林檎飴
「美羽ちゃん! お兄ちゃんが迎えに来たよ!」
蝉の鳴き声が聞こえる蒸し暑い空気と、保育園の中から漏れ出す涼しい風に挟まれながら、先生が呼び出す妹の帰り支度を待っていた。
「晴翔くん、いつも迎えに来てるけど、お父さん忙しいの?」
学校が終わり、迎えの時間に間に合うよう少し急いで来たため、汗ばんだ顔を手で仰いでいると、同じく妹の姿を待っていた先生が、心配そうに声をかけてきた。
「はい、僕が迎えにいくことになってるんで」
やり過ごすように笑って誤魔化す僕と、納得がいかないような表情をした先生との気まずい空気が流れたが、しばらくして身支度を終えた妹がやってきた。
がらんとしたアーケード通りを抜け、静かな住宅街を歩いていた。
「美羽、今日は保育園どうだったの?」僕と手を繋いで歩く、小さな黄色の帽子頭に問いかけた。
「たのしかった! きょうはね、おりがみしたの」
「折り紙かあ。美羽は何を作ったの?」
すると背負っていたリュックの中に手を入れ、何かを探し出した。
取り出したのは、綺麗な赤色の折り紙だった。
「リンゴだよ、みうリンゴすきだから」
毎回の食後にリンゴを剥いてと頼むほど、昔からリンゴが好きなのは知っていたが、折り紙で折ってしまうほど好きだったとはと、思わず笑ってしまった。
そんな僕を見て、妹もまた楽しそうに笑った。
「はるくん、みうおまつりいきたい」
妹は折り紙を胸の前で強く握り、まるで悩み事を打ち明けるように言った。
「お祭り?」
そういえば今日は、近くの神社で夏祭りが開催されると、学校に行く道中での掲示板に貼られていた広告を思い出した。
確か今日は、父が帰ってくるのが遅かったはずだ。
悩み込む僕に、期待を膨らませる妹の表情を見て、少しくらいはいいだろうと、その願いを承諾した。
家に着き、祭りから帰ってきて慌てることがないよう、残った家事を済ませていた。
ふと妹の浴衣のことが頭に浮かび、洗い物の途中で、洋服ダンスを覗きに行ったが、どれだけ探しても浴衣は見当たらなかった。
やはりそうかと思い、自分の部屋に昔の浴衣を探しに向かったが、見つけたのは小さな紺色の甚平だけだった。
女の子に着せるにはどうかと思い、少し迷ったが、昔この甚平を着て母とよく祭りに行ったことを思い出し、妹に着せることにした。
古臭い甚平を着た妹は、とても楽しそうに心を躍らせていた。
祭りに行けるということが、それほどまでに嬉しいのだろう。
祭りの会場に着くと、想像以上の人混みに圧倒され、屋台通りに入る前から気持ちが疲れてしまったが、それでも妹は、初めての夏祭りに目を輝かせていた。
「はぐれちゃダメだからね」そう言い聞かせ、妹の手を強く握った。
人波に押し流されるのを恐れながら歩いていると、突然妹が僕の手を強く引いた。
「はるくん、リンゴ!」と興奮する妹が指を指した先には、艶やかな深い赤色をしたリンゴ飴が均等に並べられている屋台があった。
「美羽、あれはリンゴなんだけど、リンゴ飴だから硬くて食べられないんじゃないかな。それよりもっと他にもあるよ。ポテトとか、カステラとか……」
提案する僕の言葉などお構いなしに、妹は怒った顔で「やだ! リンゴがいい!」と駄々をこねはじめた。
仕方なく、僕はその屋台でリンゴ飴を買うことにした。
店主から渡されたリンゴ飴を、妹は嬉しそうに受け取ったが、上手く齧りつけずにいるのを見て、最後には僕が食べることになりそうだと予想した。
祭りの入り口からだいぶ中程まで歩いてきた。
相変わらず人混みは激しいが、微かに聞こえる祭囃子と、夜空にゆらめく焚き火の炎や提灯の灯りは、どこか懐かしく心地よかった。
ふと、昔に母と行った夏祭りを思い出した。
そういえば、僕も妹と同じようにリンゴ飴をねだったっけ。
重心が揺らぐリンゴ飴を片手に、母と手を繋ぎながら同じように歩いていた。
その隣には、まだ優しかった父がいたような気もした。
祭りが終わればまた、いつもと同じ日常に戻ってしまう。
学校に家事、そして妹の世話。
そんな慌ただしい毎日の合間に、父の顔色を伺う日々。
いつからこうなってしまったんだろう。
境界線もわからなくなるほど染みついた灰色の人生に、僕は突然虚しさを覚えた。
夜空を見上げながら憂鬱な気分に沈んでいると、するりと妹の手が僕の手から抜ける感触がした。
一瞬、思考が止まり、次の瞬間、背筋を冷たいものが走った。
焦って妹のいた方に向かっても、妹らしき姿はすぐには見つからなかった。
あれだけ手を離さないでと言ったのに。
橙色の炎が揺らめくように、焦りが増してゆく。
妹まで無くしたら僕は——。
震える手を抑え、屋台の店主や道ゆく人に妹のことを尋ねて回った。
「これくらいの紺色の甚平を着た女の子知りませんか!」
「手にリンゴ飴を持ってます!」
「一人で歩いていた小さい女の子見かけませんでしたか!」
人の証言を頼りに、僕は妹を探し回った。
おそらく、三十分程探しただろう。
妹は少し離れた橋梁下にいた。
「美羽!」
「はるくん!」
僕は怒りたい衝動を必死に抑え、妹の頭をそっと撫でた。
「怪我してない? 逸れちゃダメでしょう?」
妹は僕の方をじっと見つめ、言葉を発さなかった。
僕は不思議に思いながらも「ごめんなさいは?」と少し強い口調で問い詰めた。
すると妹は静かに俯いて、またそっと顔を上げ、まっすぐな瞳で話した。
「はるくん、みうとおまつりたのしい?」
「え?」なぜそんなことを聞くのかと、思わず言葉が漏れ出した。
「みうがいてもいい?」必死に言葉を探し、不安そうに尋ねる。
ますます疑問が浮かびながらも、泣きそうになる妹に寄り添うように、僕はゆっくりとしゃがみ、妹に目線を合わせた。
「当たり前だよ。美羽がいてくれないと嫌だよ」
そう言うと、妹は「そっか!」と言って笑った。
何かが吹っ切れたような、悩みが解決したような、そんな明るい声だった。
「はるくん、帰ろう」
「もういいの?」
「うん!」僕の手を強く引いて、そう言った。
その手は温かく、小さいながらも僕の手をぎゅっと強く握っていた。
この手の感触を忘れないでいたい。
手を離してしまえば、またどこか遠くに消えてしまいそうな、そんな気がしたから。
黒く染まった夜空の下で、風に吹かれた木の葉が舞い、楽しそうに帰路に向かう妹の手に持っていたリンゴ飴は少し溶けていた。