無神論者の聖女様
目を覚ましたとき、彼女は大理石の祭壇の上に寝かされていた。天井は高く、アーチの間にはステンドグラスが輝き、壁には黄金の装飾。白と銀のローブをまとった男女が周囲を取り囲み、まるで奇跡を目にしたかのような表情でひざまずいている。
「聖女様……!」
「……どなた?」
それが彼女の第一声だった。かすれた声だったが、堂内に響き渡った。
目をこする暇もなく、白髭の神官がひとり、震える手で聖印を切りながら前に進み出た。
「貴女こそ、神の御使い。我らを救うため、天より遣わされた聖女様です。」
「……ちょっと待って。状況がわからない。私、ただの大学院生です。研究テーマは宗教社会学で、いま“神はいない”って結論を書いてるところだったんですけど。」
その瞬間、場の空気が止まった。
静寂。呼吸音すらも消えたように感じた。
「……なんと?」
「神が……いない……?」
神官たちが顔を見合わせ、ざわつき始める。動揺、恐れ、困惑、そして怒りの気配が波のように広がった。
「この者は……異端なのでは?」
「あるいは悪魔の使い……?」
彼女は慌てて手を上げた。
「ちょっと待って。別に誰かを否定したいとかじゃなくて、信仰って社会構造と不可分だから、それを——」
「沈黙を!」
そのとき、一人の年老いた神官が杖を強く打ち鳴らし、場を制した。老いた目が彼女を見据える。
「……この者は確かに、『神はいない』と申した。しかし、それもまた神の御意志に違いない!」
「……は?」
耳を疑ったのは、むしろ彼女のほうだった。
「神は全知であらせられる。ならば、無神を唱える者すら、その導きのもとにある。我らの理解の及ばぬところに、より深き真理があるのだ!」
「深き信仰の試練……!」
「あるいは、真理の彼方から来た存在ゆえ、我らの言葉で『神はいない』としか言えぬのだ……!」
「無神論こそが、もっとも神に近しい思索なのでは……!」
各々勝手な解釈で納得し始めた神官たちを見て、彼女は頭を抱えた。
「だから、違うってば……」
かくして彼女は、無神論者のまま、神の御使いとして迎え入れられたのである。
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最初の奇跡は、病を制したことだった。
神殿には、日に日に高熱と咳に苦しむ民が運び込まれていた。呻き声と咳の音が絶えず響き、神官たちは香を焚き、聖水を振りかけ、祈りを捧げる儀式を繰り返していたが、症状は一向に改善しなかった。むしろ日を追うごとに、患者は増えていった。
「聖女様、この病は魔の風によりもたらされた呪いでございましょうか。すでに村が三つ、閉ざされました。」
神官の問いに、彼女は眉をひそめた。
「呪いじゃなくて、これは感染症ですよ。飛沫と接触、たぶん水系経路も混ざってる。パンデミックの前兆です。」
「パン……?」
「パンデミック。つまり、広域的な感染拡大。現代ではマスク、ワクチン、隔離措置が基本なんですけど、まぁないものは仕方ないから……代案でいくしかないですね」
彼女は神殿の一角に足を踏み入れ、目を凝らした。
湿気。寝台の間隔は狭く、患者は衰弱しきって咳を吐きながら、互いに身を寄せ合っていた。共用の水桶、濡れた布、洗われぬ寝具。医療とは程遠い、死を待つだけの場。
「……これはひどい。」
すぐさま彼女は神官を呼びつけ、会議を開いた。
「大切なことは、清潔な水、消毒、換気、そして隔離です。」
「消毒?清めの儀式をするのですか?」
「違います。エタノールと石けんを使います。」
彼女は即席の衛生管理区域を設け、手洗いと煮沸消毒を徹底させた。さらに、感染源になり得る水場を封鎖し、交差感染を防止する動線設計まで手を加えた。
「この液体で、手を洗ってください。いいですか、指と爪の隙間も忘れずに。」
「この水に火を通してから飲ませて。沸騰してから五分以上は保ってください。病原体が死にきらないと意味がないんです。」
「寝具は一日1回取り換えて、煮沸消毒すること。清潔さが命を救います。」
彼女は声を荒げることなく淡々と指示し、時には自ら桶を運び、手を洗い、診察に同席した。
神官たちは最初こそ戸惑い、「聖水の代わりに、ただの煮沸水を……?」と訝しんだが、やがて患者たちの容態が目に見えて良くなると、信仰よりも彼女の言葉を信じるようになっていった。
それでもなお、彼らの口から出てくるのは変わらぬ称賛だった。
「聖女様の奇跡だ……!」
「病魔を祓い、命をつなぐ聖なる技……!」
「いいえ、これは感染症学と公衆衛生の初歩です。」
やがて病は収束を迎え、患者の数は日々減少し、民の間には安堵の声が広がった。
そして、いつしか彼女の教えを実践する神官たちは「衛生の聖徒」と呼ばれ、煮沸の煙は「聖なる蒸気」と讃えられるようになった。
