第6話 魔王軍慰安旅行で温泉へ。混浴トラブルと「番」の自覚
「ボス。……これは、どういう手違いでしょうか?」
湯気が立ち込める部屋の中、私はこめかみを押さえて問いかけた。
場所は、魔界随一の観光地「獄炎温泉郷」。
その中でも老舗とされる高級旅館の、最上階にある特別室だ。
目の前には、岩造りの広大な露天風呂。
眼下には、雪を被った魔界の山々が広がっている。絶景だ。
問題はそこではない。
この部屋には、寝具が「一つ」しかないのだ。
それも、キングサイズを通り越して、ドラゴンが二匹寝られそうな巨大な布団が、部屋の中央に鎮座している。
「手違いではないようだ、ミリア」
魔王ガルデ様が、バツが悪そうに視線を逸らした。
彼は既に浴衣に着替えている。
はだけた胸元から覗く筋肉質な身体に、私は目のやり場に困る。
「宿の女将が……その、気を利かせたらしい。『魔王様がついに奥方を連れてこられた!』と感涙してな。一番良い部屋を用意してくれたんだ」
「奥方って……否定しなかったんですか?」
「否定しようとしたら、君がオークたちへの部屋割りを指示するのに忙しそうで……タイミングを逃した」
ガルデ様が言い訳がましく口を尖らせる。
嘘だ。
【詳細鑑定】で見なくてもわかる。この人は、わざと誤解を解かなかった。
「はぁ……」
私は大きな溜息をついた。
今回の旅行は、私の発案だ。
「適正な休息こそが生産性を上げる」というスローガンのもと、激務だった四天王や現場の魔物たちを労うための慰安旅行。
みんな大はしゃぎだ。
ゴブリンたちは宴会場でご馳走を食べているし、スライムたちは温泉で溶けている。
そして引率者である私は、魔王様と二人きりで「夫婦の間」に閉じ込められたというわけだ。
「……まあ、いいです。経費は落ちてますし」
私は諦めて、荷物を置いた。
今更部屋を変えろと言えば、宿の人たちがパニックになるだろう。魔族は純粋だから、「魔王様の機嫌を損ねた!」と切腹しかねない。
「それで、ボス。お風呂はどうします? ここ、部屋付きの露天しかありませんけど」
この部屋には内湯がない。
そして、この広大な露天風呂に仕切りはない。
「俺は後でいい。君が先に入ってくれ」
ガルデ様が紳士的に譲ってくれる。
でも。
「……ボス。さっきから、我慢していませんか?」
私は彼の顔色を伺った。
額に脂汗が滲んでいる。
ここに来るまでの馬車酔いか、それとも人混みのストレスか。顔色が優れない。
「う……少し、な。慣れない場所で、気が張っていたようだ」
「なら、温まってください。湯治に来て、我慢して倒れられたら本末転倒です」
私は鞄から、分厚いバスタオルを取り出した。
そして、手ぬぐいも二枚。
「一緒に入りましょう」
「はッ!?」
ガルデ様が素っ頓狂な声を上げて裏返った。
「い、いいのか!? 君は、その……嫁入り前の娘だろう!?」
「湯気が濃いですし、端と端なら見えません。それに、私は湯浴み着を持参しています」
私は準備がいいのだ。
魔王軍に入ってから、いつ何時トラブルが起きてもいいように、入浴セットは常備している。
「背中くらいなら流しますよ。日頃の感謝を込めて」
私はさっさと脱衣所へ向かった。
ガルデ様が顔を真っ赤にしてフリーズしているのを置いて。
◇
お湯は最高だった。
硫黄の香りと、少しピリッとする魔素の刺激。
肩まで浸かると、日々のデスクワークで固まった筋肉がほぐれていくのがわかる。
広い湯船の向こう側。
岩の陰に、ガルデ様が浸かっている。
「……いい湯だな」
「ええ。企画して正解でしたね」
湯気が濃くて、お互いの顔はぼんやりとしか見えない。
それが逆に、心地よい距離感を作っていた。
チャプ、と水音がする。
ガルデ様が少しだけこちらへ移動してきた気配がした。
「ミリア」
「はい」
「俺は……幸せだ」
唐突な言葉だった。
「こうして、戦い以外の理由で遠出したのは初めてだ。綺麗な景色を見て、美味いものを食って、湯に浸かる。……こんな当たり前のことが、俺には許されないと思っていた」
彼の声には、深い実感がこもっていた。
