29・善悪は水波のごとし
応接室のソファに腰かけたまま、俺は動じるそぶりを見せない。
危うい状況だけど、この場にお姉さんがいなくて良かった。挽霧さんは安全な場所にいる。不幸中の大きな幸いだ。
「怪しいとは感じたけど、私の思い違いだったら良いなって思っていました。体の具合が悪いって聞いて、大丈夫かなぁって心配だったのに、騙していたんですね……! 悪質です。許せません」
「そういうあなたは人を騙すのが下手ですね。堤我星澪沙さん」
「何です? ちゃんと反省してくださいっ! そんなことが得意でも少しも自慢になりませんよ。意図的に怪異を逃がした件について、それなりの覚悟はしてもらいますからね……っ」
霊園のそばの泉で会った時から思っていた。星澪沙には狡猾さが不足している。
「あなたにとって大きな得を手にするか、それを逃すかの分岐点にいます。あなたは賢く才能があるのに善良すぎるのが玉に瑕です。ウソをつくのも、演技するのも、人を傷つけるのも苦手なようですし」
淡々と、少し上から目線で、まったく悪びれるようすもなく話す俺を見て、お人好しの星澪沙も怪訝な顔だ。
「苦手で何が悪いんです? そ、そんなの普通に生きていれば、どれも必要ない特技じゃないですか」
普通に生きていれば、だって。
堤我星澪沙。あなたはそうとう恵まれてるよ。
「神をも封じるあの御幣。星澪沙さん、あなたの技術はあまりに異質で貴重です。金と権威に目がくらんだ良からぬ連中まで呼び寄せてしまうほどに」
そういう事態が実際に起きているのかはしらない。どうでもいい。交渉を有利に進めるための説得力さえあれば良い。
金と権威という言葉を出した時、星澪沙の表情にわずかなな影が落ちたのを俺は見逃さなかった。少しは思い当たる節でもあるんだな。
よし、売りこもう。
「あなたが安心して研究に専念するために、後ろ暗い雑用でも危険な頼み事でも遠慮なく任せられる協力者……ほしくないですか?」
「え、えぇ……わ、私はそんなこと、まわりの人にさせたりしませんっ!」
「でしょうね。俺を怪しんでいたのに、誰かを同席させることもしなかった」
星澪沙の性格上、この手のトラブル対応を頼める者がいないのだ。
家族同然だった老人の死をきっかけに驚異の発明に乗り出した人だ。迷惑をかけてしまうような要件を身近な人に割り振ったりなんてできないのだろう。
「……もしも私の発明品が原因で厄介なトラブルが起きたとしても、その時は、その……、ちゃんとした専門の警備の方を雇えば良いだけの話です」
「怪異がらみの事柄についてどう説明すれば常識的な大人からの理解が得られるか、今からよく考えておいた方が良さそうですね。俺なら、その手間は省けますよ」
悔しそうに星澪沙が黙りこんだ。
しばらくして、はっきりしない動きで首を横に振る。
「あんなズルい方法でこちらを騙した人を信用する気にはなれません……」
「……あなたにとって家族同然だったおじいさんが大切な存在であるように、俺にも大切な存在がいる。あなたは町の人たちの安全を気にかけましたね。俺はある人の自由を守りたい」
不思議そうにまばたきを繰り返してから、星澪沙が問いかける。
「あのぅ……それって……。綱分さんの大切な人っていうのは……」
「急に行方不明になって、必死に居場所を突き止めて……あの蔵の中からようやく解放できたんです。俺の命の恩人で、何よりも大切に思っています」
穏やかな口調をたもったままで、責めるような視線をチラリと星澪沙にむける。
「小細工で騙したことはお詫びします。ただ過去の俺の立場からすれば、あなた側がとんでもない悪人に見えてたって事情を充分考慮した上で判断してくださるとありがたいですね」
敵対せず見逃してもらうだけなら、協力者にまでなる必要はない。
俺が求めてる見返りは二つ。
「俺みたいな人間の弱みを握りながらこき使えるのって、めったにないチャンスじゃないですか? 金銭の報酬はいりません。俺の大事な人がこの土地でずっと自由に安全に暮らせることが俺の一番の望みです。俺が生きている間も、死んだ後も……。もう一つは、人に大きな危害を加えるような神霊以外を蔵から解放してもらうことです」
「え、ええっと……」
星澪沙は眉間にシワを寄せて考えこんだ。
「綱分さんの恩人……すでに蔵から解き放たれた怪異についてはごまかしが効きます。オ魔モリー手くんのシリアルナンバーを確認したのは私だけですから。ネズミの侵入による事故として、そのまま記録しておきましょう」
これで一安心だ。蔵から逃げ出した挽霧さんが今後もつけ狙われるといった展開は回避できた。
「ですが、もう一つのは、だ、ダメです……。たとえ無害な存在であっても、すでに捕まっている怪異を私の一存で逃がしたりはできません」
常杜の郷公園の蔵に関わっているのは星澪沙だけではないのだという。
祟りの木を切ったおじいさんの死をきっかけに、神霊を封印するシステムを作ったのは堤我家の星澪沙だ。
封印場所となる蔵は稲門昏家が提供し、内部の設備を新しく整えた。
そして研究開発のための資金は塩来路家が出している。
たしかにこれはもう星澪沙一人の考えだけでどうこうできそうにない。
「ひとまずはお姉さんに……俺と縁のある水の神さまには手出ししないって取り決めさえ結べれば、それで構いません」
星澪沙がうつむきがちに頷いた。ほかの事柄については決断を保留。
「そう……ですね。公園での勤務は引き続きお願いします。あ、あの、でも妙なことはやめてくださいね……?」
「もちろんです。こちらの約束も守っていただける限りは」




