第4話 魔王様が「膝枕がないと眠れない」と言い出しました
魔王城の業務改革は順調だった。
スライムは床を磨き、ゴブリンは絶品シチューを作り、オークは壊れた城壁を直す。
城内は清潔になり、ブラックな労働環境はホワイト企業へと生まれ変わりつつある。
ただ一つ、解消されない問題を除いて。
「……ボス。いい加減に寝てください」
深夜二時。
執務室の明かりはまだ消えていない。
私は山積みの書類と格闘する主――魔王ガルデ様のデスクを叩いた。
「あと少しだ。この決裁だけは……」
ガルデ様の声は掠れている。
顔色は土気色で、目の下のクマは以前よりも濃くなっていた。
スキル【詳細鑑定】を発動する。
『状態:極度の睡眠不足』
『状態:カフェイン中毒』
『精神:不安、焦燥』
限界だ。
部下からの念話は遮断したはずなのに、彼はここ数日、まともに眠っていない。
「却下します。その書類は急ぎではありません。私の判断で明日に回します」
私は強引に彼の手から羽ペンを奪い取った。
ガルデ様がハッとして私を見る。
その黄金の瞳は、焦点が定まっていない。
「だめだ……ミリア。俺が起きている間は、城は静かだ。でも、眠ってしまったら……」
彼の大きな手が、震えながら私の袖を掴む。
「目が覚めた時、またあの騒音が戻っているんじゃないか。……君がいなくなって、全部夢だったことになるんじゃないか。それが、怖い」
子供のような声だった。
最強の魔王。
一撃で山を消し飛ばす力を持つ男が、平穏を失うことを恐れて怯えている。
無理もない。
数百年もの間、頭の中に他人の声を響かせ続けてきたのだ。
急に訪れた静寂と幸福が、信じられないのだろう。
(……手のかかる上司です)
私はため息をつき、袖を掴む彼の手をそっと包み込んだ。
熱い。
体温が上がっている。
「夢じゃありません。私はここにいますし、明日の朝もいます。逃げたりしませんよ」
「……本当か?」
「ええ。契約しましたから。それに、まだ来月の給料をもらっていません」
冗談めかして言うと、ガルデ様は弱々しく笑った。
でも、その指は私の袖を離さない。
これではベッドへ運ぶこともできない。
仕方がない。
私は覚悟を決めて、執務室にある長椅子を指さした。
「あそこに横になってください。私が監視していますから」
「監視……?」
「はい。ボスがちゃんと寝ているか、私がそばで見張ります。それなら安心でしょう?」
ガルデ様は迷うように視線を泳がせたが、私の真剣な眼差しに観念したようだ。
ふらつく足取りで長椅子へ向かい、重い体を横たえる。
私はその枕元に椅子を持っていこうとして――止められた。
「……ミリア。こっちだ」
ガルデ様が、自分の頭の下にあるクッションを退かした。
そして、空いたスペースをポンポンと叩く。
「……はい?」
「クッションだと、硬い。君が……いい」
言っている意味がわからず、私は数秒フリーズした。
君がいい?
クッションの代わり?
