13・夜半の睦言
もう真夜中だ。
なのに昼間の出来事が頭の中をグルグル回って、布団に入っても寝つけないでいた。
霊園で見た三つの旧家の家紋。
常杜の郷公園で神さまを閉じこめている蔵は、稲門昏家のものであること。
市街地にも近い雑木林の中で、ひっそりと湧き出る小さな泉。
最高に可愛いイモリのうるつや肌とスレンダー尻尾。
怪しい御幣と機械の腕。
あのおどおどしたパッツン髪の若い女性は、稲門昏の人間ってことなんだろうか。
墓参りをしてきた、なんてことも言ってた気がする。稲門昏家のお墓はあの霊園にあった。
『伊吹。起きているか』
電気を消した暗い部屋。天井の方から挽霧さんの声が聞こえた。
「うん」
おぼろげな気配が俺の枕元へと移動する。
ほのかに、初夏に咲く花の香りがした。スイカズラのうるおいのある澄んだ甘さと、クチナシの深みのある重たげな妖艶さと、それから淡くふわりと白粉のやわらかさ。
お姉さんって良い匂い。
俺にとってはなつかしさを感じると同時に、子どものころからずっとくすぶり続けている恋心がかき立てられもする香りだ。
『……少し話をしてもかまわないだろうか』
これは大事な話だぞ。
俺の脳は完全に目覚めた。布団の上できちんと正座する。
……俺、もっとマシな格好なら良かった。こんなパジャマ代わりの着古した甚平じゃなくて、もっとほかに……。
ダメだ。寝る時には俺、ロクなもの着ていないや。どれもこれも色あせたTシャツとかヨレヨレのジャージとかだ。
『お前が幼いころ……、いつも私を困らせていた言葉があった』
「俺と結婚して」
『……まだ覚えているのだな』
苦笑代わりのため息が聞こえた。
「忘れてないよ。子どもだからって言われて、あしらわれてたこともね」
人ではないその体は、闇の中で白く浮かんで見える。
ふだんは涼やかで凛としたその表情に迷いが宿っていることも。
「今でも俺とお姉さんで夫婦になれたら良いのにって思ってる」
視線がふっと外された。
『……私は人間ではない』
「わかってるよ」
どんな姿でも好きって言ったでしょ。子どものころから何遍も。
挽霧さんが固く手を握りしめる音が聞こえる。
『神としての力も落ちぶれている。仮に……私を娶ったところで、人としての喜びも、人ならざる者から贈られる天恵も、伊吹に充分に与えられる気がしない』
ぽつぽつと、力ない言葉。
落ち着いた声なのに挽霧さんの深い諦めがひしひしと伝わってくる。
本当は今すぐ抱きしめたい。
お姉さんが悲しそうにしてる時、子どもの俺はどうすれば良いのかわからなくて、ぎゅっと抱きしめることぐらいしかできなかった。
大人になった俺は、ちょっとだけ器用になった。
こわばった心に寄りそう言葉を大切な人に届けられる。
「あなた以外には誰も、最愛の人とすごす幸せを俺に与えられないけどね」
挽霧さんが俺を見てくれている。まっすぐに。
「俺がもらっているかけがえのないものと、同じものを俺が挽霧さんに与えられているのなら。俺を夫にしてほしい」
正座した俺と向かい合う位置まで、挽霧さんがふわりと舞い降りてくる。
膝の上に置いていた俺の手をお姉さんの手が重なって、優しく包まれた。
『……うん』
鎖骨のあたりに心地良い重みが乗る。
お姉さんが俺にしなだれかかった。
しっとりした髪が俺の肌に触れてくすぐったい。
「指輪とかそういうの、俺、用意してなくて……」
『指輪?』
「あ、結婚した時に指輪をつける人間が多いんだ。挽霧さんも興味があるなら今度一緒に選ぶ?」
アクセサリーのデザインやらブランドやら、正直俺にはよくわからない。ダイヤモンドの価値もピンとこない。
でも素材でチタンとかタンタルって丈夫な金属の名前を聞くとちょっとときめく自分もいる。
『指輪か。その習慣は私にはあまりなじみがない。それに……姿をかき消したり野の生き物に変じた時に、伊吹の想いがこめられた大切な品をなくしてしまいそうで……』
挽霧さんは少し切なそうな顔をして、自分の左手を胸の前できゅっと握りしめた。
『契りの証なら、なくさないものが良い……』
今度は俺の小指を甘く優しく握る。
『伊吹が血を流し、本能に身を任せて堕ちた私のつけたアザが、まだここに残っている』
小さなアザの上を何度もなんども、お姉さんの人さし指でなでなでと行き来する。
『……私にも痕がほしい』
耳にささやかれた声から感じる、かすかな熱。
「痕……。でもわざとお姉さんを傷つけるのは、俺、したくないよ」
すぐ近くにいるからか、挽霧さんからほのかにただよう花に似た香りがふとした瞬間に俺の鼻をくすぐる。花に誘われ、虚空にとどまり、一心で蜜を吸うオオスカシバにでもなった心地だ。
花に誘われる虫みたいに、衝動の思うままに行動しそうな俺もいる。
それを理性で喰い止める。
俺だってドキドキしてる。オオスカシバのホバリングの羽ばたきぐらい、心臓がせわしない。呼吸だって、少し荒いよ。
でも挽霧さんを痛めつけるようなことはしたくないっていうのも俺の本心だ。
だけどお姉さんは証となるような痕を望んでいて……。
どうしたら想いに応えられるかな。
「……」
少し考えて、俺はお姉さんの細い小指をつかみ返した。
一瞬、怯えるみたいにぴくりと指先が跳ね上がったのに、抵抗しないで俺にすべてをゆだねてくれる。
水底の貝を思わせる白い耳に、今度は俺がささやいた。
「引き出しの中にキレイな赤い紐があるんだ」