5・憑れ帰る
次の日の夕方、供物を下げるために俺は蔵にきていた。この仕事を終えればあとは帰るだけで、明日は休みだ。
何食わぬ顔で俺は最大の禁忌をおかそうとしている。
監視カメラを気にすることもなく、いつもどおりシンプルなトレーを持って小部屋にむかう。
扉一枚へだてた先に挽霧さんがいる。
俺の小指には、安全ピンで刺したばかりの小さな傷がある。
自分でも気づかないうちにうっかりやってしまった――。もし誰かにバレても、そんな言い訳ができるレベルの傷だ。
小指はゆるく握りこむ。カメラに映ったり、何かに触れて血をつけないよう注意を払う。
日常的な、目立たない、すぐに血が止まるかすかな傷。
少量とはいえ、それはまぎれもなく、綱分伊吹の新鮮な流血だった。
覚悟を決めて、信仰保存室の重い扉を開く。
挽霧さんはまだ拘束状態で目を閉じていた。白い和服姿で、メカニカルなパイプやケミカル感のあるチューブに身動きを封じられている。
部屋に一歩足を踏み入れた瞬間。
空気が変わる。
むずがゆさが俺の肌を伝う。
足首をムカデがはい回るような。
首筋をちろちろとヘビの舌でくすぐられるような。
底の見えない深く暗い淵にジッと見つめ返されているような。
緊張感だけで心臓がつぶれそうだ。ひさびさに味わう、ちょっとでも気を抜いたらそのまま得体のしれない生きものに喰い殺されちゃいそうな、この感じ……。
最高だ!!!
やっぱり俺は挽霧さんが好きで好きでたまらないんだって改めて自覚する。
俺は供物の台の前でうやうやしく屈む。
フタをすると雫型になる白い陶器の水入れを下げてトレーに乗せる。
ゆっくりとした開眼。
挽霧さんの口をふさいでいた、何かの装置めいた電子的な猿ぐつわがヘドロみたいにとろけて滴る。床に落ちると、黒いドロドロはにわか雨ほどの水のシミに変わった。すぐに乾く。
唇も肌も着物も、挽霧さんは何事もなかったみたいにキレイなままだった。
『……伊吹……?』
半分寝ぼけた声で名前を呼ばれた。可愛い。
この世のものではないかすかな響きが、俺の耳をなでて鼓膜をそっとゆらし頭に忍びこんでくる。
嬉しくても俺は平然としてなくちゃいけない。塩の小皿を手に取り下げる。
見る間にパイプがサビ腐る。無数のチューブは素材が劣化し内部の液体をぴゅるぴゅるとまき散らす。パイプもチューブも虫が息絶えていくみたいに挽霧さんの体から外れ、白いモヤになって消えていった。
『……なつかしい匂い』
手枷つきでも、あるていどの自由をえた体は、水中を優雅に舞うように保存室内を移動する。素知らぬ顔を続ける俺の近くまでやってきた。
今の挽霧さんの髪はほどけ、いつもはお団子ヘアに見せかけている異形の二本角があらわになっている。目には黒い涙の淀みまで。
禍々しさ全開。
こういう時のお姉さんは危ない。それもまた俺にとってはすごく魅力的だ。
俺は最後の白米の小皿をそっとトレーに乗せる。
長い歳月をかければ水は岩をも削るというけれど、お姉さんの手枷には一瞬でそれが起きた。手枷がじわりと湿ったかと思えば、削り取られて崩れ去る。
『夢じゃ、ない……。伊吹……』
まどろみから抜けきらないとろりとした顔で、控えめな笑み。
お姉さんは迷わず俺に手を伸ばした。
小さく上品な口が、かすかに開かれる。
そのとたん、俺の小指に異常な激痛。
骨折と化膿と水ぶくれが一気に襲いかかってきても、こんな痛みにはなりはしない。
ここで騒ぐわけにはいかないっ、耐えろ! 黙って歯を喰いしばる。でも正直……目玉が裏返りそうだッ!
ああ嬉しい、うれしい、うれし……っ!
こんなの、挽霧さんに生きたまま食べられてるのと同じだ。
このためにッ俺は産まれてきたッ!
興奮するな俺。平常心を維持しろ。
なんとか保存室から退出すれば、激痛のピークはすぎ去った。
蔵を出る時には、ドクンドクンという指先の鈍いうずきに変わる。
姿こそ見えないが、すぐそばに挽霧さんの気配を感じた。
今すごく幸せな気分だよ。
「え! 綱分くんっ、顔色悪くない? 大丈夫そ?」
事務所で堂ノ下先輩に会った。机の上のパソコンを操作する手を止めて、おいおい平気かー? みたいな軽いテンションで興味をむけてくる。
しつこく詮索されたくない。
ここは意地になって否定するより、てきとうに肯定して流しちゃう方が早く切り上げられるだろう。なんて思考を激痛の名残りでぐったりしてる頭で素早くめぐらせた。
「体のダルさとかはあります。なんでしょう、疲れですかねー。明日はゆっくり休むことにします」
「そうしな、そうしなーっ。ムリせず早く寝ちゃいなねー」
先輩の眼鏡と視線がモニターに戻る。
その日の夜の安アパートには、寝こんだ俺と不気味な気配となった挽霧さんがいた。
窓をカタカタゆらしたり、電気をつけたり消したり、机の上の小物を落としたり。挽霧さんはこの部屋を調べてる。
挽霧さんはね、たぶん心の底では俺の命まるごとを喰らい尽くしたいって思ってる。ふだんはガマンだ。そんな欲望なんてないフリをして涼やかな顔をしてる。
いくら忍耐強い挽霧さんでも、意識がぼーっとしてる時なんかに俺の血の匂いなんか嗅ぎつけたら、いつもは隠している本性が出ちゃう。
そういう自分の凶悪な一面を挽霧さんは恥じてもいる。
大丈夫だよ。きっかけを作ったのは俺なんだからお姉さんは何も悪くない。
食べたいのなら、どうぞもっと召し上がれ。
さっきの蔵で、囚われの挽霧さんは俺の血に反応し目を覚ました。
なかばまどろんだ意識のまま、俺の傷口から命に浸食する。いわゆる憑りつくみたいな。
俺はそのまま挽霧さんを奇妙な蔵から連れ出した。
俺は職員として不審な動きはしていない。堂ノ下先輩とか監視カメラとか、挽霧さんの姿がわからない相手には異常なしに見えている。
だから常杜の郷公園の関係者がすぐに俺の家に襲来するなんてことはない、と思う。少なくとも当面は。
……念のため枕元にはダンベルと強めの光が出る懐中電灯を用意して、俺は古い畳の上で薄っぺらいタオルケットにくるまる。小指だけじゃなく、全身がものすごく疲れていた。泥人形にでもなったみたいだ。
夜の眠りの世界で、俺はぼんやりと感じた。
正気に返ったお姉さんが謝る声。
慈しみをこめて俺の髪をなでる、やわらかな手の動き。




