第8話 聖女、逆ギレして魔王城へ進軍。迎え撃つのは武器ではなく「温かいご飯」
その日、魔王城の城壁の上には、緊張感とは無縁の香りが漂っていた。
「……ボス。火加減はどうなっていますか?」
私は双眼鏡を下ろし、隣に立つ魔王ガルデ様に尋ねた。
「ゴブリン部隊より報告。『煮込み完了、肉はトロトロ、野菜はホクホク』とのことだ。いつでもいける」
ガルデ様が真剣な顔で、青い報告石を握りしめている。
彼が纏っているのは、いつもの戦闘用のマントではない。
私が新調した、清潔な白い割烹着だ。
魔王の威厳と家庭的な雰囲気が化学反応を起こして、妙な迫力が出ている。
「了解です。では、配置につかせてください」
私は眼下に広がる荒野を見下ろした。
地平線の向こうから、砂煙が上がっている。
聖法神国セレスティアの討伐軍。
総勢五千。
本来なら、地鳴りのような行軍音が響くはずだ。
けれど、聞こえてくるのは、ズルズルと足を重く引きずるような、不気味な衣擦れの音だけ。
「……来たな」
ガルデ様が目を細める。
視界に入ってきた軍勢を見て、私は息を呑んだ。
ひどい。
想像以上だ。
先頭を歩く騎士たちは、鎧の重さに耐えかねてふらついている。
頬はこけ、目は落ち窪み、まるで亡者の行進だ。
馬に乗っている指揮官クラスでさえ、鞍の上で揺れている。
唯一、元気なのは――。
「汚らわしい魔族どもー! よくも私のパンを腐らせてくれましたねぇぇぇ!!」
軍の中央。
豪奢な神輿の上で叫んでいる、聖女ルミナ様だけだ。
彼女は拡声魔法を使い、キンキン声を周囲に撒き散らしていた。
純白のドレスは一点の汚れもなく、自分の周りだけ空調魔法で快適にしているらしい。
周りの兵士たちが、その声を聞くたびに苦痛で顔を歪めているのが見える。
「……呆れた。本気で『魔王の呪い』のせいにしているんですね」
私は冷ややかに呟いた。
食料が届かないのは、彼女が商人を追放したからだ。
それを「魔王が呪いで腐らせた」と嘘をつき、兵士の憎悪を煽ってここまで連れてきた。
典型的な責任転嫁。
無能な上司のテンプレ行動だ。
「……許さん」
隣で、空気が凍りついた。
ガルデ様だ。
黄金の瞳が、怒りで燃え上がっている。
「俺を悪く言うのは構わん。だが……部下たちの努力を、コカトリスの肉を『腐らせた』だと? あのシチューを作るために、ゴブリンたちがどれだけ下処理を頑張ったと思っている!」
そっちですか。
でも、同感だ。
彼は右手を掲げた。
掌に、どす黒い重力魔法の球体が収束していく。
「あんな女、塵も残さず消し去ってやる。……俺の『極大消滅波』でな」
空間が歪む。
本気だ。あれを放てば、聖女どころか軍勢ごと、後ろの山まで消滅する。
「待ってください、ボス!」
私は慌てて彼のエプロンの紐を掴んだ。
「撃っちゃダメです! せっかくのシチューが台無しになります!」
「しかしミリア! あいつは君を殺そうとした女だぞ!? 今ここで断罪しなくてどうする!」
「断罪なら、もっと残酷な方法でやりますから!」
私は必死に彼の手を下ろさせた。
魔法が霧散する。
「……残酷な方法?」
「ええ。殺すよりも、もっと惨めで、もっと彼女のプライドを粉々にする方法です」
私は眼鏡の位置を直し、城門前を指さした。
「見てください、あの兵士たちを。彼らは敵じゃありません。ただの『お腹を空かせた被害者』です」
騎士たちの目は死んでいる。
戦意なんてない。
ただ、上官の命令だから足を動かしているだけだ。
あんな状態で殺しても、魔王軍の悪評が広まるだけ。
逆に、ここで彼らを救えば――。
「私たちは、正義の味方になれます」
私はニヤリと笑った。
ルミナ様はまだ叫んでいる。
「突撃ぃぃ! あの城には、魔族が隠し持っている食料が山ほどあります! 奪いなさい! 殺しなさい! 神の名のもとに!」
強欲な扇動。
兵士たちが、虚ろな目で剣を抜きかけた。
今だ。
「作戦開始! 調理部隊、一斉に『蓋』を開放せよ!」
私が青い石を掲げる。
それを合図に、城門の前に並べられた二十個の大鍋――その巨大な蓋が、オークたちによって一斉に取り外された。
パカッ!
