6・これからは二人で
『……起きたか、伊吹』
カーテンの隙間からやわらかな朝日がさしこんでいる。
窓辺でふり返った挽霧さんの目にはもう黒い淀みは残っていなかった。長い髪も整えられて、二本の角はお団子風に隠されている。
清流を思わせる淡い青の着物。帯では野晒しのドクロに夏の花がツルをからめる。青紫のあの花は……鉄線花かな。
俺は布団から出て、畳の上にきちんと座った。
「あんなやり方しかできなくて、ごめんなさい。助け出すのに五年もかかった……」
『伊吹が謝る必要はない。また会えて嬉しい』
挽霧さんは静かに近づいて、俺の顔にそっと右手を伸ばす。
ひんやりとした指が俺の頬に寄りそった。
鋭い爪で傷つけないよう注意してるのがわかった。俺って大事にされている。
普段の落ち着いた挽霧さんに、こうして優しく触れてもらうのが好きだ。
本能をむき出しにした古い水の神に血をすすられ、体の内側から命をむしばまれていくのも同じくらい好きなんだ。
どっちも、俺の存在が拒絶されてないんだって思えるから。
お姉さんの指先が俺の肌から離れた。チョウが飛び立つみたいに。
『指は動く? 伊吹にはすまないことをした』
「平気だよ」
もう痛くもなんともない。ただ、小指の一部に小さなアザができている。日焼けした俺の肌だと特に目立たない。
「挽霧さんこそ無事だった? ちょっと弱ってる? ニジマスとかアイガモとか食べたい?」
神さまへのお供えに魚や鳥をささげることもある。肉の定番の牛や豚はダメ。一般的な決まりとしてはそんな感じ。各地の神社特有のルールで色々と例外もありそう。
『ふふ、お前は優しい。心配にはおよばない……と言えたらどれほど良かったか……』
視線がふっと外された。
挽霧さんの凛とした表情に、思い悩むような影が落ちる。
『伊吹のおかげで私の意識はここにある。けれど、あの蔵にはまだ私の依代が残されている。力の大半をそちらに封じられたまま……』
長い前髪に隠された片目。どこか不気味で、なのにキレイな、その眼差しはとても不安そうで。
自分自身を冷たく突き放す弱々しい笑い声が、細いノドからもれる。
『なんともたわいのない存在にまで落ちぶれてしまった』
「それでも俺はずっとそばにいるから!」
気づけば身を乗り出していた。
俺は心を落ち着け座り直す。
「俺が人間の力を貸す」
お姉さんの助けになりたいんだ。
『ありがとう』
「うん。人間の生贄が必要な時はいつでも俺に声をかけて」
梅雨の湿気並にジトッとした目で挽霧さんににらまれる。
『……滅多なことを口にするものではない……』
叱られた。
俺は身支度を済ませ朝食をとる。もちろん、炊き立てご飯の供物も自分の食事より先に用意した。
少しぬるめの緑茶と、しょう油味の玉子焼きと、レンジ調理のモヤシのおひたしがならぶ食卓。
俺が皿洗いを終えても、お姉さんはずっと外を警戒していた。常杜の郷の関係者を気にしてるんだろう。
つらい話題なのはわかってる。でも、しらないままでいるわけにもいかない。
「その……挽霧さんを閉じこめてきた相手について、わかってることがあれば俺にも聞かせて」
軽くうなづいて挽霧さんは冷静に話してくれた。
『おそらくは人間。ある種の罠を土地にしかけ、正邪かまわず霊威ある者を捕らえているようす。罠というのは、そう……異様な御幣とでも言おうか……』
ふつうの御幣っていうのは、清らかな白い紙をカミナリ状にジグザグに折って、木や竹の棒をつけたものだ。
俺の住んでる地域だと大晦日に御幣で家中をお払いするって風習がある。お正月には色んな家の敷地のすみに役目を終えた御幣が立つ。お姉さんに教えてもらう前は、よくわからない怖いものだと思って用心してたっけ。
『あれは紙とも木綿とも異なる素材で作られている。透けてもあり濁ってもいる灰色で、緑色の光をおびもした』
「ずいぶん機械っぽい感じだね」
現代人の目から見ても怪しいアイテムだ。
緑の光っていうと、信仰保存室の照明もそんな色合いだった。
土地に罠をしかけて無差別にっていう手口なら、挽霧さんだけをターゲットにしたわけでもなさそうだ。
でも蔵の中にあったたくさんの棚じゃなくて、数の限られている小部屋に祀られていたことを考えると、常杜の郷が挽霧さんを特別扱いしている可能性が高いよな。
いなくなったことにいつ気づく?
気づいた時にどう出てくる?
相手の動きをシミュレーションして不安になっている自分に気づいて、腹が立つ。
慎重に対策を考える姿勢も大事だとは思うけど判断材料が少ないし、そもそもそれって後手に回ることだ。
俺は挽霧さんの自由や安全を最優先したい。
追手に怯え続ける暮らしは不自由だ。
無警戒でいてまた安全を脅かされるのも問題外。
挽霧さんを捕まえた無礼者が、二度と手出しできないようにする。
まだナゾの多い相手を突き止め、問いただしてやる。
話のつうじる相手ならこちらも言葉で応じるさ。
そうでないなら、俺もほかの手段を選ぶしかない。
……怒りで気が急いている。俺の感情だけで先走るのはダメだ。
もしも挽霧さんがもう常杜の郷に一切関わりたくないのなら、俺はその意思にしたがう。
「俺は……もうこんなことが起きないように、神さまたちを閉じこめてるヤツを表舞台に引きずり出したい。蔵の御幣に残された挽霧さんの力も、このままにしておけないよ。挽霧さんはどうしたいと思ってる? 意見を聞かせて」
挽霧さんは俺の言葉をじっと聞き、思考をまとめるように短い間その目を閉じて、またゆっくりと開いた。
『お前の方針に私も賛同する。……くれぐれも伊吹一人で無茶はしないように。失ったものを取り戻そう。私たち二人で』