時には、腕の中は空っぽだった。
「災いの種は摘まなければ。公爵様は、そう自分に言い聞かせていたらしい」
そうして出来上がったのが、今の歪なホッジズ公爵家だ。
夢見の姫として公爵家を操るフロメリア。罪悪感から仕事に没頭する公爵。幼い娘を守れなかったと傷心したままの公爵夫人。そして、公爵家を憎む嫡子のリリージャン。
――本当はわかっていた。
自分がフロメリアを家族だと思えていないこと。リリーヴェルの命を奪ったのはホッジズ公爵家であること。信じたい気持ちの裏側で憎しみが育っていたこと。その全てを、リリージャンはわかっていた。ただ見て見ぬ振りをしていただけで。
だからこんなにも、心が固まっているのだ。
悪役令嬢はフロメリア。
ヒロインはリリーヴェル。
ならば、その通りにしよう。夢見の姫が言うのだ。それはきっと、予言の類いに違いない。
「それで……そのせいで、きみは……」
俺の半身。俺の家族。俺にとって、たった一人残った大切なひと。もう二度と、触れることも相まみえることも叶わなかったはずのきみ。
――あんな女の世迷い言のせいで。
「……きみ、」
どこか唖然とした少女の声をリリージャンが遮る。「ねえ、きみ」
「えっ?」
「きみは今、苦しんでない?」
「は……」
「辛くない? 酷い目に遭ってない? 悲しい思いをしていない?」
矢継ぎ早に問うリリージャンを前に、少女は数回瞬きをした。答えようと唇を動かし、そして思いとどまったように口を噤む。
少女は体勢を崩した。両膝を地面に密着させ、上半身をリリージャンの方へ乗り出す。
「……私がそれに答えたら、きみはどうするの?」
一拍の間、空白が落ちる。
次いでリリージャンは視線を落とした。白く細い指先を咄嗟に掴む。
「どう……」たどたどしい声で続ける。「どう、しようかな……」
風が吹く。草花が舞い散る。髪がなびく。服の袖をひるがえしながら、このままどこかに消えてしまいそうだと少女は思った。
「……死んじゃうの?」
「……わからない」
「わからない?」一秒の躊躇の後、少女が囁く。「……どうして?」
空気に溶けるように頼りない声だった。少女のものだ。リリージャンと瓜二つで、けれども決定的に異なる存在が絞り出したものだった。
リリージャンの視界が歪む。目の奥に火が灯り、じりじりと焼け付いていく。まるで主導権を奪われたかのように五感が遠ざかる。睫毛の先に涙が引っ掛かる。喉骨を押されたように、呼吸が苦しかった。
内臓から絞り出すようにリリージャンが喘ぐ。
「だって、きみがいない……」
俺の半身。俺の家族。俺にとって、たった一人残った大切なひと。きみ以外、俺に残ったものは何もないのに。
「きみが……っ、どこにも、どこにもいないんだ……!」
リリージャンが顔を持ち上げた。涙が残る目尻を拭うことなく、捕まえたままの少女を見つめる。唇を噛み締める少女と視線が絡んだ。息を呑む。
少女は今にも泣き出しそうだった。
「え……」
「なんで……」少女が掠れた声を零す。「なんで、覚えているの……」
その瞬間、時間が止まった。
少なくとも、リリージャンにとってはそうだった。
「……リ、リーヴェル……?」
「きみ、ばかだよ」
リリージャンの体が硬直する。目を皿のように大きく見開き、信じられないものを見るような顔をさらす。白い頬を涙が滑り落ちていく。
――これが夢なら、もう醒めたりするな。頼むから。
細いばかりの腕がリリージャンを抱きしめる。低い温度を生地越しに感じてリリージャンの顔が歪んだ。ああ。
「っ……ほんと、ばかだなあ……」
ああ、そうかもしれない。
けれどリリージャンにとって、もはや全てが些事だった。この腕に抱き留めている存在だけが大切だった。真実だった。
「リリーヴェル……!」
涙が零れる。嗚咽が漏れる。視界が滲む。愛しくて。
「ぅ、……リリーヴェル……」
「リリージャン……」
俺の半身。俺の家族。俺にとって、たった一人残った大切なひと。もう二度と、触れることも相まみえることも叶わなかったはずのきみ。
「あいたかった」
その日。
リリージャンは涙が涸れるほど泣き暮れた。泣いて、縋って、細い体を時間が許す限り抱きしめ続けた。十二歳の雪解けの日だった。
◆
リリージャンがフロメリアに何か言うことがあるとすれば、それは一言だけである。
会場を光り輝かせるシャンデリア。
光りを差し下ろすステンドグラス。
王宮にある舞踏会場の奥。玉座を中心に左右対称で並んでいるのは王宮音楽隊だ。ヴァイオリンにチェロ、フルート等々。会場を盛り上げるために王宮が準備した彼らは傍目から見ても一流だろう。そうでなければ、今この場で細々と楽器を操れるはずがない。
「フロメリア・スミシュカ。いい加減、自分の過ちを認めるんだ」
