会社にゾンビ
「あー、君、君」
「え、はい……。部長、お疲れ様です」
廊下を歩いていたおれは、背後からかかった声に振り返った。そこにいたのは、弛んだ頬を揺らしながら近づいてくる部長だった。ツカツカと靴音を響かせ、額にはじっとりと汗が滲んでいる。
「うん。それで、どこに行くんだね?」
「えっと、夜勤明けなので、いったん家に帰ろうかと……」
「じゃあ、手が空いているわけだ。ちょっと来てくれ」
「え、でも……」
「なあに、すぐ済むよ。実はこれから採用面接があるんだが、担当するはずだった社員が飛んでね。代わりに君が担当してくれよ。私も同席するからさ」
「え、でも、部長が担当されるなら私は必要ないんじゃ……」
「面接官が一人じゃ締まらないじゃないか。さあ、行こう。ほら、ネクタイを正して。髪も整えなさいよ。私がやってあげよう」
「あ! だ、大丈夫です。自分でやります」
部長が舐めた手をおれに近づけてきたので、慌てて距離を取った。
「そうか? じゃあ行こう」
断り切れず、おれは部長の背中に続いて面接室へ向かった。部屋に入り、椅子に腰を下ろす。部長のどうでもいい話に適当に相槌を打ちながら待っていると、「コン、ドン!」という不均一なノック音が響いた。
「どうぞー……え? え?」
「さあ、その椅子に座って。履歴書はすでに届いているからね。えー、名前は……」
「いや、ぶ、部長」
「なんだね、遮るんじゃないよ」
「い、いや、あの人……」
おれは驚いた。ドアが開いた瞬間、鼻を刺すような異臭が流れ込んできた。中に入ってきたのは、ボロボロのスーツに包まれた男。青白い肌に、虚ろな目。頭の一部が剥がれ、そこから黒ずんだ液体が滲んでいる。どう見ても、これは――
「ゾ、ゾンビですよ!」
「君ねえ……」
部長は机に肘をつき、呆れたような顔でおれを見て、ため息をついた。おれは構わず言った。
「お、おっしゃりたいことはわかります。荒唐無稽だって。でも、あの見た目は完全に、し、死んでますって
……」
「あのねえ、君。自分を客観的に見られないんだな」
「……はい?」
「君だって、お世辞にも見た目が整っているとは言えないよ。臭いし」
「いや、それは夜勤明けですからしょうがないじゃないですか……」
「目は細いし、鼻は大きいし」
「それは関係ないでしょ」
「さて、それじゃ、始めようか」
ゾンビは軋むような音を立てながら椅子に座り、うめき声を上げた。もしかすると、『よろしくお願いします』と言ったのかもしれない。意思疎通ができるならゾンビではないのか? よくわからなくなってきた。寝ていないせいか、思考が混乱する。頭痛までしてきた。
「ははは、緊張しなくていいからね。うちはアットホームな会社だからさ。なあ!」
「は、ははは……」
「えーっと、おお、いい大学を出てるなあ。将来有望じゃないか」
「いや、ないでしょう。将来なんて」
「そういえば、聡明な顔つきをしているな」
「どこがですか。ところどころ剥がれてるじゃないですか」
「前職は製薬会社の薬品開発をしてたんだね。どうしてうちに来ようと思ったんだい?」
「クビになったんでしょ。ゾンビですもん」
「君、さっきからなんだね。圧迫面接か?」
「いや、違いますけど……あれ? この製薬会社って何週間か前に、何か問題起きてませんでしたっけ……あの、もしかして、それが原因で彼は……」
「おいおい、彼が問題を起こしてクビになったとでも言いたいのか?」
「いや、そうじゃなくて、それでゾンビになったんじゃないんですか!?」
「まだゾンビだなんて言っているのか。君ねえ、彼に失礼だろう」
「いや、ゾンビですってば! さっきから会話してないじゃないですか」
「緊張してるんだよ」
「いろいろと緩んで見えますけど……。あ! ほら、お腹のあたりを見てください! あれ、よく見たらネクタイの端っこじゃなくて腸ですよ! 腸!」
吐き気が込み上げた。前を留めたスーツのボタンの隙間から覗いていたのは、青黒く変色した腸の先端だったのだ。薄く粘液のようなものが絡みつき、かすかに揺れている。
「君がそうやって余計な茶々を入れるから会話ができないんだ! もう黙りなさい。えー、では、気を取り直して、あなたの強みはなんですか?」
「だから、答えられないでしょう……」
おれはゾンビをちらりと見た。ゾンビは考えるように首を傾げた。皮膚がチーズのように伸びてちぎれ、口をもそもそと動かしたかと思うと、歯がぽろりと抜け、三回跳ねておれの足元に転がった。
「強みは……死んでも……働ける……ことです……」
部長は満足げに頷き、大笑いした。おれは乾いた笑いを浮かべながら、悟った。
たぶん、彼は合格だろう。
面接を終え、会社を出た途端、目眩がした。寝不足に加えて、あのグロテスクな絵面にもう限界だった。ふと、これは夢なのではないか、そんな気さえした。だが、このしんどさは紛れもなく現実だろう。
「はあ……あ、先輩……?」
駅へ向かおうとすると、前方から見覚えのある姿が歩いてくるのが見えた。足を引きずり、体は不自然に傾き、腕は奇妙な角度で曲がっている。すれ違うとき会釈したが、目を合わせてもらえなかった。
二つとも、どこかに落としてしまったのだろう。
面接を担当するはずだったのは、彼だったんだ。
家に帰ったおれは、まずシャワーを浴びた。驚くほど髪の毛が抜けた。排水口に溜まるそれを眺めていると、ふいに子供の頃、風呂場で父親が髪を切ってくれた記憶が蘇った。
風呂場から出て、部屋で息をつくと、壁にかかった時計が視界に入った。
「ああぁ……寝る時間……ない」
おれは仕方なく、重たい体で出社の準備を始めた。