立ち上る、真っ白な湯気。
グツグツと煮込まれた、濃厚なクリームシチューの香り。
炒めた玉ねぎの甘い匂い。
バターのコク。
そして、ほろほろに崩れたコカトリス肉の肉汁。
「風魔法部隊、送風開始!」
『はーい!』
上空で待機していたハーピーたちが、翼を羽ばたかせる。
風が起きた。
湯気は白い竜のようにうねり、一直線に人間軍へと襲いかかった。
その効果は、劇的だった。
「……あっ」
最前列の騎士が、足を止めた。
鼻をひくつかせ、大きく息を吸い込む。
「……なんだ、この匂い……」
「肉……? 煮込み……?」
「う、うまそう……」
ザワザワと、死の行軍が止まる。
彼らの胃袋を、暴力的なまでの「食欲」が直撃したのだ。
数日間、カビたパンと水だけで過ごしてきた極限状態。
そこへ、最高級のシチューの香りが届く。
それは、どんな攻撃魔法よりも防御不能な一撃だった。
グゥゥゥゥゥ……。
戦場に、何千人もの腹の音が響き渡る。
「な、なんですか!? 止まるんじゃありません!」
ルミナ様が焦って叫ぶ。
「あれは魔族の罠です! 毒ガスです! 息を止めて突っ込みなさい!」
無理だ。
生物としての本能が、それを拒否している。
私は拡声用の魔石を手に取った。
スイッチを入れる。
私の声が、戦場全体に響き渡るように。
『――聖法神国軍の皆様。こんにちは』
静まり返った荒野に、私の事務的なアルトボイスが通る。
「! その声……ミリア!?」
ルミナ様が神輿の上で目を見開いた。
ええ、生きてますよ。あなたが突き落とした崖の下でね。
『当城では現在、秋の炊き出しフェスティバルを開催中です。
メニューは、ゴブリンシェフ特製、コカトリスのクリームシチュー。
焼きたての白パンと、新鮮なサラダもご用意しております』
私は淡々と、しかし残酷なほど魅力的な単語を並べた。
『なお、こちらの食事は、武器を置いて並んでいただければ、どなたでも【無料】で提供いたします』
無料。
その言葉が、騎士たちの理性を粉砕した。
カラン、と音がした。
誰かが剣を落とした音だ。
「……嘘だろ」
「あんなに、具が入ってる……」
「いい匂いだ……母ちゃんのシチューみたいだ……」
一人、また一人と、武器を捨ててフラフラと歩き出す。
殺気ではない。
純粋な食欲に引かれて。
「ま、待ちなさい! 騙されるなと言っているでしょう! 食べた瞬間に爆発するに決まってますぅ!」
ルミナ様が絶叫するが、もう誰も聞いていない。
騎士団長ヴァルドロでさえ、馬から降りて、呆然と大鍋を見つめている。
勝負ありだ。
「ボス。仕上げです」
私は振り返り、ガルデ様に指示を出した。
「一番美味しそうに、毒見をお願いします」
「任せろ。……実は俺も、匂いだけで腹が鳴りそうだったんだ」
ガルデ様は城門の前へ飛び降りた。
そして、オークから受け取った器にシチューをなみなみと注ぎ――人間軍の目の前で、それを豪快に頬張った。
「ふー、ふー……はむっ。……うまい!!」
満面の笑み。
魔王の威圧感など微塵もない、心からの「美味しい顔」。
それが決定打だった。
「うおおおおおっ! くれぇぇぇ!」
「頼む! 一口だけでいいんだ!」
「パンを! パンをくれぇ!」
騎士たちが雪崩を打って押し寄せた。
武器はない。
彼らはもう兵士ではない。ただの腹ペコの大集団だ。
「並んでください! 整理券を配ります! 割り込みは最後尾に回しますよ!」
私は城壁の上から、慣れ親しんだ業務命令を下した。
私の指示に従い、オークたちが手際よく列を作らせ、スライムたちが手を洗わせる。
戦争?
いいえ。
これはもう、ただの巨大な野外ランチパーティーだ。
神輿の上で一人取り残された聖女様を除いて。
「な……な……」
ルミナ様は顔を真っ赤にして、わなわなと震えている。
自分の信者だと思っていた騎士たちが、魔王のシチューに屈した現実が受け入れられないのだ。
「ざまあみろ、です」
私は眼鏡を直し、小さく呟いた。
さあ、ルミナ様。
ここからが本当の地獄(現実)ですよ。