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次の奇跡は、災害予知だった。
ある雨の日、彼女は山間の村を訪れていた。最近になって急速に木が伐採され、斜面が露出していたのを見て、眉をひそめた。
「このままでは、土砂崩れが起きます。いますぐ避難準備を。」
「こんな小雨で崩れるなんて……」
「雨の量ではなく、地盤の保水力が問題です。森林が保っていた水分の調整機能が失われている。前兆現象も確認しました——小規模な地割れと水の濁りです。」
彼女は即席で地図を描き、危険区域と避難ルートを指定し、集会場に住民を集めた。説得のために、過去の類似事例や山崩れのメカニズムを簡潔に説明した。
「かつて別の土地で、同じように斜面の伐採後、三日目の雨で崩落が起きました。植生が失われると、水は地中に留まらず、重みを増して地盤を動かします。特に、あの東側の尾根筋が危険です。地割れと伏流水の濁りは、その兆候です。」
住民の中には半信半疑の者もいたが、彼女の落ち着いた口調と理路整然とした説明に、次第に不安の色が広がった。何より、先の疫病を鎮めた“聖女”の言葉という重みがあった。
彼女の指示に従って、避難用の荷をまとめ、家畜は高台へ移され、幼子や高齢者はすでに避難所へと移送された。
翌日、未明に豪雨がピークを迎え、予測どおり土砂崩れが発生。山肌が裂けるような音とともに、茶色い濁流が集落の一角を押し流した。倒壊した家屋もあったが、避難は完了しており、死傷者はゼロだった。
「神が聖女様に警告をお与えになったのだ!」
「違います。これは地形学と水文学の知見によるリスク評価です。」
彼女はそう答えたが、誰もその意味を正確には理解していなかった。ただ、目に見えない力が働いたと信じた方が、人々の心は穏やかでいられた。
災害のあとは、村の土が傷み、谷筋には新たな土砂が堆積していた。彼女は現地を歩き、地質と傾斜、日照の条件を確認すると、山腹に適切な間隔で植栽する計画を立てた。
「根が浅くて早く育つもの、深く張って土を支えるもの、両方必要です。間隔は斜面の角度と土質で変えます。崩れた部分には石積みを……あとは水の流れを変える簡易な排水路も掘りましょう。」
苗木の種類と配置、根の張り方まで図示した設計図を手渡すと、村人たちは神妙な面持ちでそれを眺めた。
「これが……聖女様の、再生の巻物……!」
村人はその設計図を村の祭具殿に収めようとしたが、聖女は首を振った。
「読まれなければ書いた意味がないじゃないですか。誰でも読めるように内容を複製し、周知させてください。」
数ヵ月後、斜面には若木の列が風に揺れていた。木々はまだ頼りなかったが、確かに大地に根を張っていた。再びの災いを防ごうと、村人たちは手作業で水路を掘り、苗に水をやり続けた。
「これもまた、奇跡ですね。」と誰かが言った。
彼女は静かに首を振った。
「奇跡じゃない。知識と、それを信じて行動した人たちの努力の結果です。」
だが、その声もやはり風に流され、神殿ではまた一つ、“聖女の奇跡”として語られることとなった。
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3つ目の課題は、飢えだった。
「今年の作物は不作です……神がこの地をお見捨てになったのでしょうか。」
干からびた畑を前に、老農夫が肩を落としていた。
彼女は早速畑に足を運び、土を掬い、草を裂き、茎の色と葉の斑点を確かめた。測定器具はなかったが、水分の含有量を感覚で、pHは草の生育具合や雑草の種類から読み取った。目視で病害虫の痕跡を確認し、畝と畝の間を歩きながら記録していく。
「連作障害により窒素・リン酸・カリウムが消耗し、また微生物の多様性も失われている。さらに、使ってる種子が遺伝的に脆弱です。」
「種が、脆弱……?」
「そう。植物の性質は遺伝子によって決まります。望ましい特性を持った個体同士を掛け合わせて、次世代にそれを伝える——これが選抜育種。」
彼女は農民たちを集め、麦の粒を並べて発芽率の調べ方を教え、病気に強い株の選び方を解説した。更に、遺伝子がどのように保持され、次世代へ伝わるのか、それを農業にどのように応用できるかを説明した。誰にでも理解できるように、図を描き、言葉を噛み砕いて伝えた。
土壌改善にも取り組んだ。家畜の糞、枯葉、食べ残しを用いて堆肥をつくり、腐葉土の役割や微生物の働きを説明した。田畑に交互にマメ科植物を植える輪作の計画も立て、地力の回復を促した。
「とはいえ、有機肥料だけでは供給が追いつかないわね……」
彼女はふと周囲を見渡すと、たまたま近くを通っていた羊がブッと屁をこいた。
「す、すみません。いくら家畜と言えど、聖女様の前で屁をこくなど……」
羊の飼い主は慌てて頭を下げたが、聖女はそれどころではなかった。
