ペイデイ -後日譚として-
〈短夜や小説の坐礁見届けて 涙次〉
【ⅰ】
働いてゐて何が樂しいか- と云へば、云ふ迄もなく、給料日をまた恙無く迎へられたな、と云ふ實感を感じられた時に勝るものはない。金尾が來て以來、その實感をカンテラは受け取り人の一人として並んで得る事になつた(カンテラ事務所では何事もキャッシュ決濟である)。
そしてじろさん始め「開發センター」の安保さんに至る迄、給料を受け取りに勢揃ひするメンバー。時軸も、薄給であるがその仲間入りさせて貰つてゐる。
さて、その後、だうするか。その日は暇であつた。カンテラは* 尾崎一蝶齋と木刀に拠る稽古を着けてペイデイの半日を樂しもう、としてゐた。
* 当該シリーズ第32話參照。
【ⅱ】
ところが、と或る珍客が、カンテラを待ち受けてゐた。* 貝原麻織である。彼女は祖父・文嗣の使ひ、と云ふ名目で、カンテラ事務所を訪れてゐた。勿論の事、彼女はカンテラに會ひたい一心だつたのであるが... 貝原會長は、もぐら國王の「仕事」の件にこそ触れなかつたものゝ、カンテラ一味に對して「思ふところがあり、一からやり直す事に決めました。その思ひが生じたのは、。偏にカンテラ事務所皆様方のお蔭です。だうぞ良しなに、交流を續けさせて頂ける譯には行きませんか」との書狀を達筆で書き、麻織に預けたのである。これは意外であつた。彼は、國王の用心棒としてのカンテラ一味が、一體何をしでかしたのか、知つてゐた。結局、安保さんは脱サラは諦め、(株)貝原製作所復興に付き合ふ事になつた。
* 前シリーズ第188話參照。
【ⅲ】
時軸、流石惚れつぽい彼の氣質を以てしても、この麻織と云ふロリータに惚れると云ふ事はなかつたが、彼の初戀の相手は、麻織に何処かしら似てゐた。そして、何かしてあげられる事はないか、それとなく探りを入れた。彼女のカンテラに寄せる氣持ちを知つた時、年齡に拠るタブーの莫迦らしさを思つた。だが、タブー以外にカンテラの身が退けてしまふ理由は、彼には思ひ付かなかつた。單にカンテラの女嫌ひがその譯なんだらう、彼はそんな程度に思つた。彼女の興信所まで使つた偏執的な戀心を、時軸は知らず、せめて笑顔を見せるぐらゐは、カンテラにも出來る筈だと思ひ込んだ。
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〈髪洗ひ何処か可笑しい我が成りを家の者云ふそれも白晝 平手みき〉
【ⅳ】
だがほんの下つ端である彼に、何が出來ると云ふのか。自らが麻織の思ひを受け止める(つまり、麻織の想ひ人である事を、カンテラのやうに自分で獨占する)事が出來たなら‐ その思ひは、決して一途には麻織に届かなかつた。口惜しい氣持ちが時軸の心を占領した。そして、あらう事か、その瞬間、彼は【魔】に戻つてゐた。テオのタロウ・スコープには彼の魔性(一時的だとは云へ)がありありと映し出された。云ひ替へれば、時軸、臨界點に届きさうになつてゐた。余りに、不安定過ぎる、時軸の「人間」としての心。
テオ「時軸くん、ちよつといゝかな?」‐「何でせうか」‐「きみの企みは、何だ?」‐「企み? たゞ麻織さんが不憫だと」‐「彼女は不憫で丁度いゝんだよ。さうは思はないかい? 彼女を放つて置く事が出來ないやうだつたら、カンテラ兄貴は、きみを解雇するより他にない」
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〈夜の聲あれが鵺なり夏の闇 涙次〉
【ⅴ】
時軸、その時點で我に還つた。自分はまた【魔】の世界に墜ちるのか。そのテオの一言は、カンテラの剣に匹敵するかの如く、「効いた」。何とも云へぬ、斬られたやうな感覺が、彼を押し黙らせた。タブーなどない。分かり切つた事だ。然し、カンテラの自由を阻害出來る自分ではない。我々は大人なのだ。戀に戀する年頃は、もうたうに過ぎ去つてゐる。時軸はテオに陳謝して、何とか事なきを得た。自分のちつぽけな思ひ出、それだけが大事な時軸に、還つたのだつた。【魔】が離れ、身が輕くなるのを、彼は確かに感じた、と云ふ。お仕舞ひ。
PS. 少女には、少女期と云ふものには、或る「危ふさ」を、作者、感じてしまふ。野放しにしてゐていゝものなんだらうか、と云ふ氣さへ起きる。だがそれも、今回語つた事とは、別の機會に論ぜられるべき事であるやうだ。お粗末様。