第10話 終身雇用契約と平和条約
戦争――もとい、巨大野外ランチパーティーから数日が過ぎた。
魔王城は、以前にも増して活気に満ちている。
「おーい、新人! そっちの畑、耕しとけよ!」
「イエッサー! オーク先輩!」
中庭では、元騎士団長のヴァルドロさんが、鍬を担いで汗を流している。
彼は「農業警備課」の課長に就任した。
剣を鍬に持ち替え、魔物たちと作物を育てる毎日は、胃痛持ちだった中間管理職の彼には天職だったらしい。
顔色が驚くほど良い。
聖女ルミナ様は、本国へ送還された。
帰り際、「覚えてなさい! 次はもっと凄い魔法で……」と捨て台詞を吐いていたが、誰も聞いていなかった。
彼女を待っているのは、騎士団の離反を知った国の上層部による査問会だ。
もう、彼女が表舞台に出ることはないだろう。
平和だ。
私の仕事(トラブル処理)も一段落した。
だからこそ、予感がしていた。
そろそろ、「契約」の話をしなければならないと。
◇
「……ミリア。入ってくれ」
執務室の重い扉が開く。
呼ばれて中に入ると、魔王ガルデ様が玉座ではなく、執務机の前に立っていた。
いつもはラフな軍服姿だが、今日は違う。
儀式用の、黒と金を基調とした正装。
赤髪も丁寧に撫で付けられ、立派な角が艶やかに光っている。
部屋の空気が張り詰めていた。
「お呼びでしょうか、ボス」
私はいつものように眼鏡の位置を直し、彼の前に立った。
「ああ。……座ってくれ」
勧められた椅子に腰掛ける。
ガルデ様は私の向かいに座ると、組んだ手を口元に当て、しばらく沈黙した。
黄金の瞳が揺れている。
視線が泳ぎ、時折、私の顔を見ては逸らす。
【詳細鑑定】を使わなくてもわかる。
極度の緊張状態だ。
「……単刀直入に言おう」
やがて、彼は意を決したように口を開いた。
「ミリア・リーゼンバーグ。君との『戦時特別雇用契約』は、本日をもって終了とする」
ドクリ、と心臓が跳ねた。
予想していた言葉。
でも、実際に聞くと、胸の奥が冷たくなるのがわかった。
「……そう、ですか。戦争は終わりましたからね」
私は努めて冷静に声を返した。
事務的に。プロとして。
「短い間でしたが、お世話になりました。引継ぎ資料は作成済みですので、後任の方に――」
「待て」
私が席を立とうとすると、ガルデ様が慌ててテーブルを叩いた。
「違う! そうじゃない! 帰るな!」
「え? でも、契約終了と……」
「終了して、更新するんだ! 新しい契約に!」
ガルデ様は顔を真っ赤にして、懐から一巻の羊皮紙を取り出した。
バサリ、とテーブルに広げられる。
それは、見たこともないほど高品質な竜皮紙だった。
縁は金箔で装飾され、魔術的な光を帯びている。
「これを……読んでくれ」
私は恐る恐る、その書類に目を通した。
『終身パートナーシップ契約書』
タイトルからして重い。
私は眼鏡を押し上げ、条文を追った。
『第一条:甲は乙に対し、生涯にわたる衣食住、および安全を保証する』
『第二条:甲は乙に対し、自身の持つ全財産、全権力、および全愛情を譲渡する』
『第三条:乙は甲に対し、その人生の管理権を持つものとする』
……なんだこれは。
雇用契約書ではない。
これは。
『特記事項:甲は乙以外の異性を視界に入れず、乙が望む限り、その傍を離れないことを誓約する(血判)』
「……ボス。この契約書、法務部のチェックは通っていますか?」
私は震える声で尋ねた。
「通していない。……俺が、三日三晩考えて書いた」
ガルデ様が俯いたまま、ボソボソと言う。
「ミリア。俺は魔王だ。不器用で、戦うことしか知らない。君が望むような、気の利いた言葉は言えない」