辺りは硬直していた。会場のほぼ中央で、一組の男女が対峙している。この国の王子とフロメリアだ。
王子は沈んだ面持ちでフロメリアを見つめていた。その一方で、フロメリアは忙しなく視線を動かしている。右へ左へ、再び右へ。同じ動きを何度も繰り返した。
「殿下、一体何を……」
フロメリアの声は震えていた。顔色もどこか青白い。だがそれは、王子も同じだった。
「君はもう、予言を授かれないのだろう?」どこか青白く、そして血の気の引いた顔で王子が続ける。「この数年の間に、君が予言を授かったことは一度もない」
会場が静まり返る。ヴァイオリンにチェロ、フルート等々。その全てが沈黙した。冷や水を浴びせられたような静けさに、フロメリアの表情が張り詰める。
世間では、フロメリアは夢見の姫と呼ばれている。
王妃の病気。国境付近での争い。反逆を企てる貴族の動き。初めて聞く疾病。全てフロメリアが授かったとされる予言だ。この予言を元に、この国は幾度となく危機を乗り越えてきた。
だがそんな夢のような力は、成人前に突然姿を消したのだ。
フロメリアが初めて予言を授かったのは齢五歳。それからほぼ毎年のように予言を授かっては国に進言してきた。この進言が止んだのは、フロメリアが十六歳になった年である。
――どうしよう、設定と全然違う。
そう言ってフロメリアは俯いていた。
「……夢見の、力は……っ」
疑心、不信、嫌疑。様々な視線を一身に受けながらも、フロメリアは声を振り絞った。縋るような目を向けられ、王子の目尻に力が籠もる。
「このことについて、君一人を責められる立場に我々はいない」
神から授けられる予言とは、曖昧なものがほとんどだ。いつ、どこで、誰が、何を、どうするか。そんな詳細が告げられることは、本来あり得ないことだ。
そんな中、フロメリア・スミシュカが授かった予言は全て本物だった。だからこそ、周囲から向けられた眼差しは重いものだったに違いない。
完全な予言。
完璧な予知。
人知を超える奇跡の力など、人の手に余ることは明らかだ。
「しかし、君が犯した罪は別の話だ」
「犯した罪……?」
フロメリアは驚愕した様子だった。言われた内容を深く理解できていないまま、力ない声で繰り返している。
「君は予言だと言って幾人もの民を窮地に追いやり、また死へ至らしめた」
「そんな! 違いますわ!」フロメリアは弾かれたように声を上げた。「わたしくは、決してそのような非道な行いなどしておりません!」
ただ、知っていることを告げただけだ。少なくとも、フロメリアにとってはそうだった。
その結果、誰の命が散り去ったかなど、フロメリアの及ぶ範囲ではなかった。
「リリーヴェル・スミシュカ」
「――え」
フロメリアはいよいよ顔色をなくした。病的なほど白くなる。青褪めた唇が震えていた。
「君が最初に殺した、妹の名前だ。覚えているだろう?」
その瞬間、フロメリアは会場を見渡した。血走った目で周囲を睨み、視線を滑らせていく。今の状況に陥った原因について、一人だけ心当たりがあったからだ。
「……君の今の行動が、私の問いへの答えだ」
「ち、違います殿下! わたくし、本当に――」
「やめてくれ……っ」
王子にとって、フロメリアはかけがえのない人だった。幼い頃に婚約を結び、そして共に歩んできた。共有してきた時間も、積み上げてきた思い出も、決して少なくない。
愛していた。
大切だった。
信じていた。
だからこそ、許すわけにはいかなかった。
「もう、やめてくれ」
フロメリアは叫んだ。
「リリージャン! お前がやったのでしょう⁉ お前が、わたくしを陥れたのだわ!」
「フロメリア……ッ!」
王子の悲鳴じみた声など聞こえていない様子でフロメリアが頭を振る。頭皮に爪を立てた。狂気が乗り移っているのかと思うほど、指先が髪を乱していく。
「リリージャン……ッ!」黒々と焦げ付いた声で吐き出す。「どうして、どうして! どうして邪魔をするのよ! わたしはただ、幸せを――ハッピーエンドを望んだだけなのに!」
悲鳴だった。半狂乱に陥ったフロメリアには、もはや自身を制御する意思も見られない。取り繕う間もなく声を震わせている。
王子は狼狽えた。青褪めた顔色のまま、フロメリアに手を伸ばそうとしては失敗している。
その一方で、リリージャンは平然としていた。人混みの中、冷めた青い目でフロメリアを見下している。呆気ないなと思ったのだ。
リリージャンは体を回転させた。フロメリアに背を向ける。人の隙間を縫うように歩き出した。喧騒から遠ざかる。
「衛兵! フロメリア・スミシュカを捕らえろ!」
「離して! 触んないでよ!」
会場の中心から遠くなればなるほど、ざわめきはリリージャンから手を引いた。怒号も、悲鳴も、絶叫も。何もかもが切り離されていく。