つまり――。
「膝枕、ですか?」
「……だめか?」
上目遣い。
あの凶悪な魔王様が、捨てられた大型犬のような目で見つめてくる。
反則だ。
そんな顔をされて、断れるわけがない。
これは医療行為だ。患者の精神安定のための処置だ。
私は自分にそう言い聞かせた。
「……特別ですよ。残業代に上乗せしますからね」
私は諦めて、長椅子の端に腰を下ろした。
太ももを叩いて合図する。
ガルデ様がおずおずと頭を乗せてきた。
ずしり、と重い。
でも、不快ではなかった。
赤い髪がさらりと私の手に触れる。
「……いい匂いだ」
私の腹部に顔を埋めるようにして、ガルデ様が深く息を吸い込んだ。
「落ち着く……君からは、陽だまりのような匂いがする」
「ただの石鹸の匂いです。さあ、目を閉じて」
私は彼の上に毛布をかけ、その髪を梳くように撫でた。
硬い髪質だと思っていたが、意外と柔らかい。
額から生える黒い角の根元を、指先で優しくなぞる。
ビクッ、とガルデ様の体が跳ねた。
「あ……そこは……」
「嫌ですか?」
「いや……くすぐったいが……悪くない」
彼はとろんとした目で私を見上げ、それからゆっくりと瞼を閉じた。
静かな夜。
窓の外からは、風の音と虫の声しか聞こえない。
魔王城とは思えないほど平和な時間。
私は幼い頃、母にしてもらったように、一定のリズムで彼の背中をトントンと叩いた。
小さく、ハミングを混ぜる。
故郷の子守唄だ。
ガルデ様の呼吸が、次第に深く、規則正しくなっていく。
眉間のしわが消え、無防備な寝顔に変わる。
(……こうして見ると、ただの青年なんですね)
世界を滅ぼすと恐れられる魔王。
でも、その正体は、孤独と責任に押し潰されそうになっていた不器用な人。
私は彼が完全に眠りに落ちたのを確認して、ふっと息を吐いた。
情が移りそうだ。
ただの雇用主と従業員。
その線引きをしなければいけないのに、彼が私を頼れば頼るほど、放っておけない気持ちが強くなる。
「……おやすみなさい、ボス」
私は彼の髪をもう一度撫でて、書類に手を伸ばした。
彼が目覚めるまで、私もここで仕事をしよう。
私の膝の上だけが、彼にとっての安息地だと言うのなら。
◇
数時間後。
私は異変を感じて目を覚ました。
いつの間にか、私も座ったままウトウトしていたらしい。
動けない。
体が、固定されている。
「……ん?」
目を開けると、すぐ目の前に黄金の瞳があった。
ガルデ様だ。
彼はとっくに目覚めていて、私の顔を至近距離で凝視していた。
そして。
私の腰には、彼のごつい腕が回され、万力のように抱きしめられていた。
膝枕どころではない。
私が彼に抱き枕にされている状態だ。
「ボ、ボス……? 起きてるなら、離して……」
「……ミリア」
名前を呼ばれる。
その声色が、寝る前とは違っていた。
甘えるような響きの中に、ぞくりとするような重い熱が含まれている。
彼は私の首筋に顔を寄せ、スハッ、と大きく匂いを嗅いだ。
「!!」
「……足りない」
「は、はい?」
「膝だけじゃ、足りない。もっと……全身で、俺を感じさせてくれ」
彼の腕に力がこもる。
痛いほどではないが、絶対に逃がさないという意思を感じる強さだ。
【詳細鑑定】が勝手に起動する。
彼のステータス画面に、見たことのない項目が増えていた。
『状態:睡眠十分(全回復)』
『状態:執着(Lv.MAX)』
『状態:番認定』
つがい?
何だそれは。
人事評価項目にそんなものはない。
「ボス、あの、苦しいです。セクハラで訴えますよ」
私が抗議すると、ガルデ様はハッとして力を緩めた。
でも、腕は解かない。
彼は名残惜しそうに私の頬に触れ、満足げに微笑んだ。
「すまない。……こんなに深く眠れたのは、生まれて初めてだ。君のおかげだ」
「それは……よかったですけど」
「決めたよ、ミリア」
彼は体を起こし、私の手を取った。
そして、その指先に口づけを落とす。
騎士の敬愛などではない。もっと独占的な、所有の印を刻むようなキス。
「君をもう、執務室から出さない。俺の目の届く範囲にいてくれ。……これは業務命令だ」
黄金の瞳が、妖しく輝く。
私は背筋に悪寒――いや、違う種類の熱が走るのを感じた。
どうやら私は、魔王様の不眠症を治した結果、もっと厄介なスイッチを押してしまったらしい。
ホワイト企業を目指していたはずが、社長からの愛が重すぎるブラック(溺愛)企業になりつつある。
私は真っ赤になりそうな顔を伏せ、手帳で扇いだ。
胃薬。
私の分の胃薬が、切実に必要だ。
――その頃。
平和ボケしつつある魔王城の外、人間界では、私の退職(追放)による「本当の地獄」が始まろうとしていた。




