37・回廊見下ろす摩天楼
「……っ!?」
ぐわりと世界が不安定にゆれる感じ。
耳鳴り。キーンとした頭痛。視界が白黒する。
感覚が正常に戻った俺が真っ先にしたのは、挽霧さんが無事かどうかの確認。
いた。ゆらりと宙を舞っている。
お姉さんも俺と同じことを思っていたらしく、お互いの視線がぶつかり合った。
慎重に警戒を強めながら、うろたえも怯えもしていない、思慮深い瞳と。
星澪沙と鞠と、それぞれのケモノ面の従者たち数人もいる。
気分が悪そうにハンカチで口を抑えていたり、壁際でへたりこんでいるけれど、無傷だし意識はしっかりあるようだ。
室内のようすは一変していた。
挽霧さんが作り出した深い霧は完全に取り払われ、堤我の館にあった潤沢な水の流れも消えている。
部屋の内装もまったく違う。
黒と金をベースにした、重厚感のある広々とした書斎。ここに並べられた本は実際に読むためのものというよりも、部屋に足を踏み入れた人を知性で威圧するためにあるって印象を受けた。
これって塩来路のセンスだろ。
巨大な窓の外はビル街の夜景。空には月も星もなく、人工的なドーム状の天井におおわれている。
ここってそうとう高い場所だ。この世界の一番の頂点か?
はるか下の地表には黒々とした病んだ道。ケシ粒か小さなアリみたいに見えるのは、この世界の人、人、人。牛の仮面とスーツを着けた大柄な住民たちは、死んだような従順さで都市回廊を歩く。
さっきまでの寅之助の姿は見当たらない。
その代わりに、部屋の中にゾウ並みに巨大な何かがいる。
牛頭の鬼が面白がるような目つきでこちらを見下ろしていた。
「……中途半端でみっともない牛頭馬頭のコスプレを見ることになるとは。馬頭がいないのは、独断的なワンマン経営者っていう本性でも反映されてんですかね?」
話しながら、観察の時間を作る。
事前の想定よりもだいぶ肉体が大きい。
以前に鞠が見せた変化では、ここまでの大型化はなかったのに。
変幻自在の布を活かして立ち回ってきたけれど、あの屈強な巨体には有効打を与えられそうにない。
水で呼吸を防ぐ奥の手も、決まるかどうかはかなり怪しい。デカすぎる。頭までが物理的に遠い。
人質作戦のための小さなナイフや、服に隠したカミソリじゃ、あの牛頭鬼の体に引っかき傷ていどしか作れそうにない。
「上に立つ者を狡いズルいと指をくわえてうらやむ、負け犬らしい着眼点です」
より低く重みを増した声。
穏やかな口調で静かにしゃべっても、それだけでまわりに圧を与える声だった。
上辺だけは丁寧な言葉の裏で俺に強烈な殺意をむけている。
本当に腹黒くてイヤなヤツだ。同族嫌悪すら感じるほどに。
「お前にできるのは予知でも読心でもない、ただの目利き。ふんぞり返っているわりにはショボすぎる能力じゃありません?」
空に広がるあのドーム。
あれじゃ稲門昏のキツネ領でやったみたいに、大雨を降らすなんてこともできない。天候や水をあやつれる挽霧さんでも、これは不利すぎる条件だ。
「あぁ、君は未熟で見識が浅い。ビジネスや戦いにおいて、正確な情報を瞬時に読み取れるという利点をずいぶんと過小評価しておられるのでは? もっとも……たしかに僕の力では、君が目潰しの粉末をいつ僕に投げつけようと企んでいるのかまではわかりませんがね。卵の殻につめた、安っぽく惨めったらしい手作りの」
隠し持ってる道具までも俺に関する情報の一つって扱いなのかよ。
勝ち目がどんどん狭まっているのを感じる。
すがりつくのもためらうような、細い糸一本くらいの活路。
その糸をつかめるのか、逃すのか、そもそもまだ勝機への一筋の希望があるというのさえも俺の見誤りにすぎないのか。それを確信するすべはない。
不快な冷や汗が首筋を伝って流れ落ちた。
豪華な書斎のドアが開きかける。この世界の牛従者の一団がなだれこもうとしているんだ。
「はーっ! かったりぃ! どっからわいてきた、ウスノロども! 立ち入り禁止だっての! 散れ!」
部屋への乱入を鞠がすんでのところで阻止。化けギツネの獣人姿になって、塩来路の配下の参戦を手荒に邪魔する。
ドアの間から顔を出した牛面に、ふうっとキツネ火の吐息を吹きかけてたじろがせる。さらにキツネたちをこき使いバリケードになる家具を運ばせていた。
荒事の足を引っぱらないようにと大人しくしていた星澪沙も動いた。
その手にあるのは灰色の御幣。
「おっ、お役に立てるかわかりませんが、私も……オ魔モリー手くんと加勢しますぅ!」
物理的な実体を無視して霊体への干渉が可能な機械の両腕が、壁をすり抜けていく。ドアのむこう側で牛面たちのものと思しき混乱の悲鳴が反響する。
