38・荒魂
挽霧さんの目からあふれる淀み。水に落とした墨のように空気の中で黒くにじむ。
長い髪が水中にいるみたいにゆらいでいた。
二本の角を隠していたお団子髪もほどけてしまう。先端が青紫に色づいたお姉さんの角が露になる。毒々しく染まったその角を恥じていたはずなのに、人目に触れてもおかまいなし。
妖艶な笑みを浮かべたお姉さんが俺の上におおいかぶさる。
のしりとしたやわらかな肉の感触。
長い髪がぶわりと広がった。
「こうなってしまえば畜生と大差ありませんね」
「……え、……水神さま?」
「息してるか、綱分ぃっ!」
挽霧さんの理性はマヒし、敵である牛鬼に興味さえ示さない。
お姉さんの関心がむいているのは俺。額からの出血を指でねっとりすくいとって、自分の唇に運ぶ仕草が色っぽい。
「道に吐き捨てられたガムぐらいには僕を手こずらせた連中でした。これでようやく、あなたがたお二人の始末にとりかかれるというものです」
俺の視界の端で、星澪沙と鞠が牛鬼と対峙している。
蔵の神々から吸い上げていた霊力は、ほとんどが塩来路の取り分だったんだろう。同じ獣人の姿でも、鞠と寅之助じゃ強さが段違いだった。
星澪沙も気丈に頑張ってはいるものの、性格そのものが争いにむいてない。
キツネとカワウソの従者たちも一応武器をかまえてはいるが、正直怖気づいているのが丸わかり。
勝ち目がないのは明らかだ。
この窮地で思いがけない行動に出たのは――機械の腕だった。
霊体に干渉できるその腕が。
俺とお姉さんが三旧家の秘密に関わることになったきっかけが。
挽霧さんを正気に戻すために近づいてくる。
機械腕の外装が、黒いヘドロ状に溶けて滴り落ちた。
挽霧さんの荒ぶる魂が苛烈な祟りとなって振りかかる。
それでも機械の腕は挽霧さんの注意を引こうとする。
内部機構が見る見るうちにサビと腐食に侵されていく。
牛鬼に応戦するみんなの声が俺の耳にも聞こえる。決死のかけ声に、苦痛のうめき。
機械の腕は止まらない。
諦めようとしないのは、自分を作り出した主、星澪沙の命を救うため。
ボロボロになったオ魔モリー手くんの腕が、ついに挽霧さんの肩に触れる。
弱々しい動きでその肩をそっとゆすぶる。どこまでも切実に。
困り果てた幼子が、大人の助けを求めるように。
『……!』
お姉さんの顔から恍惚の笑みが消えた。
にじみ出す淀みも、水中さながらにゆらめく髪も、胸元がはだけてしまった着物の乱れもそのままだったが、瞳には理知の光が戻っている。
『すまない、手間をかけた。大事はないか?』
罪悪感に顔をくもらせて俺とリー手くんを気遣った後、挽霧さんは牛鬼のいる方へと素早く視線を動かした。
『あとは私に任せるが良い』
挽霧さんは戦う気だ。
雨すら降らないこの病んだ大都市で。
建物がかすかにゆれている。
何やら地上の方が騒がしい。
ここは高すぎて、どちらもはっきりとは感じ取れないけど。
壁面にすえつけられた目立たない装置が黄色く光り、機械音声の声が注意をうながす。
――浸水害の恐れがあります。浸水が予想されるエリアは、地階、です。
「堕ちた女神の悪あがきですか」
星澪沙と鞠への攻撃の手を休め、牛頭鬼が挽霧さんに視線をむける。
「先ほどよりも霊力は増しているようですが……だからどうしたと言うのです? あなたの能力で可能なのは、最大でも50メートルほどの水柱を噴出させるだけ。下々の世界ではさぞかし大混乱でしょうけど、僕のいる高さがわかりますか? 桁が一つ違うんですよねぇ」
アスファルトとコンクリートを突破して、いくつもの大水柱が立ち昇る。
しかし、高く噴き上がった水も、低みに流れこんでいく水も、この男には影響を与えない。
『そうだろうな』
自棄になったようすでもなく、挽霧さんは冷静に返す。
牛鬼の注意がそれた隙に、星澪沙が急いで俺のところにやってきた。
ケガ人の安全を確保し、壊れかけのリー手くんを労わって、これから起きる何かに備えて迷いなく行動している。
「綱分さん、動くのもつらいでしょうがあっちの柱の影まで退避しましょう。さっきのタオルや丈夫な紐があれば貸してください」
武器としての役目を終えた長タオルと、パラコードの束を星澪沙とカワウソたちに渡す。
何か起きる……?
