23・角化粧
流しそうめんの後片付けでいつもより少し遅い帰宅。
稲門昏や堤我の娘に公園で会ったことを挽霧さんに告げる。
相手側の目線では、俺を怪しまないわけがない。
俺と出会った泉に設置した御幣がなくなり、俺が担当している祠から霊力が消えているのだから。
『伊吹に疑いの目が向きつつある』
ちゃぶ台の横で冷たいお茶を飲んでいると、俺の背中に心地良い重みが加わった。背中から優しく抱きしめられている。
こういう時だけは自分の小柄な体も悪くないって思える。
『身の危険を感じたら……何を捨て置いてでも自分の安全を優先すること』
「……」
はい、とは返事をしない。黙ったまま俺の体に回されたお姉さんの腕をなでた。
夫婦の契りさえかわした挽霧さんのことを俺は人前で堂々と妻と呼べないのが悔しい。七夕の公園で受けた勘違いをまだ少し引きずっていた。
俺自身もわかっていることだけど、人の法では何一つ定義されない関係だ。こんなに好きなのに。
俺の鼓動の高ぶりはお姉さんに見抜かれてしまったらしい。
部屋の電気が音もなく暗さを増した。
なめらかな黒髪が俺の指の間をするりと抜けていく。俺の毛髪とは、長さだけじゃなく手触りまで違っている。ただ触れているだけでもうっとりする質感だ。
向かい合って座り、俺はお姉さんの長くキレイな髪に触れていた。
うっかり引っぱったりして不快感を与えないよう細心の注意を払い、しっとりとした髪をなでる。神聖な滝を思わせる豊かな髪に俺の手を忍びこませると、清流に指先をひたした錯覚におちいる。
白い肌と黒い髪のコントラストは、ほの灯りの下でも鮮やかだった。
挽霧さんのお団子髪にそっと手を伸ばしたら、少し身じろぎされて距離を空けられた。
「ごめんね。イヤだった?」
『……そういうわけでは……。ただ、心の準備が……』
二本の角みたいなお団子髪は、実際に角を土台に髪を巻きつけてある。
『私の角など見ても、なんの面白みもないとは思うが……。興味があるのなら、髪をほどいてもかまわない』
緊張した面持ちでそう言いながら、挽霧さんは俺の手を取りお団子髪まで導いた。
可愛らしい三角形で、見ようによっては猫耳ヘアっぽくもある。
「うん。お姉さんの角、よく見てみたい」
探るような手つきで、お団子に巻かれている髪の間に指を一本侵入させた。つややかな髪の流れをかき分けると、こすれ合ってサラサラとかすかな音がする。
俺の指先がツンとしたものに触れた。
たしかに髪の奥に芯がある。ただ、想像していたよりは硬くない。
確認のためにもっとよく触れてみる。
『……、ぁ……』
角の深部にはしっかりとした骨のような硬質な組織がある。その表面は肌や肉のやわらかさに近い。
挽霧さんの反応からして角は繊細な部位のようだ。
「髪を全部ほどいちゃうね」
挽霧さんは目を伏せがちにコクリとうなづく。
こんなにも丁寧に結われた髪をこれからわざと崩していくなんて。お姉さんから了承を得ても、背徳感がぬぐいきれない。
冬の朝の、霜柱を踏み壊すような。
陽光に輝いて飛ぶ、シャボン玉を突き壊すような。
美しく作り上げられたものを俺の手で壊しても良いと。許された。そう望まれた。
痛い思いをさせないように気をつけて、慎重に髪をほどく。その間、俺は集中のあまり呼吸をとめていた。
はらり、と。髪がほどけて、昔話の鬼をほうふつとさせる短めの二本角が空気にさらされた。
再開した俺の呼吸。深く息を吸った後のため息にも似た熱い呼気が、ふっと角にかかる。
『んん……』
角の根元と先端で色に差があった。先の方は青紫に見える。
『こんなもの……見苦しくはないか……?』
自信のなさそうな弱々しい声で挽霧さんが尋ねた。
「そんなことないよ。どうして?」
ためらいの間をおいて、お姉さんがぽつりとこぼす。
『以前は……澄んだ色をしていた。この地の流れに膨大な毒と芥が混ざるようになって以来、私の角も淀んでしまった』
俺は挽霧さんが大好きで、おどろおどろしい色を帯びた角もステキだなと見惚れていたけど、この角は最初からこの状態じゃなかったんだ。
今は水質が改善された都市部の河川もだんだんと増えてきている。それでも、コンクリートで固められた用水路が牧歌的な小川に戻れたわけじゃない。
さびしげなお姉さんの頭をなでる。
髪の流れを意識して優しく手を動かす。触れられていることが心地良くて安心するってお姉さんに思ってもらえるように。
頭のてっぺん。角の根元。前髪の生え際を通って耳へと。そしてうなじ。
うなじのくぼみに俺の指先がかかると、挽霧さんはかすかに肩を震わせた。
お姉さんにとって自信の持てないこの角を紐でキレイに飾ってみたいな。
「挽霧さんは……何色が好き?」
美しい所作で正座して、お姉さんが俺に飾ってもらうのを待ち望んでいる。淀みに染まった二本の角を髪で隠すことなく、さらけ出し。
俺の手にあるのは落ち着いた色合いの青い紐。古風に言うと縹色。そこに銀糸が含まれていて、薄明かりの下で水面みたいにきらめいた。
その紐で、角の根元からきゅっと縛り上げる。
『んっ』
「痛かった?」
『っ……、平気』
「少しだけガマンしてね。体が動いちゃうと上手くできないから。お願い」
すっと伸ばされた背中のラインを着物ごしになぞる。凛として品のある姿勢だ。
俺が青い紐を角に甘く絡ませ、時に過酷に締め上げていくと、挽霧さんの体勢にもだんだんと変化が起こる。
最初はあんなにきちんと楚々として座っていたのに、いつの間にかくたりと脱力し、姿勢が崩れてしまっている。
腰が反って、胸部が前に突き出される。
両手はもじもじとおきどころなく太ももあたりの布をつかみ、そのせいで着物の裾が乱れてふくらはぎが見えていた。
それでも俺のお願いに応えようとして、お姉さんがなるべく体の動きを抑えようと頑張っているのがわかった。ピクリと小刻みに震える体が、たまらなくいじらしく愛おしい。
「つらいの? もうすぐだよ」
首の裏側に手を回して、うなじをさすり上げる。
挽霧さんはうっとりとした目つきで吐息をこぼした。
禍々しい角に、青と銀の紐で清楚な化粧がほどこされる。
俺がかけた紐と挽霧さんの角で作り出されたそれは、芸術品のような佇まいでこの夜に生まれ出た。
「大好きだよ、挽霧さん」
そうだ。お礼もしたかったんだ。
お姉さんが作ってくれた不思議な食べもののおかげで、体の調子がとても良い。