機械の腕はVサインをして、すいーっと部屋に戻ってきた。
「私の前で頭が高いんだよ。いくらデータがそろってたって対処できない、野蛮で陰湿な集団の暴力ってぇのを目にもの見せてやっからな」
鞠の粗暴な態度に腹が立つことも多かったけど、今この時はその負けん気にちょっと救われてる俺がいた。
奮い立たせた士気を巨躯の牛頭鬼があざ笑う。
「粗悪な頭の持ち主というのは本当に哀れなものです。相手の力量どころか、自分の能力すらまともに理解できていないとは」
巨体は動きが鈍そうに見えるが、それは間違いだ。
腕が長ければ、それだけ攻撃範囲が広くなる。
足なら、一歩の距離が大きくなる。
俺を叩き潰そうとする剛腕。
紙一重で飛び退いた空中の一瞬で、俺はそう痛感する。
『足場を作る。金物の水筒の中身を一滴残らず巻き散らせ』
ステンレスボトルのフタを開け、中の水を挽霧さんにたくす。
霊力をおびた薄モヤとなって、俺の足をやわらかく包む。
次に星澪沙が御幣の機械腕を張り巡らせたのを見て、俺は二人の意図を理解した。
機械腕の上に飛び移る。
淡く霊力をまとった俺の足は、機械腕の上に踏みとどまれている。
機械腕は飛翔もできる。移動経路が単調になる恐れもない。
「おい、綱分ぃ! これ持ってけべぇよ!」
方言丸出しになった鞠が何かを投げ渡す。
「刀?」
時代劇や映画で侍が持っているものと比べるとかなり小ぶりだ。
脇差ってヤツか? 長さは二尺を下回る。
「ご先祖さまは昔ん時分からこけぇらの大名主だったんだ! 名字帯刀を認められた、そら立派な豪農よ。アンタに貸す! 私への謝礼は……今までの非礼を許すこと!」
「……仕方ないなぁ。水に流してあげるよ」
縦横無尽。
機械腕の上を駆け抜けて、俺は牛鬼に近づく。
狙いは左目。
それはフェイント。
正面から挑んでも角の突き上げを喰らって終わるだけなのは、あらゆる情報を見抜く異能なんて持ってない俺にだってわかるよ。
俺が刃を突き立てたいのは……首の後ろだ。
機械腕から飛び移り、肩にまたがり、刀を押しこむ。
……ところまでは成功した。
切っ先は何も貫くことはない。
こともなげに首の後ろに伸ばされた、二本の指に挟みこまれて。
「複数で連携すればその分だけ僕の情報処理の負荷が増し、ほころびを見せるだろう、と……。初見ですぐ気づくとはやはり有能ですね。ただ……僕を見くびりすぎました。その点は無能と言わざるを得ない」
『くっ……』
俺を守るために挽霧さんがなけなしの水分を凝固させる。
放つことができたのは、脆く儚い微細な霰。
牛鬼に捕まる前に、俺は肩から跳び退く。
すかさず機械腕がサポートに入り、俺を乗せて牛鬼の間合いから遠ざかろうとした。
「はは」
太く武骨な指先に、キラリと光る何か。
奪われた稲門昏家の刀が俺にむかって飛んでくる。
……俺に認識できたのはそこまでで、その後何が起きたのかしっかり把握できていない。
気づいた時には機械腕から落下中。床に衝突する前にとっさに最低限の受け身をとることはできた。
全身が痛い。額の髪の生え際あたりがすーすーする。多分ぱっくり皮膚が裂けて、肉が空気を感じてるんだ。ぬるっとした血の感じが顔を伝う。
地面の虫を潰すのと同じ感覚で、牛鬼の手が床に倒れる俺に伸びてくる。
立ち上がる。
距離をとろうと跳び退いた。
牛鬼のもう片方の手の一振りで、俺はピンポン玉みたいに吹っ飛ばされる。
着地の位置もタイミングも寸分たがわぬ精度で予測されていた。
『伊吹……!』
「今の君に出せる跳躍力はこのぐらいだとわかっておりましたから」
衝撃でまだ頭がくわんくわんする。
「分不相応に増強されているようですが、君の貧弱な膂力では僕の脅威にはならないことも自明の理なので」
『あぁっ』
いつもあんなに冷静で優雅な挽霧さんの表情にも焦燥感が浮かぶ。
俺がしっかりしないと。悲しませたくない。
でも意志に体がついてこない。
血が。
血がたくさん流れてしまっている。
『っ……ふ』
お姉さんの呼吸が乱れはじめる。
禍々しさと悪辣さが息遣いにもにじみ出す。
お姉さんってばそんなに物欲しそうに身もだえして。
ガマンできないの?
こんなところで。
ダメだよ、今は……。
俺の生き血も生き胆も残さず食べてもらって良いけどさ。ほら、まずはアイツを倒さないと……。
ここで挽霧さんが理性を失うのはマズい。
落ち着いてもらうために言葉をかけようにも、俺の口からは言葉じゃなくて血の混じったゲロがこぼれた。