星澪沙が挽霧さんの作戦をわかっているとして、それなら牛頭鬼にも異能と洞察力で見抜かれているはずだ。
どうすれば勝てるのか、俺には見えてこない。
でも、不思議と怖くなかったんだ。
お姉さんの凛とした顔を見ていると。
壁の警告ランプが黄色から赤に変わる。
――浸水害が発生しました。浸水エリアは、地階、地上一階、です。
「あぁ、大変だ。この最上階が沈没するころには、きっと世界中が水の底に沈んでいることでしょうね」
牛鬼が余裕の笑みで高をくくった瞬間、ビルがゆっくりと……不穏な音を立てて傾いた。
――浸水害が発生しました。浸水エリアは、地階、地上一階、二か――。
警報を発していた機械音声が途切れ、建物内の電気系統が一気に停止。
その間も建物の傾きは止まらず、立っているのも危うくなる。
俺たちがいるのは堅牢な柱の裏。
図書室みたいに広い書斎に立つ柱だ。
「大丈夫か? こんなんお飾りの柱じゃんかよ」
鞠の疑念に星澪沙がちょっと早口で返答。
「こういった化粧柱は構造の補強にも役立ってるから。特にこれはしっかりした造り。表面は豪華さ重視の大理石パネルと真鍮目地でカバーされてるけど、中身は超高層ビルだって支えるSRC柱相当の材質のはず」
「よくわかんねけど、星澪沙がそう言うんなら心配ねんだな」
すでにカワウソたちが仲間同士に命綱を結わいてある。
負傷して体に力が入らない俺にキツネ面が肩を貸す。この人だって腕や脚に血がにじんでいて辛そうなのに。
「決着ついたら速攻で私んとこ、ズラかんべ」
鞠は意識を集中させるのに戻った。
倒壊しかけのビルから脱出するのに、三旧家の加護である幻の領地を経由する。
堤我の水流サイバーパンク都市から、塩来路の夜景の摩天楼世界に塗り替えられたように、今度は稲門昏の農村領地に転移する手はずになっている。
巨大な窓が割れる音。
こういう高層建築だと、ただのガラスよりもずっと頑丈な素材で安全に作られているんだろうけど、さすがに床から滑り落ちた牛鬼の激突に耐えられるようにはできていない。
牛鬼はかろうじて片手でしがみついていた。
「お゛っ!? ぐ、ぁぐぅううぅ……!?」
人の姿に戻れば軽くなるのかもしれないが、片手一本で自身を支える筋力があるかは疑問だ。
牛頭鬼の剛腕なら、ひょとしたら片腕でも自分の重量を引き上げられそうだ。でも、ギリギリのバランスでビルから外れずに済んでいる窓枠がその動作に耐えられるかどうか……。
俺にはおぼろげな想像しかつかないけど、情報を映し出すヤツの目と利口な頭にかかれば、どうなるかは全部わかってるんだろうなぁ。
「おかしいっ、理解できないっ。これほど堅牢に作られた建築物を脅かすだけの能力は、たしかになかったはずだ! どんな狡い手を……」
『貴様の異能による見立てに一切の誤りはない。私の霊力では、大地やその上の建造物を動かすことはできない』
直接は。
『……あれだけの水を一度にくみ上げれば地下空洞の崩落が起きる。地表がどれほど固め尽くされていようが、被害をまぬがれないどころか……重い都市であればあるだけ甚大な災禍に見舞われる。私の霊力によるものではなく、自然の道理で』
ケガの痛みでよろめいた俺のポケットから、見破られて不発に終わった卵の目つぶしが転がり落ちる。
砂鉄にトウガラシの粉末、イラガから採取したトゲといった俺特性の配合の毒煙が牛鬼の顔面で炸裂した。
黒い巨躯が消えた。
重力に案内されて、さんざん見下していた下界へとご招待。
「挽霧さ……っ」
すぐに鞠の転移がはじまる。
俺は満身創痍の体で必死にお姉さんの名を呼び、腕を伸ばす。
細くしなやかな手をザラリとした俺の手でしっかりと握りしめた。




