30・水葬神域
住宅地を流れる川は、うっすらとしたモヤが低くたなびいていた。物珍しさに足を止める通行人は意外と少なく、ほとんどの人は軽く一瞥するかしないで足早にそれぞれの目的地へと急ぐ。
俺が呼びかけるよりも先に挽霧さんが気づいた。
『伊吹、無事で何よりだ』
お姉さんの両手がそっと俺の頬を包むと同時に、視界が濃密な白い霧に覆われる。
何も見えなくなったけど、俺はちっとも怖くなかった。
さらさらとした水の音が聞こえる。
霧の目隠しが晴れていく。
大地と水辺が入り混じる、果てしない原野が広がっていた。
清らかな水に洗われるのを楽しむように、白い花をつけた梅花藻がゆれている。
あっちの水面に浮かぶのは、スイレンに似た小さな葉。花はスイレンとは違っていて、花びらのふちがフリルみたいに繊細なギザギザで彩られている。アサザの花だ。
足下の地面を這うのはチドメグサ。
背の高いミソハギの花に、小さなシジミチョウがふわりと舞い降りる。
自然の中に積み上げられた素朴な石の塔。
散らばる白骨も景観の一部だ。
地面のところどころに川や泉や水たまりがあって、水の中には淡水魚や水棲昆虫のほかに人魂と鯉と白シーツのオバケを合わせたような何かも泳いでいた。
「すごくキレイなところだね」
お姉さんが控えめに笑う。
『第一声がそれか』
ここがどこかとか、何をしたのか聞かない俺のために挽霧さんが簡単に教えてくれた。
前に神社の渚獲さまが神域に招待してくれたけど、霊力を取り戻した挽霧さんもあんな風に俺を異空間に招いてくれたんだ。
ここなら景色が良いだけじゃなくて、ほかの人に話を聞かれることもない。
俺は堤我組での出来事を説明する。
『……私たちの動きが露見したものの、穏健な人柄の堤我の娘と話をつけて、今後私への手出しはなくなった……と』
挽霧さんの表情は浮かない。
『……すまない、複雑な心境で、どう声をかけたものか私自身も悩んでいる。……私の安全を保障するために、お前が汚れ仕事を引き受ける約束をしてきたのか……』
「……うん」
堤我星澪沙と話していた時の慇懃無礼な喰えない態度はすっかり消え失せて、俺は気まずそうな雑種犬みたいになっている。勝手なことをして、飼い主のお姉さんを困らせてしまっただろうか。
『とても手放しで感謝はできないが……ここで伊吹を強く咎めるのも間違っているように思う。こっちにおいで、伊吹』
俺の大好きなお姉さんはとっても優しい。
『口を開けてごらん』
素直にパカッと口を開く。丁寧な歯磨きを欠かさないこの歯を見て。
『素直だ。愛いな』
優しくささやきながら、お姉さんの指が俺の舌をつかんだ。ぐにぐにされる。
嬉しいな。このお仕置きをされるのは本当に久しぶりだ。
親から何もシツケられてなかった俺は道理も倫理もしらないクソガキだった。言葉だけで善悪を伝えられればそれが一番良いんだろうけど、昔の俺にはそれも通用しない。俺が人の話をきちんと理解できるようになるまでは、こういった罰で悪い行動を教えてもらったんだ。
『そんなに大事なことを一人で決めて……。伊吹だけが重荷を負って喜ぶ私だと思っているのか?』
かといって、今さら堤我との取り決めをこちらからなかったことにするわけにもいかない。それは俺もお姉さんもわかっている。
『今後、堤我から仕事を依頼された際は必ず私に伊吹を守らせてほしい』
舌が解放される。
お姉さんの美しい指先が俺の唾液なんかで汚れちゃって、なんだか申し訳ない。
「……っぷは……! うん、そうするね。勝手に決めてごめんなさい」
挽霧さんは満足そうに微笑んでくれた。
半開きになった俺の口にやわらかい唇が触れる。
キスをするようになったのは、夫婦になってからだ。
挽霧さんは俺にくっついて常杜の郷公園に訪れるようになった。良い思い出のある場所ではないだろうに、俺に何かあった時に備えて心配してくれているんだ。
はぁ、お姉さん大好き。無理はしないでね。
何事もなく数日間がすぎたころ、スマホに登録された星澪沙からの連絡が届く。公園の事務所内に出没したヤスデをティッシュに包んで外に逃がした直後のことだった。
電話だ。なんだろう、急ぎの用事か?
――あ、ああっ、綱分さん! お、落ち着いて聞いてくださいねっ!!
焦った声が聞こえてくる。
「はい。星澪沙さんも深呼吸した方が良さそうですけど」
――鞠ちゃんにあの件を相談したら、怒っちゃって……。綱分さんにすごくご迷惑をかけてしまうかもですっ!
稲門昏鞠がこっちに向かっているらしい。俺に絡んでくる気満々で。
「それは困りましたね。勤務時間中なのに。わかりました、こちらで対処しておきます」
どこか他人事のようなテンションで受け応える。
仕事に悪影響が出ないかが気がかりだが、それ以外は特に心配はしていない。俺が隠れるなり、挽霧さんの霧で鞠を惑わしてもらうなり、どうとでもやりすごせる。
――あっ、つっ、綱分さん! これから私も向かいますから! もしも私が間に合わなくて、鞠ちゃんがその……手を出してくるようなら……。その時はお互いにケガをしないていどに抑えこんであげてくださいね。