「俺は魔王だ。生まれながらにして、破壊の象徴だ。先代からは『舐められるな』『恐怖で支配しろ』と教え込まれてきた。だから、俺は鎧を脱ぐことも、背中を見せることもできなかった」
水音が近づく。
湯気の中から、彼の上半身がぬっと現れた。
私は息を呑んだ。
「ボス……その、背中……」
彼の広い背中には、無数の傷跡が刻まれていた。
刀傷。火傷。魔法による焦げ跡。
最強の肉体再生能力を持つ魔族でさえ消しきれなかった、深い古傷たち。
それは、彼が何百回、何千回と戦場に立ち、味方を守るために盾となってきた証だった。
「……汚いだろう」
私の視線に気づいたのか、ガルデ様が自嘲気味に笑って背を向けようとする。
「見ないでくれ。化け物の勲章なんて、君には……」
「動きません。洗います」
私は立ち上がり、お湯の中を歩いて彼に近づいた。
湯浴み着が濡れて肌に張り付くが、気にしない。
手ぬぐいにお湯を含ませ、彼のごつごつした背中に当てる。
「っ……」
ガルデ様が身を固くする。
「汚くなんてありません。……あなたが、一人で守ってきた証拠じゃないですか」
私は力を込めて、傷跡の一つ一つをなぞるように洗った。
右肩の大きな傷。
腰の火傷跡。
どれだけの痛みに耐えてきたのだろう。
どれだけの孤独の中で、この背中を張ってきたのだろう。
【詳細鑑定】などいらない。
肌から伝わってくる熱と硬直が、彼の全てを語っている。
「……ミリア」
「はい」
「俺は、君に出会えて救われた。胃痛が治ったからじゃない。……俺を、『ただのガルデ』として見てくれる奴が、初めて現れたからだ」
ガルデ様が振り返る。
水飛沫が上がり、彼の手が伸びてくる。
濡れた大きな手が、私の頬を包み込んだ。
至近距離。
黄金の瞳が、湯気よりも熱く揺らめいている。
「帰さないぞ」
低い声。
命令でも、懇願でもない。
それは、魂からの宣言だった。
「君がどんなに嫌がっても、俺はもう君を手放せない。……人間界が君を返せと言ってきても、神が君を連れ去ろうとしても、俺は全力で阻止する」
彼の親指が、私の唇をなぞる。
「君は俺の番だ。……俺の魂の半分だ」
心臓が跳ねた。
番。
魔族にとって、それがどれほど重い意味を持つ言葉か、私だって知っている。
一生に一度。
死ぬまで添い遂げる、唯一無二の伴侶。
私は逃げなかった。
逃げたくなかった。
この不器用で、傷だらけで、優しい魔王様を、私が支えてあげたいと思ってしまったから。
「……ボス。それは、昇給の約束と受け取っていいですか?」
私は精一杯の強がりで、震える声を隠した。
「君の望むものは、全て与える。金も、地位も、俺の命も」
「命はいりません。……ただ、これからは一人で背負わないでください。私の背中は小さいですけど、書類仕事くらいなら半分持てますから」
私がそう答えると、ガルデ様は泣きそうな顔で笑った。
そして、ゆっくりと額を私の額に押し付けた。
コツン。
角が触れる感触。
熱い吐息が混ざり合う。
キスは、されなかった。
でも、それはキスよりも親密で、甘い儀式のように感じられた。
◇
風呂から上がった後。
私たちは結局、一つの布団で寝ることになった。
ガルデ様は私のことを気遣って「俺は床で寝る」と言い張ったが、私が「風邪を引いたら業務に支障が出ます」と論破して、巨大な布団の端と端に寝転がったのだ。
部屋には、宿の女将が焚いてくれたらしい、甘いお香の匂いが漂っている。
【鑑定】したら『夫婦円満・精力増強』と出たので、私は見なかったことにした。
「おやすみ、ミリア」
「おやすみなさい、ボス」
暗闇の中、隣から聞こえる寝息。
そして、布団の下で、そっと私の小指に絡めてくる大きな指。
私はその指を握り返して、目を閉じた。
もう、後戻りはできない。
私は魔王軍の人事部長としてだけでなく、魔王ガルデのパートナーとして生きる道を選んだのだ。
……たとえその先に、あの聖女率いる人間軍との全面戦争が待っていたとしても。
私はもう、迷わない。
翌朝。
さっぱりした顔で宿を出た私たちを待ち受けていたのは、青ざめた顔で飛んできたハーピーの伝令だった。
「ほ、報告します! 城に、人間が……スパイが入り込んでいます!」
平和な慰安旅行は終わりだ。
さあ、仕事(戦争)の時間だ。