「屁……メタン……水素……そうだ、天然ガス由来の水素と空気中の窒素を固定できれば、アンモニアの合成ができる!そうすれば、化学肥料の自給が可能になり、大量の穀物の生産が可能になるはず!」
彼女は鉄触媒を使った高温高圧反応の原理を図に描き、鍛冶師と協力して小型の圧力容器を試作させた。やがて、彼女はこの世界で最初の化学肥料工房を築き上げる。
「聖女様が空気から肥料を生んだ……!」
「これは、ハーバー・ボッシュ法によるアンモニア合成です。」
やがて、1つ目の畑に緑が戻り、次第に実りが広がっていった。小麦は豊かに実り、豆は土を肥やし、果樹は以前よりも甘い実をつけた。村の食卓からは空腹の影が消え、保存食も余るようになった。
数年後、彼女の設計した農場は爆発的な収穫量をもたらし、周辺の村々は食糧を買いに列をなし、ついには都市にまで作物を輸出するまでになった。かつて貧しかった村は「豊穣の地」として知られるようになり、領主すら視察に訪れた。
「流石聖女様、神の奇跡を起こすとは!」
「いや、これは先人達の科学への貢献によって生み出された賜物です。神はいません。」
それでも、彼女が手を入れた圃場は“聖園”と呼ばれ、中央神殿により正式に“聖地”として認定された。そこに生まれた果実は「加護を受けた実」と呼ばれ、儀式用の供物として用いられるようになった。
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そして、統治制度の変革が迫った。
彼女が教えを広めた土地は豊かになり、他国の王が視察に訪れるようになった。
「我が国にも神の教えを取り入れたい。……最近は隣国で革命が起こり、王政が崩れ去ったようだ。我が国でも同様の機運が高まり、このままではいつ処刑されるのかとおちおち夜も眠れぬ。どうか、助けてくれないか。」
王の言葉に、彼女は静かに紅茶を啜った。
「それなら、立憲君主制を導入してください。王は国家の象徴とし、実際の政策は議会によって決定されます。二院制を採用し、庶民を代表する下院、貴族や学識者による上院に分け、法案は両院で議論されます。王は権力こそ失いますが、民衆の不満は晴れ、貴方が処刑されることもないでしょう。」
彼女は三権分立、議会の監査機構、公開討論会など、近代政治制度の基礎を丁寧に書き上げた憲章にして差し出した。
「……それは神の設計なのか?」
「神はいません。これは歴史と政治哲学の産物です。」
それでも王は深く頷いた。
「貴女こそ、時代を導く神の声……」
彼女の草案は、最初は宮廷内で激しい反発を招いた。
「下賤な民に口を開かせれば国が乱れる。」
「神の代理人たる王が権威を譲るなど、天地が逆転する。」
貴族たちはそう口々に叫んだが、革命を望む民が貴族を襲う事件が頻発し始めると、次第に受け入れる姿勢を見せ始めた。このまま革命で処刑されてしまうくらいなら、上院として貴族の形だけでも残す道を選ぶ方がが利口だと悟ったからだ。
彼女は国に依頼されるなり、すぐに市民向けの公開講座を開き、印刷機で議会制度の概要を配布した。言葉は壁に貼られ、広場で読み上げられ、民衆の間に代議と法の概念が根を張り始めていた。
「民は愚かではありません。ただ、情報と手段がなかっただけです。」
彼女はそう言って、地方代表による投票制度の試験導入を促した。一定の納税者に選挙権を認め、試験的に地域行政の代表を選ばせたところ、地元の民は政策に納得し、不満が解消されやすくなった。
これにより王は徐々に理解した——恐れるべきは民ではなく、変化を拒む自らの古い制度であることを。
やがて国には議会が誕生し、民の声が政策に反映されるようになった。
隣国のように革命で血は流れず、穏やかに変革をもたらすことができたのは、間違いなく聖女のお陰であった。
王は儀式において静かに王冠を掲げ、「民の信を得てこそ、真の王である」と宣言した。
憲章は国宝として神殿に納められ、彼女の名はその巻頭に記された——「聖なる設計者」として。
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数十年後、年老いた彼女は神殿の屋上から町を見下ろしていた。
清潔な水、十分な食料、教育を受けた子どもたち、議論する議員たち——そして誰もが、信仰そのものよりも知識を信じていた。
「……結局、聖女ってなんだったんだろうね。私、ただの無神論者の院生だったのに。」
彼女はつぶやき、紅茶を啜った。
その横で、元神官の老人が微笑む。
「それでも、貴女がこの世界に救いをもたらしてくれました。」
「私がもたらしたのは、冷たい現実と合理性だけですよ。」
「それこそが、我らの神だったのかもしれませんな。」
彼の言葉に、彼女は肩をすくめた。
「じゃあ次は、宇宙論でも教えますか。」
そして彼女は、今日も神の名を借りて、神の不在を証明している。