「……ハッピーエンド、ね」
フロメリアはリリージャンの姉だ。そしてリリーヴェルの姉でもある。いくら予言を授かれるのだとしても、血の繋がった家族である。
だから許せるはずがなかった。苦しめたい。不幸にしたい。罪人に貶めたい。リリージャンにとっては、ただそれだけの話だった。
そんな有様だ。リリージャンがフロメリアに何か言うことがあるとすれば、それは一言だけである。
「貴女にとってのハッピーエンドは、俺にとってのバッドエンドだったよ」
リリージャンの足が止まる。会場はすでに遠く、眼前にあるのは王宮庭園だ。トピアリーや生け垣に隠れるように、白いガゼボがひっそりと佇んでいる。
辺りに人の気配はなかった。リリージャンは迷わず距離を詰める。ガラス張りの天井の下へ身を滑り込ませた。
ガゼボには、椅子が二脚とガーデンテーブルが並んでいた。
「座るの?」
唐突に少女の声が落ちる。リリーヴェルのものだ。
「ああ……リリーヴェル」
「大丈夫?」
リリーヴェルが眉を下げる。半透明の指先をリリージャンに伸ばし、頬が触れる直前で動きを止めた。僅かな隙間を残して指先を頬に添えている。それはリリージャンにとって、もどかしくも強固な隙間だった。
「……うん」半透明の指先に気を取られながらリリージャンが答える。「大丈夫。だって、俺にはきみがいるから」
揺蕩うリリージャンの声を聞き、リリーヴェルは息を呑んだ。一拍子ほど呼吸が乱れる。
新雪のようにうつくしい白。
宝石のようにきれいな青。
光りを束ねて煌めく金。
瓜二つの姿をした、全く異なるただ一人。
――心に痕を残す傷と言うのは、きっと人の形をしているのだ。
「ねえ……私、秘密にしていたことがあるよ」
傷付かないで。――傷付いて。
悲しまないで。――悲しんで。
苦しまないで。――苦しんで。
「なあに?」
どうか、どうか。ただ一人のきみよ。きみがこのあと、憂いに沈んでしまいませんように。
「私ね……本当はゴーストなの」
白々しいほどの笑みをリリーヴェルが浮かべる。薄い氷が砕け散りそうな、危うい微笑みだった。
「……うん」
「未練の塊ってやつ」
「そっか」
リリーヴェルの指先がだらりと落ちる。脱力した半透明の指を、リリージャンは躊躇なく掴み込んだ。
「リリーヴェル」
「妖精じゃなくて、ごめんね」
間髪入れずにリリージャンが答える。「いいんだ」
それくらい。リリージャンは思った。それくらいのことならば、どうということはない。
「きみがいる。それだけで……俺はもう、いいんだ」リリージャンは言い聞かせた。「いいんだよ、リリーヴェル」
そんなはずがない。しかしリリーヴェルに言えることは何もなかった。幸せを敷き詰めたような眼差しを向けるリリージャンを見たからだ。
「……ほんと、ばかだなあ……」
風が吹く。草花が散る。空に舞って、踊って、ひるがえる。青、緑、黒、白。色色に視界を翻弄されながら、それでもリリージャンは目を逸らさなかった。
仕方がなさそうな顔でリリーヴェルが微笑む。先程リリージャンが掴んだ指を繋ぎ直した。
「……私はきみが心配だよ、兄弟」
「俺は何も心配してないよ、兄弟」
リリージャンがガゼボから飛び出す。繋いだ半透明の指先を引っ張っていく。二人しかいない空間を突き進んで行く。
終わりに向かっているのだと、どちらともが理解していた。
「言っただろ?」
欠けた隙間が遠のいていく気配を感じて、リリージャンの眦がきらりと光る。笑った。
「俺のたった一人の兄弟が傍にいて、手を繋いでるんだ。何があっても大丈夫に決まってるって!」
――生まれた時から、自分は欠けているのだと理解していた。
リリージャンとリリーヴェルは双子だ。同じ日、同じ場所、同じ人から生まれた双生児だ。一つを二つに分け合った、鏡写しのようでありながら全く異なる存在である。
だからずっと、リリージャンは足りなかった。
だからきっと、リリーヴェルは触れたかった。
そうして手を取り合った結末が、誰かにとってのバッドエンドであったとしても。リリージャンからすればハッピーエンドに違いないのだから。
《簡単な人物紹介》
*リリージャン・スミシュカ
今作主人公。転生者の姉によって半身(双子のリリーヴェル)を奪われたことで、悪感情を募らせていたホッジズ公爵家嫡子。復讐は冷まして食べるものである。物騒。
*フロメリア・スミシュカ
前世遊んだ乙女ゲームの世界に転生したリリージャンの姉。ヒロインを強制退場させたことで乙女ゲームが崩壊し、何もかもが上手くいかなくなった。聞いてないよ嘘でしょ。
*リリーヴェル・スミシュカ
リリージャンと双子の兄弟。本人曰くゴーストとのことだが詳細は不明。作者的には妖精寄りの魂の残滓のつもり。兄弟よ、思いとどまるのだ。