彼が顔を上げた。
その瞳は、もう揺れていなかった。
真っ直ぐに、私だけを映している。
「だが、君がいない世界はもう考えられない。あの静寂も、温かい食事も、君が隣にいて初めて意味を持つんだ」
彼の手が伸びてくる。
テーブルの上で、私の手をそっと包み込んだ。
「君を、ただの部下としてではなく……俺の『番』として迎えたい。……俺の人生を、君に独占してほしいんだ」
熱い。
彼の手の温度が、言葉の重みが、私の胸を焦がしていく。
ずるい人だ。
最強の魔王のくせに、どうしてこんなに捨てられた子犬のような目をするんだろう。
こんな契約書、断れるわけがない。
いや。
断る気なんて、最初からなかった。
私はため息をついて、胸ポケットから愛用の万年筆を取り出した。
「……不備だらけですよ、この契約書」
「なっ、ど、どこがだ!?」
「報酬の記載が足りません。『全愛情』なんて抽象的な表現じゃ、税務処理できませんよ」
私は契約書の余白に、サラサラと追記した。
『追記:甲は乙に対し、毎日「愛している」と言葉で伝え、一日に最低一回は抱きしめること』
「これでどうですか?」
ガルデ様が目を丸くして、それから――パァッと、花が咲くような笑顔になった。
「……承認する。即時、執行可能だ」
「では、サインを」
私が署名欄に名前を書き終えた瞬間。
羊皮紙が光り輝き、粒となって消えた。
契約成立。
魔術的なパスが、私と彼の魂を繋いだ感覚がした。
重い。
でも、心地よい重さだ。
ガルデ様が立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出した。
長い指が私の頬に触れ、顎を持ち上げる。
「ミリア」
「……はい、あなた」
ボス、と呼ぶのはもうやめだ。
唇が重なった。
触れるだけの優しいキス。
でも、そこには言葉以上の誓いが込められていた。
長い、長いキスの後。
ガルデ様は額を私の額に押し付け、甘く囁いた。
「愛している、ミリア。……俺の全ては、君のものだ」
「ええ。知っています」
私は彼の首に腕を回し、微笑んだ。
「覚悟してくださいね。私の管理は厳しいですよ? 無駄遣いも、夜更かしも、浮気も絶対に許しませんから」
「望むところだ。……一生、君の尻に敷かれてやる」
◇
ドーン! パパーン!
突然、窓の外で爆発音が響いた。
敵襲ではない。色とりどりの魔法の花火だ。
「魔王様、バンザーイ!」
「ミリア様、おめでとうー!」
「今日はお祝いだ! 飲み明かすぞー!」
バルコニーに出ると、中庭に魔物たち(と元騎士たち)が溢れかえっていた。
みんな、ジョッキを片手に私たちを見上げて手を振っている。
リズがハンカチで涙を拭いているのが見えた。
「……知っていたんですね、みんな」
「ああ。俺がプロポーズに失敗したら、慰める準備もしていたらしいがな」
ガルデ様が私の腰を抱き寄せ、群衆に向かって手を挙げた。
ワァァァッ! と歓声が波のように押し寄せる。
ここが、私の居場所。
聖女に捨てられ、崖から落ちて拾った、世界一温かいブラック(溺愛)企業。
私は隣に立つパートナーを見上げた。
彼も私を見て、優しく目を細める。
これからは、人事部長としてだけでなく、魔王妃として忙しくなりそうだ。
でも、悪くない。
私の手には、この愛すべき不器用な魔王様と、彼の手の温もりがいつもあるのだから。
「さあ、仕事に戻りましょうか。……まずは、披露宴のスケジュール調整ですね」
「お手柔らかに頼むよ、マイ・ハニー」
こうして、元・聖女付き事務官の私は、魔王様の「番」として永久就職することになったのだった。
(完)




