プロローグ
俺は定時で仕事を終えると、家には帰らない。向かう先はジムだ。家にいる時間よりジムにいる時間の方が長い。つまりジムこそが俺の家だ。
今日は胸の日。アップでベンチプレス140キロから始める。そして、今日は初めて230キロに挑戦する。
勢いよくバーをラックから外し、胸まで下ろす。あとは押し上げるだけ……のはずだった。
「うおーー!」
押し返すはずのバーは、まるで鉛の塊のように胸から動かない。
肺が圧迫され、息が入ってこない。喉に鉄が迫る。
視界の端が暗く染まり、頭の奥で警報のように心臓が鳴り響いた。
「っ、ぐ……あ、苦しい……!」
バーベルの冷たい感触が喉に触れた瞬間、全身から力が抜けていく。
――次の瞬間、真っ暗になる
……次に目を覚ましたとき、目の前には一人の美少女が立っていた。
「お、お目覚めになりましたか?」
透き通るような声に、俺は一瞬で目が覚める。
「あれ? 俺はさっきまで筋トレしてたはず……」
「そうです、あなたはベンチプレス中に窒息死してしまったのです」
その美少女は長い髪を揺らしながら、どこか申し訳なさそうに俺を見ていた。
「え!? じゃあここは……死後の世界か? お前は神様なのか?」
「ふふ、そう思ってくださって大丈夫ですよ。私は“神”ですが、こう見えても一応女ですから」
柔らかく微笑むその姿に、俺は思わず見惚れる。
「異世界転生……ってことは、俺は異世界に行くのか?」
「はい。その認識で間違いありません」
シーン)
「なるほどな……じゃあ俺はこれから異世界に行くってわけか」
「はい。あなたの行く世界には魔物がいたり、盗賊がいたり……危険がいっぱいなんです。だから、最初に支援をしてあげるのが決まりなんですよ」
神様はにっこりと笑った。美少女なのに、雰囲気は不思議と安心感がある。
「支援ってことは、願いを聞いてくれるってことか?」
「ええ。強力な魔法、伝説の武具、勇者の血筋……どれでも――」
「ホームジムだ!」
「……え?」
神様の瞳が見開かれた。まるで『初めて納豆を見た外国人』みたいな顔だ。
「誰にも邪魔されずに鍛えられるジム! ベンチもダンベルもスクワットラックも全部揃ったやつだ!」
「ま、待ってください。もっと普通の……『ドラゴンを一撃で倒す剣』とか『不老不死』とか――」
「いらねぇ。俺は筋肉で全部倒す。あと風呂付きで頼む」
「風呂!?」
神様が頭を抱えた。どうやら神界でも筋トレ勢は異常らしい。
神様が慌てて両手を振る。だが、俺は止まらない。
「まず、転生後の体は18歳くらいにしてくれ。赤ん坊からじゃ筋トレが始められない。
次に、怪我をしにくい丈夫な体。体が硬いと怪我のリスクも上がるから柔軟性も欲しい。
それから、筋肉をすぐに治せる回復魔法だ」
「ちょ、ちょっと待ってください! 一度に言われても整理できませんから!」
美少女の神様は困ったように頬を膨らませる。
だが俺は止まらない。
「それと食事だ。筋トレの七割は食事って言うくらいだからな。家を建ててもらって、調理できる環境も欲しい。栄養たっぷりの野菜、タンパク質豊富な肉、炭水化物も揃えてくれ。庭を作って、食材を自給自足できるように頼む」
神様は沈黙した。
俺は真剣に訴える。
「頼むぞ、神様。筋トレできなきゃ、俺は死んだのと同じだ」
「……わかりました。もう、ほんとに筋肉バカなんですから」
そう言って、神様は肩を落としながらも微笑んだ。
そして――
「では、あなたの要望に沿って特別な力を授けましょう。
その名も――【無限鍛錬領域】です」
彼女の声が響いた瞬間、俺の頭に能力の内容が流れ込んできた。
【無限鍛錬領域】
俺専用のジム空間を呼び出せる。
中にはベンチやスクワットラック、ダンベルに至るまで思い描いたあらゆる器具が揃っており、壊れることもなく常に清潔。
さらに空間内では時間がゆるやかになり、外の10分が中では1時間になる。
そこで鍛えれば筋肉の成長速度は10倍、力も耐久も直結して跳ね上がる。
【筋肉無限回復】
筋繊維の損傷は即座に修復され、筋肉痛は一晩で消える。怪我や骨折すら治せる。ただし超回復による成長は残る。
【肉体柔軟】
常に体は柔らかく、関節や靭帯も強化されている。怪我のリスクが極端に低下する。
家と拠点
与えられた家は質素な木造の一軒家。だが内部は広く清潔で、調理道具や風呂場と寝具も完備。
屋内にいるだけで疲労や怪我、病気までも癒える加護が宿っている。まさに「帰るだけで回復する拠点」だ。
【完全栄養庭園】
家の庭には、鶏胸肉や赤身肉、卵、米や野菜といった栄養満点の食材が無限に育ち続ける。調理済みの状態で取り出すことすら可能。
【マッスルセンス】
自分や相手の筋肉状態を見抜く力。敵の弱点を暴くことも、仲間の鍛錬を指導することもできる。
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「……どうですか? あなたのために作った、筋肉特化の力です」
恥ずかしそうに微笑む神様を前に、俺は拳を握りしめた。
「最高じゃねぇか……これなら異世界でも筋トレできる!」
こうして俺は――筋肉と共に、異世界へと転生した。